《じっくり解説》聖書釈義とは?

聖書釈義とは?

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聖書釈義…

1.語意.<復> 「釈義」([英語]エクシジーシス,exegesis)は,「外へ」を意味する接頭辞エク(ス)(ek〔ex〕)と「指導者となる」を意味する動詞ヘーゲオマイ(he~geomai)の複合動詞[ギリシャ語]エクセーゲオマイ(exe~geomai)から生れた.この動詞は新約聖書では「話す」(ルカ24:35,使徒15:12,21:19),「説き明かす」(ヨハネ1:18),「説明する」(使徒10:8,15:14)と訳されている.同じ接頭辞エク(ス)と同義語アゴー(ago~,導く)との複合動詞[ギリシャ語]エクサゴー(exago~)は,「連れ出す」(マルコ15:20,ヨハネ10:3,使徒5:19,16:37),「連れて行く」(ルカ24:50),「外に出す」(使徒16:39),「引き連れて逃げる」(使徒21:38),「導き出す」(使徒7:36,40,13:17,ヘブル8:9),「救い出す」(使徒12:17)と訳されるが,その名詞[ギリシャ語]エクサゴーギス(exago~gis)は「注釈,欄外注」([英語]グロス,gloss)の意味に用いられた.エクセーゲオマイの派生名詞[ギリシャ語]エクセーゲーシス(exe~ge~sis)は「陳述や物語,説明,解説」を意味した.これらの名詞は新約聖書には出てこない.<復> 旧約聖書でこれに最も近い語としては,神の啓示である夢を「解き明かす」という動詞[ヘブル語]パーサル(pa~thar,創世40:8)とその名詞[ヘブル語]ピスローン(pithro~n)(同40:8「解き明かすこと」,40:12「解き明かし」)がある.アラム語の同語根動詞ペシァル(peshar)とその名詞ペシェル(pesher)は,ダニエルの夢の解き明かしに用いられ(ダニエル2:4,5,6等),壁に書かれた謎の文字の「解き明かし」にも用いられる(5:7,8,15,16).それは「読む」こと(カーラー,qa~ra~)と区別されている.<復> 通常は「破滅」(イザヤ30:14)や破壊を表す[ヘブル語]シェベル(she~ber)が,士師7:15では夢の「解釈」を表すのに用いられている.すべて,内に秘められた意味内容を外へ破って出す営みである.<復> このような謎の夢啓示や碑文の解明とよく似た働きを表すものとして,意味のわからない外国語の「通訳」がある(創世42:23).この[ヘブル語]メーリーツ(me~li^s∵)は一般には「代言者」と訳されている(Ⅱ歴代32:31,ヨブ33:23,イザヤ43:27).同じく翻訳を表す語としては[ヘブル語]タルゲーム(targe~m)があるが,これは「述べられていた」と訳されている(エズラ4:7).<復> 新約聖書では,この「訳す」という意味に[ギリシャ語]ヘルメーニューオー(herme~neuo~)(ヨハネ1:42,9:7,ヘブル7:2),ディエルメーニューオー(dierme~neuo~)(接頭辞ディア)(使徒9:36),メセルメーニューオー(metherme~neuo~)(接頭辞メタ)(マタイ1:23,マルコ5:41,15:22,34,ヨハネ1:38,41,使徒4:36)が用いられている.この[ギリシャ語]「ヘルメーニューオー」から「解釈術(学)」([英語]ハーメニューティックス,hermeneutics)という術語が生れた.「ディエルメーニューオー」はルカ24:27では「解き明かす」と訳されている.「解釈」(Ⅱペテロ1:20)と訳された[ギリシャ語]エピルーシス(epilusis)は解放したり釈放することを意味し,夢や謎の解き明かしにも用いられた.<復> このような聖書の用語例は,釈義や解釈という営みが翻訳・通訳とともに古くから行われていた周知のものであること,また一見して理解し得ない天啓の解説に不可欠なものとして聖書世界に親しいものであったことなどを教えてくれる.どのような書物でも,年代が隔たり国土が違えば特別に解説したり通訳したりすることは必要になるが,聖書の場合は,ただそのような一般書籍の常としてだけでなく,本来,釈義されるものとして生れたのである(参照ネヘミヤ8:8,使徒8:30,31).<復> 専門的な意味では,「釈義」と「講解」([英語]エクスポジション,exposition)との関係と相違が問題とされがちである.「講解」は,中世スコラ学者の間で,本文の行間または欄外に付された注釈であるグロス(gloss),教室で生れた注解であるポスティラ(postilla),教父たちの(抜粋でない)元のままの注解であるコメンタリー(commentary),教室の授業を学生が筆記し体系的に整理したセンテンス(sentences)に対比して,一般的な広義の注解という意味で用いられた術語であった.しかし今日ではおおむね,本文の一字一句を解明する働きを「釈義」,一連の文章の意味を解説するものを「講解」と呼ぶのが,慣例であろう.<復> 現代においてもっと議論されている問題は,「釈義」と「解釈」([英語]インタープレテーション,interpretation)の関係と相違である.この比較における「釈義」とは,元の著者や読者にとっての意味を明らかにする作業を指し,「解釈」とは現代の私たちに対する意味を明らかにする作業のこととされる.このような区別は,抽象的な理論としては成り立つけれども,少なくとも聖書の釈義と解釈においては,聖書を滅び行く罪人の救いにかかわる書として読むという意義を深く考えるならば,生死にかかわる人間への使信として古代人と現代人とにそれほどの差があるとは思えない.また,「釈義」によって原著者や原読者の理解した意味を明らかにするといっても,あくまでも現代人の概念を言語によって解明するのであるから,「解釈」と大差はなくなるはずである.従って,この区別はあくまでも程度の差,力点の置き所の相対的な違いであって,2種類の違った意味を引き出す別々の作業があるとは言えないであろう.<復> 2.基本的な原理.<復> (1) 内容的にも文学類型上も多種多様な内訳を持つ聖書であるが,究極的にはイエス・キリストをあかしすると明言されている(ルカ24:27,44,ヨハネ5:39,Ⅱテモテ3:15).そこで,聖書釈義は,どのような方法や技術を用いるにせよ,イエス・キリストについて知る上で意味を持つように営まれない限り,基本的には不十分である.<復> また,世界の数多くの古典の一つである聖書からイエス・キリストを知るに至らせる解説をなし得たのは,ひとり復活のキリストだけであった(ルカ24:25‐27,32,44‐47).それは換言すれば,キリストの遣わす「もうひとりの助け主」「真理の御霊」の導きにほかならない(ヨハネ14:16,17,26,15:26,16:7‐15).このように,聖書を解釈するに当ってその真意を悟らせる聖霊のみわざを「聖霊の内的啓明」と言うが,Ⅰコリント2:10‐15はこの内的啓明の必要性を教えている.「われわれが告白している聖書の解釈は,決して個人の力や公の人々の力や,また教会の力によってもできるのではなく,またいかなる人格や地位の優越さによってもなされず,聖書がそれによって書かれている神の御霊に属していることである」(「第1スコットランド信条」18,1560年,『信條集』前篇pp.304—5,新教出版社).<復> ここから,聖書を解釈するのは聖書自身であるという大原則が生れる.「この聖にして神的なる聖書は,まさにそれ自身からのみ,信仰と愛との規準によって,解釈され説明されるべきものである」(「第1スイス信条」2,1536年,『信条集』前篇p.281).古代の書である聖書を釈義する上で,考古学や歴史学などの諸科学の発見や理論がたびたび大きな助けを与えるけれども,それらはあくまでも伝統的聖書釈義の定説を反省させる契機となるにすぎず,聖書本文の意味を積極的に指定し断定するものとはなり得ない.もちろん,神は自然の書と聖書との双方によって人に語りかけておられるから,両者が矛盾対立するはずはなく,従って諸科学が自然と歴史について明らかにした事実に矛盾するような意味を聖書から釈義することはできないが,聖書の本文が何を語り教えているかを肯定的積極的に定めるのは,聖書それ自身であり,聖書において語りたもう聖霊である.<復> (2) 聖書がキリストをあかしするという教理に基づいて,聖書全体の至る所にキリストを見出そうとする熱心のあまり,古代と中世の教会では聖書の寓喩的解釈法が広がり,聖書本文に何重もの意味があると考えられるようになった.古代最大の聖書学者オーリゲネース(185年頃—254年頃)は,箴言22:20を「あなたは,思慮深さと学識をもって,これらのことを3回,あなたのために書き記しなさい」と訳し,これに基づいて聖書本文に歴史的・教訓的・霊的な三重の意味があると主張した(『諸原理について』4巻,小高毅訳,創文社).中世には四重の意味にまで増幅されるに至った.<復> 宗教改革者たちはこのような中世カトリック教会のほしいままな聖書解釈に反対して,聖書の文法的歴史的解釈を主張し,聖書の霊的意味は文法的意味に則して読み取られるものであることを明らかにした.「われわれは正しい純粋な聖書解釈のために,ローマ教会が主張するような聖書解釈を認めない.…われわれは聖書の正しい純粋な解釈のみを認める.それは聖書そのものから(すなわち,或る事情の下で聖書に書かれ,信ぜられた言葉の特質,また相似通り,相異なった多くの明らかな個所の比較によって示された言葉の特質により),信仰と愛の秩序に一致し,特に神の栄光と人間の救いを主張することである」(「第2スイス信条」2:1,1566年,『信條集』後篇p.45).「聖書解釈の誤りなき規範は,聖書それ自身である.従って,聖書のいずれかの書の真実にして充分なる意味(それはいろいろではなく一つである)に関して疑いがあるときには,それは,より明瞭に語られている他の個所によって調べられ,知られねばならない」(「ウェストミンスター信仰告白」1:9,1647年,『信條集』後篇p.185).<復> (3) 聖書がイエス・キリストをあかしするということは,聖書が統一体をなしているということを意味する.パウロが,今日の牧師の一教会在任期間と比べると比較的短い「3年の間」で,エペソ教会に「神のご計画の全体を,余すところなく」知らせておいたと言えたのは(使徒20:31,27),その間に聖書全巻を釈義し終えたという意味ではなく,聖書全体に一統一体としての「神のご計画の全体」が盛られていて,それを告知したという意味である.このように聖書全体にわたって一つの神の御計画の体系が教えられているというのは,聖書を神の啓示の書と信じる正典観からも必然的であろう.<復> すでに引用した宗教改革期の諸信条が「信仰と愛との規準によって」「信仰と愛の秩序に一致して」聖書解釈をすべきだと語っていたのは,この神の御計画全体の啓示の体系にのっとって個々の本文を釈義するということにほかならない.古代教会は,すでに正典の完成に当って使徒以来伝承された「信仰の規準([ラテン語]レギュラ・フィデイ,regula fidei)」を重要な指針としたが,当然,聖書の個々の本文を解釈する時にもこれとの一致を重んじた.それを「信仰の類比([ラテン語]アナロギア・フィデイ,analogia fidei)」によって,と表現してきたが,この句はローマ12:6「信仰に応じて([ギリシャ語]カタ・テーン・アナロギアン・テース・ピステオース,kata te~n analogian te~s pisteo~s)」の誤用から生じた.ローマ12:6「信仰」は個々人に賜った主観的信仰の意であるのに,カトリック教会が聖書解釈の原理として用いた術語の「信仰」とは,むしろ伝えられた信仰内容・教理のことだからである.<復> カトリック教会の「信仰の類比」が,教皇や会議や外典の声をも加味して形成されてきたために,宗教改革以後の教会は好んで「聖書の類比([ラテン語]アナロギア・スクリプチュライ,analogia scripturae)」という表現を用いてきた.これによって言わんとするところは要するに聖書の全体において啓示されている神の御計画全体の体系に照らして個々の本文を解釈する,という精神である.この原理は,近代の聖書解釈学の方法としては,全体の文脈に照らして個々の章句の意味を決定するという基本的な心得に相通ずるものがある.<復> 3.実際的な心得.<復> (1) 聖書において語っておられる神の御心を真に理解させて下さるのは神の御霊であるという教えは,聖霊を受けている信者には聖書を解釈することが可能であるということを意味する.そこで,宗教改革の主張の一つは,聖書の私的解釈,個人による聖書解釈の権利を主張することであった.マルティーン・ルター(1483—1546年)の宗教改革三大著作の一つ『ドイツのキリスト者貴族に与える書』は,カトリック教会の三大城壁の第2として「教皇のほかにはだれも聖書を講解する資格をもっていないことを規定する」ことを挙げ,それに対して,Ⅰコリント2:15,14:30,Ⅱコリント4:13,ヨハネ6:45などをもって個人の聖書解釈権を主張した(印具徹訳,聖文舎).<復> この聖書の私的解釈権は宗教改革の一大業績のように考えられがちであるが,歴史の事実としては,古代教会において聖書は各自が持って読むものとされていた.「もしあなたがたが家に留まっているのなら,律法と諸王の書を預言者の書とともに読み,ダビデの詩篇を歌い,その完成たる福音書を勤勉に熟読しなさい」「あなたがたの子供に主の御言葉を教えなさい.…彼らにキリスト教の神聖な聖書を教え,彼らに全聖書を渡しなさい」(『使徒教憲』1巻2:5,4巻2:11,4世紀).コンスタンティノポリスのクリュソストモス主教(347年頃—407年)も「魂の薬となる書物を手に入れよ.少なくとも新約聖書の使徒の働きと福音書は購入せよ」と勧め,アルルのカエサリウス(470—543年)も教会員はみな聖書を購入して冬の暗い期間は家で聖書を読むように命じた.<復> 宗教改革運動百年の総決算とも言うべき「ウェストミンスター大教理問答書」(1648年)は,個人の聖書解釈について詳しく教えている.「すべての種類の人々は,自分ひとりで(申命17:19,黙示1:3,ヨハネ5:39,イザヤ34:16),また家族と共に(申命6:6‐9,創世18:17,19,詩78:5‐7),み言葉を読まなければならない.その目的のために,聖書は,原語から自国語にほん訳されなければならない(Ⅰコリント14:6,9,11,12,15,16,24,27,28)」.「聖書は,高い敬けんな評価をもって(詩19:10,ネヘミヤ8:3‐6,10,出エジプト24:7,歴代下34:27,イザヤ66:2),聖書こそまさしく神のみ言葉であり(Ⅱペテロ1:19‐21),神のみがわたしたちに理解させることができるとの確信をもって(ルカ24:45,Ⅱコリント3:13‐16),聖書に啓示された神のみ心を知り・信じ・服従したいという願いをもって(申命17:10,20),勤勉に(行伝17:11),聖書の内容や範囲に注意して(行伝8:30,34,ルカ10:26‐28),めい想(詩1:2,119:97)と適用(歴代下34:21)と自己否定(箴3:5,申命33:3)と祈りをもって(箴2:1‐6,詩119:18,ネヘミヤ7:6,8),読まれなければならない」(問156,157,日本基督改革派教会・信条翻訳委員会訳,新教出版社).<復> (2) 聖書は神が信仰者を用いて書かせ神の民の間で保存収集させてできた書である.従って,聖書は本来教会の書でもある.Ⅱペテロ1:20「聖書の預言はみな,人の私的解釈を施してはならない」という戒めは,狭義の預言に限らず聖書全体にも当てはまる.聖書には教会の公的な解釈が伴ってきた.そこで,例えばパウロ書簡集の難解な箇所について「無知な」人たちが「曲解」すると「自分自身に滅びを招いてい」る,とも言われる(3:16).ここで言う「無知な」人とは,無教養で無学な人という意味ではなく,「学ばない」人,すなわち教会の公的解釈を学ぼうとしない人のことである.<復> そこで,一方では個人の聖書解釈権を主張した宗教改革は,他方では同じ熱心をもって教会による聖書解釈の重要性と,それに各人が傾聴することの必要性とを主張した.「はいそうです.第一にめいめいがこのために精を出さねばなりません.特にまた,この言葉がキリスト者の集いの中に説き明かされる説教に,われわれが通うべきであります」(『ジュネーブ教会信仰問答』問304,外山八郎訳,新教出版社).「ペテロは,『聖書は,すべて己がままに釈くべきではない』(ペテロ後書1:20)といっている.それゆえ,われわれは人の自由勝手な解釈を認めない」「われわれはラテン,ギリシヤの教父たちの解釈を決して軽視せず,聖書に一致した,聖なるものについての彼らの論議を拒否しない」(「第2スイス信条」2:1,2).このような教会の公的な聖書解釈が体系化されて,教会の信仰告白(信条)が数多く生み出されてきた.<復> 教会における公の説教や教育は,この教会信条という公的聖書解釈に基づいて行われる.従って,教会生活の中で聖書を読み学ぶ時,この公的解釈に基づいて個々の聖書本文の意味を学んでいるのであって,正しい聖書釈義は正しい教会生活の中でこそ営まれる,と言うことができる.→聖書解釈学.(榊原康夫)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社