《じっくり解説》創造の教理とは?

創造の教理とは?

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創造の教理…

キリスト教信仰の唯一無謬の規準である聖書は,神による天地創造物語をもって始まり,キリスト教信条の基本モデルである使徒信条も,天地の造り主なる神への信仰によって始まっている.それほどに創造の教理はキリスト教信仰にとって重要な信仰箇条である.<復> 1.創造の意味と特質.<復> (1) 創造の意味.創造を表す代表的なヘブル語バーラーの中心的神学的な意味は,単なる作製ではなく,神のみなし得る主権的,独占的行為としての創作である.この点はキリスト教会で伝統的に「無よりの創造」([ラテン語]creatio ex nihilo)と告白されてきた.この表現は,特に初期キリスト教の伝播していったヘレニズム世界における,二元論的世界観を背景にして正しく理解できる.そこでは,この宇宙には二つの対極的,永遠的原理が存在し,両者の相互作用により,現実の世界の諸事象が成立していると見られた.例えば,永遠のイデアを見やりながら,同じく永遠の混沌とした質料からこの秩序ある世界を形成したと言われる,プラトーンの『ティマイオス』に見られる,デミウルゴス神による世界創成物語などはその代表である.永遠生成説や流出説などは,グノーシス主義やマニ教などの,神との関連における世界理解であるが,これはキリスト教神学にも影響を及ぼした.<復> これに対してキリスト教会は,天地万有はすべて主なる神の主権的意志によって存在せしめられたと主張した.神はこの世界に秩序を与えて形成されただけではなく,その素材をも創作されたのであり,従って万物は神によってのみ存在し,成立し,機能しているのである.それゆえ無よりの創造は,世界の非自存性すなわち対神的,絶対的依存性と,神のみの永遠的自存性との告白なのである.<復> ちなみに「天」は創造記事自体においては天空を指すが,しかし古代人にとって天は,自然科学的思考になじんでいる近代人にとっての,物理空間的な意味での空ではなく,神の住まい,非日常的異次元を意味した.それゆえ「天地」の概念を広げて,可視的,経験的実在と不可視的,霊的実在の両方,文字通り全実在と解することは,応用的理解としては適切であろう.<復> (2) 6日間の創造.神学者たちはしばしば神による天地の創造を,世界の素材そのものを創造する第1(絶対)創造と,それを秩序付け,世界を形成する6日間の第2(形成)創造とを区別してきた.これは一方では前述のごとく,神の超越性及び全能性と世界の被造性及び依存性とを明確にするためであったが,他方,世界創造における神の賢慮と誠実を見,被造世界を神の意志と知恵を啓示するもの,神的秩序と調和を有するものとしてとらえ,また神の創造行為を人間の世界支配のための模範として理解することから,創世1章の6日間の創造物語を読んだためである.<復> しかし創造とは,時間を含めて,この現実在を存在せしめた神の始源的,本源的行為であり,すなわちそれ自体においては時間を超えている出来事である.それゆえこれを,時間的思考の中で,また時間秩序の固有性としての論理的展開において説明することは不適切であろう.世界の秩序と美が神的意志と知恵の反映であり,また6日間の働きと7日目の休みが人間の生の周期に対する神の意志であるなら,まさにそのように読むべきなのであって,世界の誕生についての形而上学的,合理的論証などのように読むべきではない.また6日間の1日を長大な天文学的1期間と解することも,聖書記事自体の意図に合わない.<復> (3) 創造と摂理.正統キリスト教神学においては,万物の存在の起源である神の創造とその被造物に対する神の時間的支配である摂理とが,密接に関連させられながらも,明確に区別されてきた.摂理との区別における創造の教理の基本的意図は,神と世界の本質的異別性の確保,すなわち神の創造者性と世界の被造性の強調,また創造行為の根源性と全一回性との強調である.この点が不明確な時には,世界を神と連続的,同質的にとらえる汎神論(pantheism)や,万物が神の中に存在するという万有在神論(panentheism)に陥る.<復> しかし他方創造と区別された摂理の教理の動機は,被造世界に対する神の主権的支配の存続,及び人間の自由と責任を含めて,被造世界における出来事の,神の主権的支配の進展の中での有意味的位置付けのためである.この点が見過されると,世界に対する神のかかわりを遮断し,世界自体の自己運動と特に人間の自律的生とを招来する理神論に陥る.この場合摂理を認めないで,なおかつ神の対世界的かかわりを唱えようとするなら,永遠創造説に赴くしかない.しかし永遠創造説は神の始源的わざの全一回的性質を否定し,さらに神の創造行為自体の未完成性ないし不十分性を認めることになる.しかし聖書によれば,完成していないのは原初的な創造のわざではなく,それに基づく摂理の働きである.神の創造の意志とわざとは創造論的(存在論的)には,堕落にかかわらず,原初より永続的恒常性を持っており,また契約論的(認識論的)にはキリストにおける贖罪により原理的に確立しているのである.<復> 2.創造記事.<復> 創世1,2章の天地創造記事の解釈は,創造の教理の理解の上で避けられない課題である.この両章を解釈するに際して,1:1‐2:3及び2:4‐25を,それぞれ一まとまりのものとしてとらえ,両者の共通性ないし類似性に留意しつつ,その相違性すなわちおのおのの基本的特徴に注目することが重要である.その際,進化論など現代の問題との関連から本文を読み込まないように注意しなければならない.<復> (1) 創世1章.創世1章の意図は,この現実世界の成立と運動を神の被造実在として,特に始源と終局の両方を持った,神の像(かたち)なる人間の支配を用いた神御自身の支配の内実及び過程として提示することにある.神は第1日から第6日までのすべての創造行為において主権的な言葉を発せられたが,そこに,この現実世界が神の絶対的な意志と知恵による創造と支配の結実として告白されている.特に神の支配の進展において人間の果すべき役割が明示されている.被造実在の本来的,究極的支配者は創造者なる神であるが,人間は神のそのような支配の進展と成就への参与へと召し出されており,そしてこの奉仕のわざは,神御自身による終末的,永遠的安息と聖別において総括され,成就するのである.<復> 第1章における神のかたちの意義は,男と女において存在する人間の世界支配にあると言わねばなるまい.他の被造物が「その種類にしたがって」創造されたと言われるのも,人間のかかる特質を強調するためである.この表現の文脈上の第一義的意図は,各被造物の近代生物学上の種別を述べることではなく,神と世界との関係における人間の特質を明示することにほかならない.それゆえ異種間の変化や転移が是か非かという関心は,聖書自体にはない.かくして創世1章は,神の世界創造と支配を,その始源から終局へと至る通時的展望において描写しているのである.<復> (2) 創世2章.第2章は上記の事柄を,人間の働きのほうに焦点を合せる仕方で描いている.そこでは,人はエデンの園を維持し,開発すべき特権と責任をゆだねられたものとして示されている.その場合,人が神の霊(=息)により,神とのいのちの契約の中に生きるべきことが,人がそのように扱われることの根拠及び条件なのである.人間は世界を支配し,その働きは終末的祝福にあずかるのだが,しかしそれは,人間自身が神の契約的支配に服従することを条件及び保証としてであった.また人は,同じく神のかたちに造られ,自らと同質の伴侶を助け手として与えられたが,これは,人間の世界支配とその進展が個人プレーではなく,共同体における営みであることを,またそこでは他の被造物に対するような支配ではなく,愛と信頼の交わりが,その基調であることを,教えている.<復> 人は自らにふさわしい助け手を他の被造物の中から捜そうとして,おのおのを命名したが,見付からなかった.しかし神が与えたもうた相手人格に,それを見出し得た.そして人はその相手を女と呼んだ.他の被造物への命名行為すなわち認識行為は,それらに対する支配の一貫である.しかし女への命名すなわち女として知る行為は,支配ではなく,交わりである.さらに神を知る行為は,服従である.こうして対神・対人・対世界の三重の関係の中に,人は生かされたのである.かくして創世2章は,神の支配についての,人間の働きに焦点を合せた共時的展望における描写なのである.<復> 3.創造の目的.<復> (1) 一般恩恵.すでに明らかなように,創造こそは被造実在に関する神の根源的なわざ及び意志であり,人間と世界との唯一の存立基盤及びその開示の出発点である.特に人間に対する神の根本的意志は,人間が対神的,対人的,対世界的関係において,言葉の最も深く,広く,かつ豊かな意味において生きること,すなわち「永遠のいのち」に生きることである.そして実はこれこそ,人間の堕罪後も貫徹すべき,神の永遠不変の主権的,恩恵的意志であった.さればこそ,神は最初の人の堕落後も,人の罪の破壊的作用が徹底的に及ぶことを許したまわず,またこれと相まって,御自身の死の刑罰をただちに完全に下したもうことなく,かえってそれらを抑制し,それによって世界の被造的構造と秩序及び人間性の諸機能を保持したもうたのである.<復> 神のこの抑制と保持の行為は,罪人を救う意味での恩恵ではないが,しかし救いの前提であり,また救いを指向した神の行為である.さらにそれは,神の国の進展に資するべき文化形成のための条件でもある.それゆえ罪と刑罰との抑制及び世界と人間の創造論的秩序の保持は,やはり神の愛顧であって,通常,一般恩恵あるいは共通恩恵と呼ばれている(創世9:1‐17.参照マタイ5:45,使徒14:17,17:25以下).<復> (2) 創造と救済.キリストによる救済も実は上記のような神の創造とその秩序の保持とを前提としている.新約聖書はキリストを第2のアダムとして表現し(Ⅰコリント15:45,47),また救いを神のかたちに従った更新として述べている(エペソ4:24,コロサイ3:10).すなわちキリストの贖罪は,最初の人アダムによるいのちの契約の失敗(罪への堕落と死の刑罰)にもかかわらず,それを克服し,創造の本来の目的(契約の永続的確立と永遠のいのちの享受,世界支配の進展と神の国の終末的成就)を完遂したもう神の主権的,恩恵的意志の適用と結実にほかならない.それはすでに堕落後の人間に神御自身が暗示された事柄であった(創世3:15).<復> 人類の代表たるアダムの堕落の罪責がその全成員に転嫁され,本性の腐敗が有機生命的に伝播されたごとく,新しいかしらなるキリストの十字架の死による罪の赦しと契約遵守による神の義とが,信仰によって彼に連なるすべての者に転嫁され,またその復活のいのちが聖霊によって霊的に注がれるのである.また霊的新生や信仰の成長も聖霊の主権的内住と導きの賜物であるが,しかしそもそも人間存在そのものが神の霊に生かされる存在であった(創世2:7).ペンテコステにおける聖霊降臨も,救済論的,救済史的には神の新たなみわざではあっても,それは創造の原理に異質な何かではなく,堕落により破壊され,歪曲された創造原理を回復し,確立する神御自身のみわざなのである.まさに救済が再創造と呼ばれるゆえんである.<復> 4.創造の教理の現代的意義.<復> 以上のことから明らかなように,創造の教理は聖書使信全体の,またキリスト教信仰と生活の土台であり,またそれについてのわれわれの解釈の基本的枠組みでもある.ここからさらにこの教理の内包する今日的意義も明らかとなってくる.<復> (1) 創造とキリスト教的世界観.まず第一に創造の教理は,聖書的,キリスト教的人生観・世界観の根本的構造と内容を提供する.世界観とは全実在(神・人・世界)についての,一定の視座における統一的把握であり,すべての人間が自覚的にあるいは無自覚的に持っている,人生と世界についての基本的前提と信念である.それゆえ世界観においてはその全体性と統一性が不可欠な要素となる.キリスト教宗教を,単に個人的救霊と倫理,神学研究,制度的教会の形成にのみかかわるものとしてでなく,人生と世界の全領域をその射程の中に含むべきものとして把握するためには,創造の教理を十分に考慮しなければならない.それは,創造の教理の中にすでに,人生と世界のためのキリストの救済,聖霊の教導及び終末的進展と完成の視座が与えられているからである.<復> キリスト者は,この世界と人間の生の全領域の構造とその秩序を分析,認識し,それらについての知識を獲得,集積,修正して,現実の生と働きに応用し,実践していくべきであり,そこにキリスト者としての広範な文化的,学問的営みの特権と責任とがある.<復> 一方では,罪への堕落の由々しさはいささかも軽視されてはならない.人間本性の全体が堕落し,腐敗しており,キリストの救いと聖霊の聖めにあずかるまでは,神の前に健全な部分などあり得ず,また道徳的修行や学問的研鑽を含め,あらゆる自力救済は不可能である(ローマ3:23).しかし他方,キリストの贖いの宇宙論的意義もまたいささかも軽視されてはならない.この世界はキリストによって,彼にあって創造され,保持され,支配されているのである(ヨハネ1:3,コロサイ1:16,17,ヘブル1:3).創造と救済との統一的,統合的世界観の確立こそ,今日の思想的多様性と相対性の混乱の中で,キリスト者の首尾一貫した,しかも全体的な視野における生と働きのために,不可欠の課題なのである.<復> (2) 創造の教理と進化論.次に,創造の教理との関連で,多くの福音主義的キリスト者が持つ今日的な関心事の一つに,進化論がある.進化論はC・ダーウィンの『種の起源』(1859)が公刊されて以来,保守的神学者の間で,無神論の最高形態のものとか,悪魔のしわざなどとさえ見なされ,またそれと相まって様々の弁証ないし調和策が講じられてきた.<復> 例えば,(a)創世1章の記事を文字通りに解釈し,1日を24時間,地球の年代を約1万年,人類の歴史を約6千年と見,現今の生物の多種多様性を神の直接的,個別的創造の所産と見る「瞬間創造説」,(b)創世1:1の天地創造と2節以下の情況との間に原初の創造の破局と長大な時の経過と再建的創造とを見て,これまでに発見された初期の人類の化石を,アダム以前のその時期のものとする「ギャップ説」,(c)1章の最初のアダムを旧石器時代に属するものとし,現在の人類の直接的祖先を,新石器時代に属する2章のアダムであると見る「アダム2人説」,(d)創造物語は,人間の対神的依存性と神の恩恵からの堕落とを象徴的,比喩的に述べていると見,神が進化過程の中で人間を創造したと解釈し,聖書は神の万物創造自体を教えるがその過程を語らず,それゆえ科学が進化観念によってその過程を説明するという「有神的進化説」,(e)1日を天文学的年代と見て,地球と生物学的諸発見との古さを容認し,また種の間の変移を低次元では認めるが(自然の諸条件による同種属間での変化),高次元では認めない(例えば無機物から有機物へ,猿から人への変化)「漸進的創造説」などはその代表例である.これらはいずれも,聖書教理を擁護し,聖書記事と科学的諸発見とを調和させるための企図である.<復> 聖書的立場から進化論を考察する際,われわれは進化論の,創造の教理との関連における問題の所在,創造物語の本来の意図,及び生物学的仮説との進化説の蓋然性を,注意深く区別しておかなければ,この議論は不毛である.われわれはまず,人間が「神のかたち」として,他の被造物と本質的に異なり,それゆえ人間は進化の系列には入らないことを明確に自覚しなければならない.人間は他の被造物を支配するが,人間同士には支配=服従の関係はない.この点は今日の人間の尊厳性と人権問題の考察にとっても死活的に重要である.進化諸説に共通な,(生物学説を超えて)全体主義的性格をとる自然主義的,汎神論的世界観とその思考は絶対に受け入れられない.またわれわれは,「種類にしたがって」の(既述の真意とともに)含蓄ないし応用的意義をも汲み取らねばならない.無生物,微生物,植物,動物という基本的分類は,それらのおのおのの不可還元的特殊性のゆえに,妥当であり,また一般に生態学上の基本的な区系界(kingdom)とされている事実に注目することが肝要であろう.<復> しかしわれわれはまた,創造記事の意図が生物学上の現象の説明ではないことを知らねばならない.それゆえ進化説を論難する場合,それに代る生物学的諸説を提示しなければならない.異種間の変移を言う場合,通常の分類(界・門・綱・目・科・属・種)のどの次元において可能なのか.この分類自体が不変的なのか.これらはまさに生物学の課題である.キリスト者生物学者は神学的教説の上にその学説を立てるのでなく,まずすべての生物学所説を検討し,その適否や蓋然性を検討すべきである.→進化論,神のかたち,霊魂の起源,創造主.<復>〔参考文献〕A・M・ウォルタース『キリスト者の世界観—創造の回復』日本基督改革派教会西部中会文書委員会,1989;Bavinck, H., Gereformeerde Dogmatiek, Ⅱ, J. H. Kok, 1976; Durand, J. J. F., Skepping, Mens, Voorsienigheid, NGKB, 1982.(市川康則)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社