《じっくり解説》福音とは?

福音とは?

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福音…

1.語義.<復> 「福音」とは[ギリシャ語]ユーアンゲリオンの訳語である.このギリシヤ語は,「良い」という意味の[ギリシャ語]ユーという語と,「使者」という意味の[ギリシャ語]アンゲロスという語が合体してできた語である.[ギリシャ語]ユーアンゲリオンは,古典ギリシヤ語においては,ホメロス以来戦いにおいて勝利を得た場合や,危機を脱出した場合などに,そのことを報告した使者に与えられる報酬を意味していた.アッティカ方言では常に複数形で用いられ,吉報がもたらされたことに対して感謝のしるしとして神々にささげた犠牲の供え物を意味していた.しかしその後,使者が報告した内容それ自体,すなわち良い知らせを意味するようになった.小アジヤのプリエネで発見された前9年の碑文によれば,皇帝アウグストの誕生日に,「世界にとって喜ばしい知らせ([ギリシャ語]ユーアンゲリア,[ギリシャ語]ユーアンゲリオンの複数形)の始まり」と歓呼したと述べられている.教会教父の時代になると,[ギリシャ語]ユーアンゲリオンは書き記された文書としての福音書を意味するものとして用いられるようになった(参照『ディダケー』8:2,『クレメンスの手紙第2』8:5,ユスティノス『弁明』1:66).旧約聖書のギリシヤ語訳である70人訳においては,名詞形としては[ギリシャ語]ユーアンゲリアが1度だけ使われているが,この場合は「良い知らせの報い」という古典的意味で用いられている(参照Ⅱサムエル4:10).動詞形[ギリシャ語]ユーアンゲリゾマイは詩篇96:2に用いられ,主の救いの「良い知らせを告げる」という意味に用いられている.イザヤ書においては,分詞形の[ギリシャ語]ユーアンゲリゾメノスが形容詞的に用いられ,「良い知らせを伝える(者)」(イザヤ40:9),「良い知らせを伝える(足)」(同52:7)という意味に用いられ,動詞[ギリシャ語]ユーアンゲリゾマイは「良い知らせを伝える」という意味に用いられている(同60:6,61:1).これらの場合「良い知らせ」とは古典ギリシヤ語のような戦勝の吉報というような意味ではなく,より宗教的な意味での,バビロン捕囚からの解放や,神がイスラエルに約束された救い主による救いと解放の知らせを意味していることが,前後の文脈から明らかである.また,イザヤ61:1では[ギリシャ語]ユーアンゲリゾマイと[ギリシャ語]ケーリュッソー(宣べ伝える)という動詞が並行的に用いられており,両者はほとんど同義と考えられる.これらの70人訳の用語は新約聖書の用語に大きな影響を与えたと考えられる.新約聖書では,70人訳にはほとんど見出されなかった名詞形を多く用いている.この語は旧約において待望されていたメシヤ,すなわちイエス・キリストによる救いについての良い知らせを意味している.<復> 2.新約聖書における用例.<復> 日本語訳(新改訳)の聖書には,「福音」という語は少なくとも112回現れる.これらのうちには,名詞の[ギリシャ語]ユーアンゲリオンを訳したもの,動詞の[ギリシャ語]ユーアンゲリゾマイを訳したもののほかに,[ギリシャ語]ケーリュッソーを訳したものも含まれている.[ギリシャ語]ケーリュッソーは元来「告げ知らせる」という意味であるが,しばしば,「福音を告げ知らせる」または「福音を宣べ伝える」という意味で用いられている(マルコ1:38,3:14,ルカ4:44等).逆に[ギリシャ語]ユーアンゲリゾマイが,単に「宣べる」とか「宣べ伝えられる」と訳されている場合もある(使徒5:42,8:4,12,35等).[ギリシャ語]ユーアンゲリオンは新約聖書において少なくとも75回用いられているが,そのうち福音書には12回,使徒の働きには2回,パウロ書簡には59回,公同書簡には1回(Ⅰペテロ4:17),ヨハネの黙示録に1回(14:6)用いられている.このように,この語は圧倒的にパウロ書簡に多く用いられている.また福音書ではマタイが4回,マルコが8回用いているが,ルカとヨハネは全く用いていないということも注目すべき事実である.しかし,ルカは動詞形[ギリシャ語]ユーアンゲリゾマイを福音書においては10回,使徒の働きにおいては15回用いている.それにしてもヨハネは福音書においても書簡においても,動詞形も一度も用いていない(黙示録において名詞形を1回,動詞形を2回,10:7と14:6に用いているのは,例外と考えてよいであろう).パウロ書簡においては,この動詞形は19回とやはり多く用いられている.その他は福音書に1回(マタイ11:5),公同書簡に7回(上記の黙示録の2回以外には,ヘブル4:2,6,Ⅰペテロ1:12,25,4:6)用いられているので,この動詞は新約全体では少なくとも52回用いられていることになる.<復> 3.新約聖書における福音の概念.<復> (1) 福音書と使徒の働き.福音書によれば,福音はイエスがガリラヤ伝道を開始すると同時に彼によって宣べ伝えられた(マタイ4:23,マルコ1:14).しかも「神の福音」(マルコ1:14)と言われているところから,この福音は神に属するものであり,神から与えられた福音であった.この福音の内容はマルコ1:15に要約されているように,「時が満ち,神の国は近くなった.悔い改めて福音を信じなさい」というものであった.イエスはナザレの会堂においてイザヤ書の巻き物を受け取り,61:1を朗読された(ルカ4:18).そして,「きょう,聖書のこのみことばが,あなたがたが聞いたとおり実現しました」(同4:21)と言って,イザヤが預言した「油を注がれた」者とは自分を指しており,自分の使命は「貧しい人々に福音を伝える」ことであると,この預言を通して明言された.この預言がメシヤであるイエスによって実現することにより,神が旧約において約束された救いの時は満ち,神の国は目前に近付いた.マルコは1:1で,「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と述べて,彼の福音書を書き始めている.このことは,福音がキリストによって最初に宣べ伝えられたということとは別に,福音はイエス・キリストの生涯全体に関するものであることを意味している.このことは,マルコ8:35,10:29において,「わたし」(イエスを指す)と「福音」が同格に置かれていることからも明らかである.イエスの生涯と人格は,イエスが語った福音の内容と一致するものであった.イエスは「神の国は近くなった」と語ったが,イエスの福音は神の国の実現と密接な関係を持っていた.そのことはマタイが「御国の福音」という表現を愛用したことによっても明らかにされている(マタイ4:23,9:35,24:14).神の国に入るためには,「悔い改めて福音を信じ」ることが必要であった(マルコ1:15.参照マタイ19:23‐26).イエスの福音は単に神の国の到来を告げただけでなく,終末における神の国の完成をも告げるものであった(マタイ24:14,マルコ13:10).それゆえ,福音は終末が来る前に全世界の(マタイ24:14)あらゆる民族に(マルコ13:10)宣べ伝えられなければならなかった.救いの福音はもはやユダヤ人だけに限定されるべきものではなく,民族の枠を越えて全世界に及ぶべきものであった.それゆえ,イエスは弟子たちに福音宣教の大命令を与え,全世界のすべての造られた者に福音を宣べ伝えるように言われたのである(マタイ28:19,20,マルコ16:15).<復> ルカは動詞のみを用いているが,思想的にはマルコやマタイと特に違う点はない.ルカ2:10では,御使いがイエスの誕生の際に「すばらしい喜びを知らせに来たのです」と語っているが,イエスの誕生自体が福音であり,しかも「すばらしい喜び」という福音の特質が強調されている.また,同8:1では「イエスは,神の国を説き([ギリシャ語]ケーリュッソー),その福音を宣べ伝えながら([ギリシャ語]ユーアンゲリゾマイ)」と述べて,[ギリシャ語]ケーリュッソーと[ギリシャ語]ユーアンゲリゾマイが並行的に使われて両者が同じ意味であることを示している.<復> ヨハネは「福音」を意味する語は名詞も動詞も使用していないが,それだからと言って彼は福音という思想を持っていなかったわけではない.むしろ彼は「ことば」([ギリシャ語]ロゴス)という語を愛用したので,この語の中に「福音」という意味をも含ませていたと考えられる.例えばヨハネ4:41では,サマリヤの人々が「イエスのことばによって信じた」と述べられているが,これは明らかにイエスが語った福音によって信じたのである.「わたしのことば」(同5:24,8:31,51)という表現も,イエスの語った福音を意味していたと言えよう.ついでながらⅠヨハネ1:1の「いのちのことば」もキリストの福音を指していると言えよう.このようにヨハネは「ことば」という語に「福音」という意味を持たせたのである.<復> 使徒の働きにおいては,当然福音を語る主体はイエスから使徒たちへと移っていく.パウロは「主イエスから受けた,神の恵みの福音をあかしする任務」(使徒20:24)と語って,このことを端的に示している.しかも,ここでは福音が神の恵みによるものであることが示されている.福音の宣教の対象もユダヤ人(同5:42)だけではなく,サマリヤ人(同8:12,25),エチオピヤ人の宦官(同8:35),シリヤのアンテオケのギリシヤ人(同11:20)などに拡大され,地域的にもパウロの伝道旅行によって広範囲にわたった.彼らの福音宣教の内容は,その説教(使徒2,3,4,10章.→本辞典「ケリュグマ」の項)によって明確に示されているが,特に「イエスがキリストであること」(5:42),「神の国とイエス・キリストの御名」(8:12),「イエスと復活」(17:18)に重点が置かれていた.そしてその性格はキリストによる平和をもたらすものであった(10:36).使徒たちは福音を宣べ伝えることにより,罪を悔い改め,生ける神に立ち返ることを要請した(14:15).このように,使徒たちの宣教は,イエスの福音宣教と本質的に共通するものであった.<復> (2) パウロ書簡における福音の概念.パウロにとって,福音は何よりもまず「神の福音」であった(ローマ1:1,15:16,Ⅱコリント11:7,Ⅰテサロニケ2:2,8,9).この福音は旧約聖書において神が預言者たちを通して約束されたものであり,キリストがダビデの子孫として生れ,十字架の上で私たちの罪のために死に,葬られ,3日目に死人の中からよみがえり,大能によって公に神の子として示されることによって実現された(ローマ1:2‐4,Ⅰコリント15:1‐4).パウロはこの福音のメッセージを初代のエルサレム教会から受けた(Ⅰコリント15:3).従って,内容的には使徒の働きにおけるペテロの説教(使徒2,3,4章)と基本的には同じであると言える.パウロが宣べ伝えた福音のメッセージの中心は神の子イエス・キリストであった.それゆえ彼は「御子の福音」(ローマ1:9)とか,「キリストの福音」とも言っている(ローマ15:19,Ⅰコリント9:12,Ⅱコリント2:12,9:13,10:14,ガラテヤ1:7,Ⅰテサロニケ3:2).そのほかに,「私たちの主イエスの福音」(Ⅱテサロニケ1:8)という表現も用いられているが,これらは意味においては同じである.しかし,これらの表現のほかに,パウロの独特なものとして,彼は「私の福音」(ローマ2:16,16:25,Ⅱテモテ2:8),あるいは「私たちの福音」(Ⅱコリント4:3,Ⅰテサロニケ1:5,Ⅱテサロニケ2:14)という表現を用いている.パウロはなぜ「私の福音」と言ったのであろうか.これに対する答として,彼の表現の中に「異なった福音」(Ⅱコリント11:4),「ほかの福音」(ガラテヤ1:6)というものがあるのに気付く.すなわち,初代教会にはガラテヤの諸教会のようにユダヤ的律法主義による「ほかの福音」を宣べ伝える者や,コリント教会のようにパウロが宣べ伝えたのとは異なる「別のイエス」(恐らくグノーシス主義的神秘主義によるイエス)を宣べ伝える者がいたので,それらと区別するために,自分が宣べ伝えた福音という意味で「私の福音」という表現をことさらに用いたのであろう.パウロはこの正しい福音を人間から受けたのではなく,神からの啓示によって受けたと主張している(ガラテヤ1:11,12).そして福音の真理をどこまでも保持しようとした(同2:5).彼が伝えた福音の内容は,書簡においてより詳細に述べられている.すなわち,すべての人は罪人であり(ローマ3:23),生れながらに神の怒りを受けるべき者であった(エペソ2:3).しかし,神は罪人を愛して(ローマ5:8)身代りとしてキリストが十字架で死ぬことにより(Ⅱコリント5:21),罪を赦して義とし(ローマ4:24,Ⅱコリント5:21),神の怒りから救われる道を備えて下さった(ローマ5:9).この救いは神の恵みによるものであって(エペソ2:5),律法の行いによってではなく,ただ信仰によって与えられるものである(ガラテヤ2:16,エペソ2:8).キリストを信じる者は新しく造られた者であり(Ⅱコリント5:17),キリストの血による代価を払って買い取られて(Ⅰコリント6:20),神と和解し(ローマ5:10),罪の奴隷であった古い人が死んで,キリストにある新しいいのちによみがえらされる(ローマ6:4‐6).それだけでなく,キリストを信じる者は神の子とされ,神を「アバ,父」と呼ぶことができ(ローマ8:15,16),神の国を受け継ぐ相続人となる特権が与えられる(ローマ8:17,エペソ1:11).そして,キリストが再臨する時には栄光あるからだによみがえらされ(Ⅰコリント15:42,43,ピリピ3:21)天に引き上げられいつまでも主とともにいることができる(Ⅰテサロニケ4:17).それゆえパウロは福音を「救いの福音」(エペソ1:13),「平和の福音」(同6:15),「栄光の福音」(Ⅰテモテ1:11)と呼んでいる.パウロはこの福音を宣べ伝えるために使徒として召され(ローマ1:1),福音をゆだねられ(Ⅰテモテ1:11),キリストによって派遣された(Ⅰコリント1:17).それゆえ福音宣教は彼の当然の使命であり,福音を伝えないことは彼にとって災いであった(Ⅰコリント9:16).そのため彼は報酬を求めず(同9:18,Ⅱコリント11:7)働きながら伝道した(Ⅰテサロニケ2:9).しかも福音宣教のゆえに捕えられたが(ピレモン13節),それによって福音が前進した(ピリピ1:12).彼は幾人かを救うために「すべてのことを,福音のためにして」いる(Ⅰコリント9:23)と語っているが,このような福音宣教に対する情熱(ローマ1:15,15:20)は,彼の使命感(Ⅰコリント1:17)から来ている.そして人々に対しても福音にふさわしく生活し(ピリピ1:27),福音の望みから外れることがないように勧めている(コロサイ1:23).<復> (3) 公同書簡及びヨハネの黙示録における福音の概念.ヘブル人への手紙において[ギリシャ語]ユーアンゲリゾマイが2回用いられているが(4:2,6),いずれも旧約時代のイスラエルが心をかたくなにして,神の安息に入れなかったことと対比して,読者に対して福音を聞いたなら,信仰をもって受け入れるように勧めている.この場合の福音の内容は示されていないが,使徒たちの語った内容と同じであったことは明らかである.Ⅰペテロでは動詞が3回(1:12,25,4:6),名詞が1回(4:17)用いられているが,福音は使徒たちが語った(1:12)キリストの苦難と栄光に関するメッセージであり(1:11),それを信じる者は新しく生れ変り(1:23,25),福音に従わない者はさばかれることが語られている(4:17).同4:6の死人にも福音が語られたという表現は解釈に問題があるが,生存中に福音を聞いて救われた後に死んだ人と理解するのがよいだろう(参照『新聖書注解・新約3』いのちのことば社).<復> ヨハネの黙示録においては動詞が2回(10:7,14:6)名詞が1回(14:6)用いられている.10:7では神の奥義が福音を通して宣べ伝えられたことを意味しており,エペソ6:19の「福音の奥義」を語ることと共通性がある.黙示録14:6の「永遠の福音」は,終りの時にすべての人に宣べ伝えるべき,永遠に有効なさばきの告知を指していると考えることができる.福音は信じる者には喜びの知らせであるが,悔い改めない者に対しては,さばきを告げる恐るべき知らせでもある.福音のこのような二面性は黙示録において10:10の「小さな巻き物」の甘さと苦さによって象徴的に表されている.以上公同書簡及びヨハネの黙示録における福音の概念を見てきたが,福音書やパウロ書簡と基本的に共通であることは明らかである.→ケリュグマ,宣教学,福音主義.<復>〔参考文献〕Kittel, G./Friedrich, G.(eds.), Theological Dictionary of the New Testament, Vol.2, Eerdmans, 1964 ; Bromiley, G. W. (gen. ed.), The International Standard Bible Encyclopedia, Vol.2, Eerdmans, 1982 ; Elwell, W. (ed.), Evangelical Dictionary of Theology, Baker, 1984.(山口 昇)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社