《じっくり解説》処女降誕とは?

処女降誕とは?

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処女降誕…

1.定義.<復> 「処女降誕」(The Virgin Birth)は,イエスが処女マリヤの胎内に人間の父親の介入なしに聖霊によって宿り,そして誕生したという新約聖書の証言(マタイ1:18‐25,ルカ1:26‐56,2:1‐7)である.この証言は,キリスト教会によってその歴史を通して主張され,ほとんどのおもな信条に含まれている.<復> 厳密に言えば,主イエスの誕生そのものは普通の人の場合と同じであり,超自然であるのは,その降誕ではなく,聖霊による処女懐胎(The Virginal Conception)である.<復> これは,イエスがその母の胎内に宿った時からマリヤには原罪がなかったというカトリックの教義「マリヤの無原罪のみごもり」(Immaculate Conception)と混同すべきではない.<復> 2.奇蹟理解.<復> 聖書によれば,イエス・キリストの処女降誕は,その復活と同じように歴史上に事実起った現象として記されている.その現象過程は人間にはわからない.またそれが事実起ったかどうかは,神とマリヤ当人以外には知ることは難しい.それゆえ両者とも認識の対象ではなく,信仰の対象であるから,問題はその証言を信じるかどうかである.<復> イエス・キリストの処女懐胎は,歴史上1回限りの超自然(反自然ではなく)的な,聖霊による出来事であるから,処女誕生(a virgin birth)とか処女懐胎(a virginal conception)という一般論とは区別されるべきものである.従って処女懐胎は人間の場合にはあり得ないという科学的論拠から,キリストの処女懐胎はあり得なかったと結論することは,科学の限界を無視する「科学主義」の立場であって,科学の本質とおよそ矛盾すると言わなければならない.<復> 聖書に記されている超自然的出来事の史実性を否定する根拠は,聖書の釈義にあるのではなく,奇蹟は起らないという現代人の考え方に基づく断定にある.これに対し,聖書は神による奇蹟は起ることを前提としている.<復> 3.本文の考察.<復> イエスの誕生に対する新約聖書の証言は,マタイの福音書(1:18‐25)とルカの福音書(1:26‐56,2:1‐7)とにある.<復> (1) マタイはイエスの処女降誕をはっきり記している(1:18,20,23,25).マタイによる系図もそれを支持する.マタイはメシヤの出るダビデ王の血統をたどり,ヨセフの誕生(1:16)まで「(父)が(子)を生んだ([ギリシャ語]エゲンネーセン)」とあるように能動態を用いている.しかしイエスの誕生(1:16)に至って正常な系図の型が破られ,「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった([ギリシャ語]エゲンネーセー)」という受動態が用いられ,夫ヨセフが除外されている(マタイ1:16の異読については,B・M・メツガー,A Textual Commentary on the Greek New Testamentを参照).<復> マタイ2:13に,主の使いによるヨセフへの御告げ「立って,(その)幼子とその(彼の)母を連れ,エジプトへ逃げなさい」がある.ここではヨセフとイエスとが実の父子でないことが暗示されている(参照マタイ2:14,20,21).さらにマタイは預言の成就として「わたし(主)はエジプトから,わたしの子を呼び出した」(2:15.参照ホセア11:1)と言うことによって,イエスが神の子であってヨセフの子でないことを示唆している(R・G・グロマキ).またマタイは使徒の権威で,イエスの処女降誕をイザヤ7:14の預言の成就としている.イザヤがこの誕生を「しるし」(異常な出来事.参照イザヤ38:7,8)とし,生れ出る男の子が「インマヌエル」と呼ばれるとしているところから,マタイがこの預言をキリストの処女降誕の預言とすることに無理はない.<復> (2) ルカによるイエスの誕生の記事では,「マリヤは御使いに言った.『どうしてそのようなことになりえましょう.私はまだ男の人を知りませんのに.』」(1:34)という一文がキリストの処女懐胎を確証する.それを裏付けるものとして,御使いによる老女エリサベツの受胎(1:36)と神の全能性(1:37)への言及があげられる.また1:26,27では「処女」という語が繰り返されて,後者に「この処女は,ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで…」とあるのは,ユダヤのいいなずけが処女であるのを考え合せると,イエスの処女懐胎を強調するためと思われる(T・M・ドーマン).<復> さらに「人々からヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)は,「事情を知らない人々からは,イエスはヨセフの実子であると思われていた」ということで,ルカはヨセフの法律上の系図を書くに当って,このこととイエスの処女降誕との衝突を防ぐためにその語句を挿入したと思われる.
4.歴史的・批評的考察.<復> (1) 聖書の証言.聖書本文に基づいてキリストの処女降誕の史実性を否定することはできないので,その否定論は,誕生記事の起源についての推測か,その記事の解釈によることになる.<復> a.一般的なものとして,追加説がある.マタイによる誕生記事(1,2章)が後からの追加であるという説については,1:22,23にあるマタイ独特の旧約預言の成就の引用句が2‐21章にわたってあることや,最初の2つの章の欠けた写本がないことは,追加説に対する反証である.ルカの福音書の最初の2つの章を追加とする説については,バプテスマのヨハネの誕生記事がイエスのそれとのかかわりで記されているとともに,両者の記事は3章まで続いているので,後からの追加とはとれない.またマタイとルカの誕生記事が両方とも非常にヘブライ的であるところから,その伝承の起源が初期のパレスチナであることはほぼ間違いない.<復> b.マタイの福音書とルカの福音書以外に処女降誕の記事がないのは,他の新約聖書の著者がその事実を知らなかったか,またはそれを否定したことの証拠とする者が多い.しかしこの沈黙からの論法は大変危険である.<復> ① パウロの手紙は,どれもその時々の状況に応じて書かれたものであって,聖書教理全体を組織的に述べようとしたものではない.それゆえ処女降誕に言及がなくても不思議ではない.この論法でいくと,Ⅰコリントが現在残っていなければ,パウロは主の晩餐について全然知らなかったか,それともそれを否定したことになる.<復> ② マルコの福音書に処女降誕への言及がないのは,古代の伝承(エウセビオス『教会史』3:39:15)のようにマルコの背後に使徒ペテロを考える時,ペテロは,公生涯に入ってからのイエスしか知らなかったからである.彼はまた「無学な,普通の人」(使徒4:13)であったので,イエスの生い立ちを調べるようなことはせず,ただ目撃したことだけをマルコに語り,マルコがそれを記したと思われる.<復> ③ ヨハネの場合は,既存の福音書の欠けたところを補うためにイエスの霊的な面を示す福音書を書いたという伝承(エウセビオス『教会史』6:14:7)があるように,処女降誕の代りに永遠のロゴスの受肉を記した.<復> ④ 使徒の働きの場合は,これがルカの福音書の続編であることと,使徒たちの説教の中心は十字架と復活で,処女降誕や再臨は回心した者が後で学ぶ教えであるからである.<復> ⑤ それでもマタイの福音書とルカの福音書以外にイエスの処女降誕を暗示するところが数箇所ある.例えば,父親がはっきりしている息子は父の名を付して呼ばれるのがユダヤの命名の習慣(例えば,バル・ヨナ〔ヨナの息子〕)であるが,イエスは「マリヤの子」(マルコ6:3)と呼ばれたり,パウロはイエスのことを「女から生まれ」(ガラテヤ4:4)というまれな言い方を使ったりしている.さらにヨハネの福音書では,イエスの反対者たちがイエスに対して「私たちは不品行によって生まれた者ではありません」(8:41)と言っているが,その裏には「あなたはそうである」ということが暗示され,ここにもイエスの異常な出生がほのめかされている.<復> c.懐疑的な見方として,イエスの身内の者がイエスは気が変になっていると思ったということ(マルコ3:20,21)は,彼らがイエスの超自然的誕生を知っていれば,ありそうにないという説がある.イエスの弟子たちが5千人の給食の奇蹟を身をもって体験しても,イエスの水上歩行を見て驚いたことを,マルコは「まだパンのことから悟るところがなく,その心は堅く閉じていたからである」(マルコ6:52)と説明している.イエスの身内の者でも弟子たちと同じ人間であるから,たといその事実を知っていても,何か異常なことに直面した時,先の経験が生かされないことはあり得ることである.<復> d.異教神話起源説については,異邦人キリスト者であれ,ユダヤ人キリスト者であれ,自分の主の誕生に忌わしい異教神話を取り入れたとは考えられない.異教神話には処女誕生の例がなく,しかもたいていは神と人間との性交によるものである.<復> e.以下,おもな神学上の解釈を見ることにする.<復> ① E・H・ブルンナーは,処女降誕は受肉の奇蹟を生物学的要因で説明しようとする試みであるとしてこれを否定し,キリストは男女両性が産み出したものとする.しかしマタイもルカも処女降誕の事実を率直に述べただけで,そこには何かを説明しようとする試みは全く見受けられない(A・リチャードスン).<復> ② K・バルトは処女降誕をキリストの受肉の秘義のサインであるとする.バルトにとってこのサインはただ単に知らせる手段であって,実在性の意味はない(岡田稔).復活のニュースに実在性がなければ,その復活は意味がない.復活のサインとしての空虚な墓に客観性がなければ復活は意味がないように,受肉のサインとしての処女降誕に客観性がなければ,受肉は意味がなくなる.<復> ③ R・K・ブルトマンは,キリストの処女降誕と先在性とは互いに矛盾であるとする.しかし使徒パウロはキリストの先在性と受肉とを一気に述べている(ピリピ2:6‐8).処女降誕は神の御子が人性をとるための手段である(H・N・リデルボス〔リダボス〕).科学で証明できないものを事実無根の神話とするブルトマンは,その神学を首尾一貫させるために神概念をまず非神話化して,それを取り除くべきであるが,それをしない(S・M・オグデン,藤原藤男).<復> ④ W・バークリ(バークレー)は,イエスが処女から生れたならその優越性のために私たちの模範になり得ないと言う.主イエスは私たちの模範である(Ⅰペテロ2:21)とともに救い主であることを忘れてはならない.彼によれば,処女降誕は受肉を不完全なものにし,イエスを神でも人でもない中途半端なものにすると言う.主イエスを完全に神であると同時に人とするのが処女降誕を通しての受肉である.処女降誕を文字通りに取るも,また男女両性によるものととるも自由であると彼は言う.処女降誕が受肉を不完全にするなら,それを拒否するほかないはずである.J・マーレイ(マリ)はこの態度を「欺瞞的寛容」(人を誤らせる寛容)(deceptive generosity)と言っている.<復> ⑤ 北森嘉蔵は,イエス・キリストの出生は処女降誕という異常な「現象」として語られているが,「聖書が真に語りたかったのは,イエス・キリストの本質的な意味としての『罪びとへの愛』という奇跡である」(『聖書の読み方』)と言う.彼は,現象は認識の対象で,本質は信仰の対象という前提に立って,初めから独断的に処女降誕を「現象」でなく「本質」であるときめ付ける.復活という現象は,その場に居合せなかった者にとっては信仰の対象になり得るはずである.処女降誕も現象であってそれと同じである.彼の解釈は処女降誕の史実性の思弁化にほかならない.<復> (2) 聖書後の証言.ユダヤ人の論争家やカルポクラテースやケーリントスのような極端な異端者は別として,処女降誕は2世紀のキリスト教の著述家たちによって受け入れられていた.使徒時代と境を接して生きていたアンテオケのイグナティオス,アリステイデース,殉教者ユスティノス,サルデスのメリトーン,エイレーナイオス,アレキサンドリアのクレーメンス,ヒッポリュトス,テルトゥリアーヌスなどはみな,この教理をキリスト教の根本的な教えと見なしていた.中でもイグナティオスは福音書とは別に独立した処女降誕の伝承に接していたと見る見方がある.オーリゲネースは,処女降誕はパンテラというローマ兵士とマリヤとの姦淫を隠すためにねつ造されたものであるというケルソスの嘲笑に対処した.<復> イグナティオスからトマス・アクィナスに至るまでの教会教父は,処女降誕を重要な教理としている.タティアノスからテルトゥリアーヌスまでは,処女降誕はロゴスがいかにして受肉したかの説明に用いられ,2世紀半ばにはグノーシス主義やキリスト仮現論とのキリスト論論争でイエスの真の人間性の説明に用いられた.その後,処女降誕に対する関心は,キリスト論から離れてマリヤの処女性に対する関心に移っていった.<復> キリストの処女降誕は,1世紀の教会のケリュグマ(宣教)の中心ではなかったが,最古のローマ洗礼告白(ローマ信条)の一部をなしている.テルトゥリアーヌスとエイレーナイオスがその信条を用いていることから,それは2世紀の中頃には存在していたはずである.定着しない教理がそのような簡潔で基本的な信条に組み入れられるはずはないので,その信条が成立した頃には,その教理は相当年数が経過していたと思われる.従って,処女降誕を含むその信条の基本概念は,初代教会の形成期にさかのぼると思われる.今日諸教会で使われている使徒信条のみならず,その他の多くの信条は,このローマ洗礼告白に由来している.<復> 5.処女降誕の意味.<復> 聖書はイエス・キリストの処女降誕を語るが,その意味については言及がない.教会史を通してその問題を解明するために多くの試みがなされてきた.まずイエスの神性を処女降誕に基づかせる試みがあるが,新約聖書はむしろ,それをキリストの先在に基づかせている(ピリピ2:1‐11,ヨハネ1:1‐3,コロサイ1:15‐17等).またイエスの無罪性をこの教理によく結び付けるが,聖書には両者に必然的関連性はない.<復> 人間は受胎を通して存在し始めるのであるが,イエス・キリストの場合はそうではなく,贖罪を目的として先在のキリスト(ヨハネ1:1,2,ピリピ2:6)が人間性をとるために(ピリピ2:7,8,ヨハネ1:14,ローマ8:3,ヘブル10:5)神が用いた独特な手段が,聖霊による懐胎を通しての処女降誕である.<復> この出来事の史実性を信じる根拠は聖書の証言であり,しいて言えば,聖書の権威を信じさせる聖霊のわざである.聖書がこの点で誤っているならば,復活のようなその他の超自然的出来事を信じる理由はなくなる.<復> キリストの処女懐胎による降誕は,救いにかかわるキリストの他の出来事,すなわち先在,十字架,復活,昇天,神の右への着座,再臨などと有機的関係があり,この教理は全体の中で欠くことのできない一部をなしている.キリストによる救済のための出来事を樹木にたとえる場合,十字架と復活を木の幹とすれば,処女降誕は陰でその幹を支える根に相当するものである.<復> 私たちの救い主が人のかたちをとって来臨するのに,主権者なる神が聖霊による懐胎と処女降誕を用いたのであるから,被造物がそれにどんな異議を唱えても,それが創造者にとって最善であったと信じるほかはない.→受肉,キリスト論,キリスト論論争.<復>〔参考文献〕Machen, J. G., The Virgin Birth of Christ, James Clarke & Co. Ltd., 1958 ; Boslooper, T., The Virgin Birth, SCM, 1962 ; Campenhausen, H. von, The Virgin Birth in the Theology of the Ancient Church, Allenson, 1964 ; Gromacki, R. G., The Virgin Birth‐Doctrine ofDeity, Baker, 1974 ; Douglas, E., The Virgin Birth in History and Faith, Faber, 1941 ; Brown, R. E., The Virginal Conception and Bodily Resurrection of Jesus,Paulist, 1973 ; Hanke, A. H., The Validity of the Virgin Birth, Zondervan, 1963 ; Dorman T. M., “Virgin Birth of Jesus Christ,”The International Standard Bible Encyclopedia (fully revised), Vol.4, Eerdmans, 1988;岡田稔『改革派教理学教本』新教出版社,1970.(野口 誠)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社