《じっくり解説》解放の神学とは?

解放の神学とは?

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解放の神学…

一般に解放の神学と呼ばれているものはラテンアメリカで1960年代後半に生れた運動のことで,その中心は依然としてローマ・カトリック教会である.解放の神学は旧来に見られる信仰の組織的表現ではなく,キリスト教信仰を貧しい人々と被抑圧者の視点から解釈しようとするものである.<復> 西欧の神学には信仰の問題,すなわち啓蒙主義以降の懐疑主義との闘いがあった.そこでは自然世界の中で超自然的なものの擁護が問題とされ,その問は「科学技術の世界において真理の神はどこにいるのか」であった.解放の神学は信仰の問題,すなわち植民地主義以降の搾取との闘いがある.貧困の世界にあって希望の模索が問題とされる.そこでの問は「この不公正の世界において正義の神はどこにいるのか」である.代表的な解放の神学者グスタボ・グティエレス(Gustavo Gutie´rrez)の言葉を借りれば,「解放の神学の出発点は貧しい人々,非人格者とされる人々へのコミットメントである.その思想は犠牲者から来る」.<復> 特に70年代からは解放の神学と共通の関心がラテンアメリカ以外の地域で起ってきた.米国におけるジェイムズ・コウン(James Cone)等による黒人神学は人種差別による抑圧に対して理論を展開し始めた.南アフリカにおける反人種隔離政策の黒人神学にもその影響が現れている.北アイルランドの闘争においても解放の神学に似たものが出ている.搾取と経済的抑圧という政治社会的状況の中で解放の神学は幅広く注目を引きつつある.<復> 1.起源と発展.<復> (1) 解放の神学の根本的な起源はキリスト教が数世紀にわたって支配し続けてきた地域における貧困,貧窮,経済的抑圧の体験である.解放の神学者たちはこの苦難を神のみこころに反するものとして考える.そしてキリスト者の良心に対する道徳的命令となってくる.「私たちは貧しい人々の側に立つ.それは彼らが善良であるからではなく,彼らが貧しいからである」とグティエレスは語る.こうした事態に対するキリスト者の対応はどうあるべきか.<復> (2) 解放の神学の神学的ルーツのあるものはヨーロッパにおける政治神学とユルゲン・モルトマンの希望の神学にたどることができる.ローマ・カトリック政治神学者J・B・メッツの影響は,解放の神学者たちが信仰の政治的面を強調し,教会を社会批判の組織と見ていることに現れている.モルトマンにおける終末論の政治的性格,及び歴史における解放の力としての希望の重視はグティエレスの多くの神学的テーマに明らかに見られる.D・ボーンヘファーの影響は宗教を世俗的文脈で再定義すること,教会と世界の二元論を拒否することに現れている.しかしながら解放の神学は「ヨーロッパ製」ではない.解放の神学者たちは西欧における議論は具体性を欠いていると批判する.すなわち彼らの神学的反省は抽象理論,イデオロギー的中立,悲惨な現実の無視,「本来のあるべきキリスト教」にとっての不公正な現実であると言う.<復> (3) 最大の神学的ルーツはローマ・カトリック教会の世との対話の姿勢である.第2ヴァチカン公会議(1962—65年)はその国の経済社会的状況を注視することへの新しい曲り角となった.ラテンアメリカの司祭にとっては貧しい人々に対するかかわり合いが深まり,過去において教会には敵対的産物であった共産主義,社会主義を再検討する機会を提供した.こうした流れの一大契機となったのが1968年南米コロンビアのメデリンで開かれたラテンアメリカ司教協議会(CELAM)第2回総会であった.<復> ヨハネス・パウルス2世(1978年— 在位)は解放の神学に対してはより保守的な態度をとってきた.1979年メキシコのプエブラでのCELAM第3回総会において教皇は解放の神学に対して警告を与えた.1984年には解放の神学者レオナルド・ボフに対する査問が行われ,「信仰の教理のための聖省の教え」が出され,特に解放の神学の行き過ぎに対して警告を与えた.<復> しかし,最近では微妙な違いも見せ始めている.1986年ヴァチカン教皇庁は「キリスト者の自由と解放に関する教え」を出した.これによると,教会は貧しい人々,経済的に抑圧された人々とともにあることの明確な決意を強調すると同時に,解放の神学には多様な形態があることを認めている.さらに,社会正義を実現させるために武器の使用を必要とするような経済的抑圧状態があることを示唆し,私有財産の取得より公共の善に対する優先性の原則を打ち出している.こうしたヴァチカン教皇庁の両面の態度は,ラテンアメリカにおける教会の伝統的教えを支持する人々と解放の神学を支持する人々との間に論争が依然として継続していることによるものである.<復> (4) ヴァチカン教皇庁と解放の神学の葛藤の主たる原因は解放の神学者たちによる一貫したマルクス主義の援用である.とはいえ,マルクス主義を政治哲学または政治行動の全体計画として採用するわけではない.社会分析の手段として利用するのである.中心は経済的抑圧のかぎとしての経済体制とその抑圧に対する闘争の場としての階級闘争であり,最近ではその階級闘争さえ制限しようとする傾向が見られると言う.ヴァチカン教皇庁のマルクス主義概念とその解釈に対する反対は明らかである.<復> 解放の神学者たちのマルクス主義援用については一様ではない.両者のかかわり合いについてはいろいろな違いがあるのが実情である.また解放の神学が一枚岩でないことは別の面からも指摘されている.ペルーに拠点を置く福音派の指導者の一人サムエル・エスコバルは解放の神学を三つに分類する.牧会的(グティエレス),学究的(ウーゴ・アスマン,セグンド),伝統的カトリックの立場を保持しながら一般受けする解放の神学の用語を使用する立場,この三つである.<復> 2.神学的方法論.<復> (1) 基本的姿勢:被抑圧者の解放.解放の神学は,神学は「下からの視点」,すなわち排除され,抑圧された者の苦悩から始められなければならないとする.それは貧しい人々への神学的コミットメントである.貧しい人々はあわれみの福音の対象ではなく,新しい人類の形成者(形成物ではない)として見られる.ソブリーノは「貧しい人々はキリスト教の真理と実践を理解するための真正な神学的資源である」と語る.<復> (2) 領域:具体的社会的状況をコンテキストとする.教会の宣教は歴史,すなわち解放のための歴史的闘争という視点から定義されなければならないと解放の神学は主張する.歴史的「今」という具体性から遊離して歴史の意味と目的を与えようとするいかなる神学的モデルもそれは観念的なものである.過去において神学は哲学的問に答を与えてきた—「移り行く世界の中で変らざる神をどのようにして信ずることができるのか」.しかし,今や神学は社会分析,政治,経済の問に答を示さなければならない—「貧しい人々を打ち砕き,その人間性を奪う社会の中で神をどうして信ずることができるのか」.私たちの聖書理解のための解釈の手段は「貧しい人々を優先的に選択する」というものである.<復> (3) 方法論:実践(praxis)と反省.神学はただ単に学習するものではなく実践すべきものである.それがどのようにして可能になるのか.「歴史的実践に対する批判的反省として」神学を見ることによってであるとグティエレスは語る.神学は実践の後に第2段階として続くのである.<復> 第1段階として実践がくる.私たちは抑圧された人々のために,また抑圧された人々とともにあって社会を刷新しようと決意する.実践(praxis)は理論抜きの経験,理論の応用以上のことを指す.それはマルクス主義による社会分析のための用語である.行動と反省の間を常に移行する二方通行を意味し,変革的行為によって世と弁証法的にかかわり合うことである.それは認識のための必須条件であり,人々が社会をただ単に理解するためではなく変革するためのものである.実践を通して人々は社会的歴史的流れの中に介入していくのである.<復> 3.釈義的教理的方向性.<復> (1) 解放の神学は聖書研究を抑圧された人々の視点から行おうとする.初期においては釈義研究は旧約,特に出エジプトに重点が置かれた.聖書記事は基本的に聖典としてではなく,貧しい人々の苦境に対する関心のためのモデル,あるいはパラダイムとして扱われた.最近では限りなく続く社会的不正義に対する闘いの中で捕囚の意味を再考する者も出てきた.新約における神の国の概念は幅広い注目を浴びてきた.こうした研究の中でキリストのわざ,キリストの貧しい者,抑圧された者とともにあることに関する文書が刊行されてきた.このように釈義的テーマが拡大してきたことが解放の神学のパラダイムモデルから分離していったことを意味するものではない.これは解放の神学が解釈学的手段をより先鋭にしていったことを示すものである.<復> (2) 解放の神学の学問的題目をキリスト教社会倫理の領域に押し込めてしまうのは誤解であろう.神学の古典的テーマは改めて注目を集めている.キリスト論,教会論では重要著作が現れている.解放の神学からの挑戦を受けてあらゆるものが改訂を迫られている.その挑戦とは,私たちの国の抑圧された人々にとってこの主題,真理の意味,意義は何かである.<復> 例えばレオナルド・ボフはキリストの人格とわざに関して解放の神学の重要主題を次のように要約している.(a)受肉の強調,特に人間イエスの社会的条件—貧しい者,労働者,あえて貧しくなられたこと,貧しい者たちに囲まれ,彼らとともにいたこと.(b)イエスの神の国—霊的な意味ばかりでなく物質的意味(飢え,悲しみ,侮蔑などからの解放)での本質的解放,歴史内において,また歴史を超えての—の使信の強調.(c)イエスの贖罪の死を時の権力者の陰謀による犠牲と見る見方.<復> 4.解放の神学の評価—否定的面,積極的面.<復> 伝統的神学の立場に立って解放の神学を批判の対象とすることは容易なことである.誤解と偏見の危険を知りつつ次の批判と問を投げかけてみたい. <復> (1) 解放の神学は究極的に救いの縦の面,神的側面に十分考慮を払っているか.解放の神学は,聖書の貧しさのテーマが霊的一辺倒の解釈に偏ってしまっていることに抗議するが(まさに正当な抗議である),そうすることによって逆に社会経済的次元に自らを埋れさせてはいないか.「神は抑圧された者の側にある」とは「抑圧された者は神の側にある」ということを意味するものではない.<復> (2) 解放の神学は,罪が私的なものに還元されてしまっていることに抗議するが(まさに正当な抗議である),逆に罪観をあまりに浅薄なものにしてしまってはいないか.聖書の罪の豊かな描写は解放の神学ではぼかされてはいないか.罪が神の怒りを引き起すのである.罪はサタンの奴隷である.霊的死の状態である.罪は全人格,全社会の病である.人間の罪性は貧困,経済的抑圧,人種,性,階級の差別,資本主義を単に除去するだけでは解決することのできない人間の深い堕落状態なのである.<復> (3) 解放の神学は贖罪論において無意識のうちに道徳感化説に陥る危険はないか.階級闘争終止前の福音の意味は何か.行動のための刺激剤か,到達目標か.御国の完成以前の福音の実在はあり得るのか.解放の神学はペラギウス主義であるとの批判があるが,それはこのためではないのか.政治経済社会的解放をもって救いに置き換えるのを避けるにはどうしたらよいのか.<復> (4) 階級闘争というマルクス主義イデオロギーは真に経済的抑圧の正しい理解の助けになっているか.自由競争原理がよって立つ楽観的理想主義よりその悲観的理想主義のほうが現実を正しく表現しているのか.解放の神学が階級闘争を不可侵の自律的原理として保護していることは救い主への信仰なしに終末倫理を維持しているようである.<復> (5) 聖書が実践または神学の第1段階を支配するということを解放の神学はどのように示すのか.行動と反省という実践の過程がマルキストの社会的衝突の前理解によって構成されてくる.これは実践の本質の理解において否定することのできない所与として受け取られている.しかしこれこそまさにキリスト教サイドからの批判である人間の自律性ではないのか.マルクス主義は人間理解において啓蒙主義の人間観に基づいている.解放の神学は神を解釈学的循環の第2段階のわきに封じ込めてしまっている.そうすることによって神に第二義的な役割しか割当てていない結果になるのである.<復> こうした否定的評価の一方で,解放の神学は福音派に対しても自己検討と服従のための新しい方向性を示す挑戦となっている.以下はその積極的評価である.<復> (1) 学問的神学が貧困という具体的な政治社会的問題から切り離されて,不毛な抽象的反省の中に逃避することがどうして許されるのか.神学が正義を行使し,排除された人々に対する愛情を持ったものとなるためにはどうしたらよいのか.<復> (2) すべての神学的反省が社会的コンテキストから生れることを認識しながら,しかも所与の普遍的原則をある特殊な状況の面に還元してしまうのを避けることがどのようにしてできるのか.神学を謙虚に実践する方法を作り出すためにはどうしたらよいのか.しかも私たち自身の限界を認識し,他者の文化と社会から生れる神学的反省を制約することなしにである.<復> (3) 聖書における社会文化的状況と解釈者自身の社会文化的前提に対する無関心について,より真剣に考慮する解釈学的方法を作り出すためにはどのようにしたらよいのか.<復> (4) 原則と応用の区別が福音の変革する力と社会とその構造の変革を結び付けるのを妨げていないだろうか.解釈学的過程の理解が行動と反省の間にギャップを生じさせ,これが知らず知らずにキリスト者の奉仕の姿勢を現状維持にとどまらせるようにしてはいないだろうか.<復> (5) 私たちはいかなる意味において貧しい人々へのコミットメントを聖書的に語ることができるだろうか.そのコミットメントが私たちの神学にいかなる影響を与えているか.イエスと御自身の教会の貧しい人々へのかかわりあいについての理解にどのような影響を与えるべきなのか.私たちの神学形成において教会が貧しい人々より中・上流階級に心を向けようとするような潜在意識が働いていないだろうか.<復> 5.解放の神学と日本の福音派.<復> 以上見てきたように,ラテンアメリカに端を発した解放の神学は日本の福音派にとっても決して無関係な運動ではない.90%以上の人々が中流階級以上という世界に例を見ない豊かな国日本での宣教は,第三世界の貧しさ,抑圧を肌で感じることはできない.いや巨大な資本をもって第三世界を抑圧する加害者であることすら認識していない.日本の福音派教会の神学と宣教も勢い中流階級意識に捕囚されたものになっており,よりきれいなもの,より急成長するもの,より世話をやかせないものを宣教の相手としがちである.解放の神学は私たち福音派の聖書的良心を覚醒させてくれる.日本国内で抑圧されている人々は誰であろうか.教会のある町内で非人格的扱いを受けている人々は誰であろうか.大都市で寝たきり老人に教会は訪問,介護,掃除,買物の世話をしているだろうか.精神・身体障害者に喜んで良き隣人として好意と援助の手を差し伸べているだろうか.<復> 目を世界に転じれば,日本の福音派は第三世界の貧困の加害者としてどれだけその苦悩を我が事として受け止めているだろうか.日本の教会から第三世界で働く宣教師がもっともっと起きてほしい.また,彼らを送り出す日本のキリスト者は持ち物,着る物,食べる物でもっと買いたい物を抑え,シンプル・ライフスタイルを実践し,その分を第三世界宣教にささげてほしいと願わずにはいられない.日本が国際社会で信頼を得るためにはいかに人の目立たないところで善意の犠牲を払うかにかかっている.<復> 解放の神学が私たち日本の福音派諸教会に問うているもの,それは貧しい人々,抑圧されている人々へのコミットメントであり,それは聖書の福音が本来持っている本質的性格,質の高さ,福音の真正性への問いかけなのである.→希望の神学,社会倫理,社会的福音.<復>〔参考文献〕G・グティエレス『解放の神学』岩波書店,1985 ; Conn, H. M., “Theologies of Liberation,” Tensions in Contemporary Theology (Gundry, S. N./Johnson, A. F. 〔eds.〕), Moody Press, 1976 ; Bonino, J. M., Doing Theology in a Revolutionary Situation, Fortress, 1975.(山口勝政)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社