《じっくり解説》聖書解釈学とは?

聖書解釈学とは?

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聖書解釈学…

いかなる文書もその意味を確定するためには解釈という作業が必要であり,その点で聖書も例外ではない.現代の読者にとって2千年ないしそれ以上の時間的な隔たりとそれに伴う歴史的,文化的な違いを有する聖書の意味を明らかにするのが,聖書解釈学である.聖書が誤りない神のことばであるということは,聖書を正しく解釈する努力によって実体化されなければならない.その解釈の原則を理論的に問う学問が聖書解釈学(hermeneutics)である.その原則に従って聖書本文が本来の文脈において持つ意味を明らかにする狭義の解釈(釈義exegesis)と,明らかにされた意味の,現代の読者や聴衆に対する意義(適用)を示す解き明かし(exposition)により,広義における解釈が構成される.<復> 1.聖書解釈の歴史.<復> (1) 古代教会.教会が最初に直面した解釈学上の課題は,旧約聖書をいかに解釈するかということであった.彼らは旧約聖書を神の霊感による書物として受け取りつつ,しかもユダヤ教徒たちと違って,それをキリストにおいて成就した約束の書として理解することにより,その問題に答えた.<復> (2) アレキサンドリア学派(2—3世紀).アレキサンドリアのクレーメンス,オーリゲネースといった教父たちは,聖書を比喩的に解釈した.オーリゲネースはギリシヤ的教養をもって聖書を解釈し,知的道徳的に受け入れがたいと思う部分に比喩的解釈を施す.すなわち,人間に体と魂,霊があるように,聖書にも字義通りの歴史的意味,道徳的意味,そして神の永遠の神秘や未来の世のことを表す霊的な意味があるとし,この霊的な意味こそ,純粋な神のことばであると主張した.例えば,ろばの背に乗ってエルサレムに入城したイエスの話は,そのままでは愚かな話だとし,アレゴリカルに解釈する.すなわち,神のことばであるイエスはろばと子ろば,つまり字義的に解釈された旧新約聖書という乗物に乗って魂に入る.またろばを解き放つ二人の弟子は,道徳的な意味と霊的な意味を表す,と言うのである.こうした比喩的解釈の伝統は,アウグスティーヌスを経て,中世の聖書解釈者に受け継がれていった.<復> (3) アンテオケ学派(3—5世紀).これに対し,本文の歴史的な意味を重んじるルキアノス,ディオドーロス,モプスエスティアのテオドーロス,クリュソストモス等のアンテオケ学派がある.彼らは,ことばはその置かれている文脈において通常認められる意味を持つという,字義的解釈を原則とする.それは,比喩や修辞的表現を一切認めない字句拘泥主義ではなく,文脈から比喩と認められる時は,むしろ比喩として理解しなければならないとする.今日では当然と思われる歴史的・文法的解釈を主張したこの学派は,そのネストリオスとの結び付きゆえに,力を失ってしまった.<復> (4) 中世の解釈.中世においてもサン・ヴィクトール派のように歴史学的・文献学的研究を重んじた人々がいたし,フランシスコ会の神学者たちやドミニコ会のトマス・アクィナスも,本文の字義的意味を第一としている.しかしなお比喩的解釈の影響力は顕著であった.例えば,アルベルトゥス・マグヌスは,聖書には歴史的,寓意的,道徳的,天上的の四つの意味があるとする.「エルサレム」であれば,それぞれユダヤの町,教会,忠実な魂,そして天上のすべてのいのちを意味すると言うのである.この四重の解釈原則は,「文字は出来事を教え,アレゴリーは何を信ずべきかを教え,道徳的な聖書の意味は何をなすべきかを教え,高揚は終末時に何を目指すかを教える」と要約される.<復> (5) 宗教改革.16世紀の宗教改革は,聖書の字義的な解釈の復興でもあった.ルターは初めスコラ学から四重の意味の解釈法を受け継いでいたが,後にそれを捨てて,聖書の一義性を支持した.また聖書の明快さや,聖書理解に聖霊の働きが必要であることを強調した.そして聖書の中心主題であるキリストから,各部分を解釈した.同様にカルヴァンも比喩的解釈を退け,本文の問題や,歴史的背景に注意を払い,文法的な釈義を積み重ねた.その結果が,今日まで広く用いられている彼の聖書注解である.聖霊の内的照明を重んじつつ,解釈者の考えではなく,聖書の著者自身に語らせようとする聖書解釈の基本が,彼により打ち立てられた.<復> (6) 宗教改革後の時代.カトリック教会の反宗教改革的な動きは,ウルガタ訳のラテン語聖書を原典とし,教会の伝承を従来通り重んじ,中世の解釈原則を継承するトリエント公会議の決定に代表される.一方プロテスタント教会では,歴史的な聖書解釈を追求するというより,信条や教義のために解釈する傾向が強くなった.<復> (7) 18—19世紀.合理主義・啓蒙主義精神は,聖書の解釈に大きな影響を及ぼした.そのため,人間の理性が判定者となって,聖書は他の書物と同じように解釈され,聖書の霊感や歴史的信頼性が退けられ,合理主義的な歴史・文献批評が発達した.神は人間の理性も創造されたのだから,聖書を解釈する尺度は理性である,としたのである.この時代の保守的な立場を代表するものとしては,新生した者のみが聖書を解釈する資格を持つとする敬虔主義の立場がある.<復> (8) 20世紀.<復> a.バルトは,歴史批評を経て後に,なお聖書をキリストにおける神の啓示をあかしするものと見ることができるような聖書解釈を目指した.彼は歴史的なものを突き破って,聖書の霊を洞察することにより,聖書の語句の解釈の単なる総合ではなく,そこに書かれている事柄そのもの,「唯一のことば」を認識することができると考えた.<復> b.ブルトマンは,聖書の枠組みとなっている古代の世界観をもはや通用しないものとして非神話化し,聖書の中心的使信は人を宗教的実存に招く,原始教会の宣教(ケリュグマ)のキリストにあるとした.彼は,歴史的な確かさを信仰の支えとする誘惑を除き,人に真の実存への決断を迫る急進的な歴史批評を,キリスト教の本質に即したものと考えた.バルトにせよブルトマンにせよ,歴史批評の否定的な結論を受け入れ,しかも聖書を神のことばのあかしとして認めるため,聖書の究極的な使信を設定し,それは歴史批評を超えているとする.そうした神学的解釈は,結局解釈者がア・プリオリに設定した現代的な前提から出発しているように思われる.<復> c.ガーダマー,フックス,エーベリングらの「新解釈学」は,歴史批評を超えようとする.彼らによれば,解釈は解釈者と本文の間の対話によって進められる.すなわち,解釈者が本文に投げかけた問に対する答によって,解釈者自身が問いかけられ,変えられ,そこからまた解釈者の違った問が生れるといったプロセスを通し,解釈者にとって本文が意味あるものとなる出会いが生じる,と言う.こうした理解には,人間の理性の自律や解釈者の中立性といった啓蒙主義的前提を相対化するものがある.しかしまた,著者が意図した客観的な意味の存在を否定し,本文の意味を解釈者の主観的,相対的解釈に変え,意味と意義を混同する危険性もある.<復> d.構造主義は歴史批評と全く異なったアプローチをする.すなわち,これまでの歴史的・通時的な解釈に対し,現在ある本文の言語現象そのものを分析し,その深層にある普遍的な構造を共時的に読み取ろうとする.この方法によれば,従来の批評学が非歴史的としてきた本文中の要素も,本文の構造の理解に不可欠なものとして再考することができる.しかしこの方法は,本文の意味をその歴史的文脈や著者の意図から全く切り離してしまうところに問題がある.<復> e.このほかの試みとして,キリストにおいて頂点に達する神の救いのわざの歴史という見地から聖書本文を解釈する,クルマンなどの「救済史」的解釈や,本文が何を語るかということより,それが伝承として正典全体の中でどのように受け入れられていったかを問う「正典的解釈」などがある.<復> 2.聖書解釈の原則.<復> こうした聖書解釈の歴史を踏まえて,次のような解釈の原則を認識することができる.<復> (1) 批評的解釈.聖書の解釈は,正しい意味において批評的でなければならない.すなわち,本文を恣意的,独断的,空想的に解釈するのでなく,正当な根拠に裏付けられた解釈をするのである.ある釈義を採用するためには,歴史的なものであれ,文化的なものであれ,文法的なものであれ,ふさわしい理由が必要だということである.本文の歴史的な価値や真正性の最終的判断を人間の理性がする合理主義的批評と異なる,こうした批評の原則は必要である.<復> (2) 字義的解釈.ことばや文章は,普通に意味するところにおいて,その慣用的,本来的な意味において解釈する.この原則には,その箇所がどのような文学類型に属するか,またどのような修辞的な表現が含まれているかを問い,それぞれに適した解釈をすることも含まれる.例えば,それが歴史的な叙述であれば歴史的な叙述として,詩であれば詩として,象徴であれば象徴として解釈する.また直喩,隠喩,誇張法,アイロニーといった表現方法を考慮して解釈する.こうした字義的解釈の方法の採用によって,人間の想像による恣意的な読み込みを防ぐことができる.<復> (3) 歴史的解釈.ことばや文章の意味は,それが書かれた時代の歴史的・文化的状況において何を意味したかによって決定される.例えば,ユダヤ人社会で女性がどのような地位に置かれていたかを知ることにより,イエスの弟子集団の中に多くの女性たちが加わっていたことの意味を正しく理解できる.族長時代の半遊牧民の生活をより正確に知ることは,主により頼むアブラハムの生活の意味を理解する前提となる.<復> (4) 文法的解釈.解釈は,聖書の言語であるヘブル語,アラム語,ギリシヤ語の文法に則して行われる.言語の知識なしには聖書の解釈が全くできないということではないが,言語に基づく解釈の営みは,翻訳に基づくそれに優先する.<復> (5) 文脈における解釈.どのような章句も文脈の中で正しい意味を知ることができる.例えば,日本語で「心の貧しい者」と言えば,通常は愛や思いやりのない者という意味であるが,マタイ5章の文脈と旧約聖書の用法から,「へりくだって神により頼む者」という意味であることがわかる.しかし,文脈がいつもただちに確定した情報を提供するわけではなく,文脈となる章句それ自体がまた解釈を必要としているという現実がある.実際,ある節の解釈はそれを含む段落全体の光の下で解釈されるが,その段落はまた,その節の光の下で解釈される.こうした解釈の循環においては,個々の要素と全体が共に意味を成し,首尾一貫するような解釈が採用される.<復> また文脈には様々なレベルがある.まず章句の前後の文脈,その周りには,その箇所を含む書物全体という文脈,さらには同一の著者の手になる文書群(例えばパウロの手紙といった)の文脈がある.そしてさらに旧約(あるいは新約)聖書,そして聖書全体が文脈となる.広くは歴史や文化の状況も「文脈」と見なすことができる.その広義の文脈を構成するものとして,まず正典文書と区別された非正典諸文書がある.<復> 文脈における解釈の手順は,聖書のある箇所の解釈を,その箇所に歴史的,文法的,神学的に関連した他の箇所を照合することによって,進めるということである.特に不明瞭な箇所は,明瞭な箇所の教えと調和するように解釈しなければならない.また同じテーマを扱う複数の箇所のうち,付随的に言及している箇所に対して,体系的に論述している箇所が優先する.さらに普遍的な命令として語られていることが,個別的具体的状況で述べられていることに対して優先する.こうして「聖書の解釈者は聖書自身である」という命題が実行される.<復> (6) 聖書の霊感や統一性を前提とした解釈.聖書が神の霊感によって成立した文書群であり,啓示の書としての統一性を持つものであるとすることは,重要な前提である.この前提により,旧新約聖書の教えが統一的に理解できるような解釈が求められる.それは単に個々の章句の解釈の総計ではなく,それらを中心テーマに基づいて統合した神学的,教義的な解釈である.霊感という前提はまた,正典文書と非正典のキリスト教諸文書の区別を要請する.そこで教義的な解釈は,正典文書が提供する情報全体を統合した解釈である.<復> (7) 啓示の漸進性.神のみこころは,聖書の正典文書の中に一様に示されているのではなく,むしろ漸進的に明らかにされている.旧約の啓示は部分的,初歩的で,新約聖書に見出される最終的啓示が優先する.例えば,族長たちの重婚は,新約聖書の一夫一婦制の教えの光によって,神のみこころにかなうものでないことがより明瞭にわかる.<復> (8) 聖書の解釈における聖霊の働き.聖書が神の霊感によって書かれたものであるとすれば,その解釈者は,信仰と祈りをもって聖霊の助けを求めなければならない.従って,解釈者は聖霊によって新生していることが前提となる.Ⅰコリント2:14に「生まれながらの人間は,神の御霊に属することを受け入れません.それらは彼には愚かなことだからです.また,それを悟ることができません.なぜなら,御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」とある通りである.<復> (9) アレゴリカルな解釈.この解釈方法は,聖書自身の内に見られるものである.イエス御自身,種まきのたとえにアレゴリカルな解釈を施しておられるし,パウロもガラテヤ4:21以下でこの方法を展開している.しかし,この解釈法では解釈者の恣意に歯止めをかけにくい.そこで聖書の本文の中に著者自身がアレゴリーを意図していることを示唆する手がかりがない限り,字句に則した通常の解釈を行うべきである.<復> (10) 解釈と実践的適用.聖書の解釈は単なる釈義で終るものではなく,解釈者の人格と生活への適用に向かうものである.もちろん適用を釈義と混同してはならず,両者は区別されなければならないが,聖書が正しく解釈されるなら,聖書は解釈者に対して「知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができ」,またキリスト者をして「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者と」するのである(Ⅱテモテ3:15‐17).<復> (11) コンテキスチュアリゼーション(「文脈」化).聖書が成立した文化と解釈者が作業をしている文化とは異なるゆえ,後者に聖書本文の意味を適用しようとする際,コンテキスチュアリゼーションが必要となる.例えば,「1ミリオン行けと強いるような者とは,いっしょに2ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)という指示は,権力による徴用という事態のない状況では,そのままでは意味を成さない.そこで,そうした指示の背後にある精神(この場合であれば,復讐心から解放された態度)を探り,それを今日の状況で認められる具体例で表現し直すことが必要である.しかしまた,聖書の文化的な文脈と現代のそれとの違いを過大評価し,人間の普遍的な現実や人間が形成する文化の共通性を過小評価しないよう,注意が必要である.またコンテキスチュアリゼーションが極端な形をとると,聖書に含まれる思考形式や世界観を前近代的なものとして退けることになるが,むしろ聖書の思考形式によって,われわれの文化において無自覚的に受け入れられている思考形式を修正していくことも必要ではないか.<復> (12) 新しい適用.聖書の教えに慣れ親しんでいるために,そのまま通常に解き明かしたのでは本来のインパクトを再現することが困難な場合がある.例えばイエスのたとえ話の講解において,しばしば説教者は,そのたとえの本来のインパクトが,現在の聴衆に対して与えられるよう,新鮮に解き明かさなければならない.<復> (13) 解釈の不完全性.これまで述べてきたことから,いかなる聖書解釈も完全ではなく,相対性を免れないことがわかる.従って,より正確な釈義と,よりふさわしい適用を追求する解釈の営みは,決して終ることのない課題である.→聖書,聖書学,聖書釈義,新解釈学,聖書の霊感.<復>〔参考文献〕B・ラム『聖書解釈学概論』聖書図書刊行会,1963;榊原康夫『聖書読解術』いのちのことば社,1970;出村彰/宮谷宣史編『聖書解釈の歴史』日本基督教団出版局,1986;P・シュトゥールマッハー『新約聖書解釈学』日本基督教団出版局,1984.(内田和彦)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社