《じっくり解説》恵みとは?

恵みとは?

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恵み…

恵みとは,愛なる神の,人間に対する好意(愛顧),またはそれに基づく働きかけである.それは,特に受けるに値しない対象に向けられた神のいつくしみである.「恵み」という日本語に該当する英語のgraceは,ラテン語のgratiaから派生し,gratiaはギリシヤ語のカリス(charis)をラテンの世界に訳したことばであった.もともとギリシヤの世界で「カリス」は,好意や親切,またそれに基づいた行動を指すことばである.だがこのことばは,すでに旧約聖書のギリシヤ語訳である70人訳に66回登場し,宗教的な意味合いで使われていた.「カリス」は,ヘブル語の「ヘセドゥ」に当てられて,「あわれみ深い」「情け深い」と意味付けされたり,ヘブル語の「ヘーン」の訳語に使われて,神が愛をもって信仰者を顧みることを指したり,またヘブル語の「ラハミーム」の訳語として使われて,罪の赦しに関する神のあわれみを意味している.総合して言うと,恵みは,民数6:25「主が御顔をあなたに照らし,あなたを恵まれますように」に代表されるように,上位者が下位者を顧みるという要素を持っており,また神の恵みは,受ける側の性質や価値に反して,またはそれを越えて,神の御名のゆえに施されているのである.<復> この「恵み」ということばを用いてキリスト教の福音の本質を説明しようとしたのがパウロである.「神の恵み」「主の恵み」という表現は,パウロ書簡に繰り返し登場するが,その意味するところは,Ⅱコリント8:9に代表される.「あなたがたは,私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています.すなわち,主は富んでおられたのに,あなたがたのために貧しくなられました.それは,あなたがたが,キリストの貧しさによって富む者となるためです」(参照ピリピ2:5‐8).よって恵みとは,キリストの受肉から十字架と復活に具現された救いに関する神のわざを総括し,そのわざによって示された神の人間に対する好意的な態度を意味している.それは,「私たちがまだ罪人であったとき,キリストが私たちのために死んでくださった」(ローマ5:8)という事実からわかるように,受けるに値しないわれわれ罪人に注がれる自己犠牲的な神の愛である.<復> パウロが強調する恵みの教理をさらに幾つかのポイントに分解すると,以下のように理解できる.<復> (1) 恵みは,神の愛ゆえに,無償で与えられるものであって,人間の努力によって獲得できるものではない.パウロは,恵みと律法の行いを対照させながら,救いは「恵みのゆえに信仰によって」与えられる「神の賜物」であり,決して人間の行いによるのではないことを繰り返し強調している.「もし恵みによるのであれば,もはや行ないによるのではありません.もしそうでなかったら,恵みが恵みでなくなります」(ローマ11:6.参照エペソ2:8,ローマ4:4,3:23,マタイ20:1‐16).<復> (2) 恵みは,無制限に普遍的に与えられるものである.救いを望んでいる神の好意は,イスラエルという選民に限らず,「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません.…主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられ」(ローマ10:12),さらには,民族,人種,階級,文化,性別を越えて適用され(ガラテヤ3:28,コロサイ3:11),その大きさと豊かさは,計り知ることができない(エペソ2:7,3:19).<復> (3) 恵みは,キリストに現された歴史的事実であるが,それは単に過去における神の行為ではなく,キリストの福音が宣証されるところに常に現される神の働きである.パウロは,「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました」と言って,すぐに「しかし,それは私ではなく,私にある神の恵みです」と付け加えている(Ⅰコリント15:10).こうして,キリストの恵みは「ますます多くの人々に及んで」いく(Ⅱコリント4:15).<復> (4) 福音が宣証され,それが信仰によって受け止められる時,人は「恵みの中に立つ」(参照ローマ5:2,Ⅰペテロ5:12),すなわち,恵みによってのみ成立する神との関係に入ることができる.この関係において,恵みは悔い改めた罪人に赦しを与えて神との関係を法的に和解させる(ローマ3:24)だけでなく,信仰者の人生を内から変革する力となる(Ⅱコリント12:9).神の働きかけの総称とも言うべき聖霊の人格的な力(dunamis)によって,恵みは「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」(エペソ2:5),「聖霊をもって証印を押され」(1:13),「主と同じかたちに姿を変えられて行き」(Ⅱコリント3:18),最後は「栄光あるものによみがえらされる」(Ⅰコリント15:43‐49).このように,信仰者は恵みから恵みに成長していく.パウロ自身も「神の恵みによって,私は今の私になりました」と告白し(Ⅰコリント15:10).ヤコブは「神は,さらに豊かな恵みを与えてくださいます」(ヤコブ4:6)と約束し,ペテロは「キリストの恵み…において成長しなさい」(Ⅱペテロ3:18)と励まし,ヘブル人への手紙の記者は「おりにかなった助け」が恵みの御座からあふれ出ることを保証している(4:16).<復> (5) さらに信仰者の内に働く神の恵みは,その人の人生を他の人々に対する恵みとして作り替えていく.Ⅱコリント8:1‐9のマケドニヤ教会の人々の例にあるように,極度の貧しさにもかかわらず,彼らの内から神の恵みは「あふれ出て,その惜しみなく施す富」となり,彼らは神の恵みに「あずかっている(参加している)」と言われている.<復> (6) 最後に,キリストのからだである教会の働きと建て上げのために与えられる様々な賜物は,カリスマ(Charisma)と呼ばれているように,恵みの賜物である(Ⅰコリント12:27‐31,ローマ12:3‐8,エペソ4:7‐16,Ⅰペテロ4:10).<復> さて,こうしてキリスト教の中心に据えられた恵みの教理は,長い教会歴史の中で様々に解釈され,時にパウロが意図した神学とかけ離れながら発展していった.そしてこの教理における解釈の相違が,ペラギウスとアウグスティーヌス,中世神学とルター,という神学論争の渦をつくり,最終的にはこの教理の解釈がカトリックとプロテスタントの分岐点となっている.<復> 教理の発展過程で最初の大きな曲り角は,教父のテルトゥリアーヌスであった.パウロが,主として恵みを罪人に対する神の好意/働きかけとしてとらえたのに対して,テルトゥリアーヌスは恵みを,人間が罪性を克服するために天から与えられる「力」「賜物」として説明した.ここで,ギリシヤ哲学の影響を受けた彼は,恵みを一つの実体として,すなわちエネルギーを持った物質か何かのように考えていることは否定できない.この恵みという賜物は洗礼(バプテスマ)を通して与えられ,その賜物を活用することによって,信仰者は罪を犯さずに生活し,やがて救いに到達できると言う.この考えは中世神学の動向を大きく決定することになる.テルトゥリアーヌス以後,恵みとは,秘跡(サクラメント)を通して分与される賜物と見なされてきた.そして,この賜物の果す役割は,堕落した人間性を克服することにあった.<復> こうしてでき上がった恵み(grace)の理解と人間性(nature)との対立は,アウグスティーヌスによってさらに確立される.論敵のペラギウスは,創造の恵みによって与えられた理性と自由意志とは,堕罪によって破壊されることはないと主張した.人間は新しく造られてこの世に出て来る時に,恵みの可能性をすでに内に宿して生れてくると考えたのである.ゆえに救いは,この生来の恵みに見合うだけ,どれだけ努力するか,どれだけ成し遂げるかにかかっている.これに反論してアウグスティーヌスは,そうした創造時の恵みは堕罪において失われ,人間の理性は暗くなり,意志はゆがめられ,その状態はアダムの子孫である全人類に及んでいると主張した.神の恵みは,その罪人を堕罪の惨禍から引き上げるために,罪人の中に身をかがめるようにして降りて来られた神の子イエス・キリストを通して現された.そして,救いを自分のものにできるか否かは,人間の力によるのでなく,徹頭徹尾,恵みによることを説いた.われわれの心が神に向くなら,それは人間本来の意志によるのではない.そこにはすでに先行的恵み(gratia praeveniens)が働いている.やがてこの恵みの力によって信仰が覚醒され,罪に抵抗しようとする志が与えられる.その時,罪は赦され,同時に「愛の注入(gratia infusa)」(ローマ5:5)を受けて実際に義を分与される.このようにして人は義とされる.さらに,そこに「協力的恵み(gratia cooperans)」という賜物が与えられ,この恵みはすでに与えられた恵みと協力して,信仰者に残存している原罪の力を克服させ,神に喜ばれる生活を送らせることができる.しかしこれをもってしても,人は救われたとは言えない.さらに,選ばれた者には「堅忍の賜物(donum perseverantiae)」が与えられており,最後まで耐え忍んで,救いを得るのである.<復> 中世に目を向けると,多岐にわたるスコラ学の主流は,ペラギウスとアウグスティーヌスの両極の間を通りながら,双方から影響を受けていたことがわかる.スコラ学者たちは創造された人間を二つの層に分けた.すなわち,理性・知性・意志という自然的な下層(nature)と,恵みによって付け加えられた信仰・希望・愛からなる上層(grace)とに分けて考えたのである.堕罪によって,霊的な上層部はすべて破壊され,人間は自然的な下層に取り残された状態となった.そこで,救われるためには,アダムが失ったところの霊的な上層部を取り戻すことが絶対的な必要である.キリストの贖いの恵みが,まさにこの必要を満たすためにある.だがここで問題とされたのは,救われるために,どのくらいの人間側の努力と,どのくらいの神の側の働きかけが必要か,という人間的努力と神の恵みのバランス関係である.これを説明するために中世の神学者たちは,功績という概念を持ち出した.そこでは,救いは功績に対する「報酬」と見なされ,恵みは功績を獲得することを可能にする「手段」と見なされるようになった.その仕組みをトマス・アクィナスに従って簡単に説明すると,以下のようになる.人間が自然的な傾向から行動を起しても,神に喜ばれることは不可能である.信仰・希望・愛といった神学的徳を持つためには,神の恵みの賜物が人間の外側から注入されなければならない(gratia infusa).その時,人間の内に新しい性質(habitus)が形成され,生れ変り,堕罪で失われた原初の義を取り戻す.その上にさらに「協力的恵み」が加えられ,それに基づいて神の御心にかなう生活をし,ますます恵みが加えられ,神の前に価値ある功績を獲得していく.最後に,この功績に報いる意味で,永遠の救いに入れられると言う.ここで,二つの点に目を留めておきたい.第1に,行いによって功績が得られるのではあるが,そもそも行いを可能にするのは,キリストの恵みの力によるのであるから,これをペラギウス主義と呼ぶことはできない.しかし,第2に目を留めなければならないのは,救いは最終的に功績なしに得ることはできないと言う点である.恵みはいわば,天への階段の出発点となる.また,階段を昇るのに必要な力も恵みによって供給される.しかし,恵みがすべてではない.功績というものを,その受けた恵みを最大限に活用しながら,自分で勝ち取らなければならないと言うのである.<復> ルターは,それ以前の恵みの教理に反対してプロテスタント信仰を築き上げた.彼は,恵みは人間の魂に注入される霊的な実質・エネルギーであるというテルトゥリアーヌス以来の通念を否定して,恵みは神御自身が人間に対してあわれみ深く働きかけることであるという考えに戻った.メランヒトンのことばを借りれば,神の恵みとは,超自然的な「薬」ではなく,人間に対する親切な「好意」(kind favor)である.人間の抱えている問題は,自然的部分は正常だが,超自然的な部分が故障していて,恵みという薬によって霊的資格を獲得するとか,そのようなレベルの問題ではない.人間の全存在が神の前に異常なのである.堕罪以前の人間の姿は,神に対する信仰と信頼によって特徴付けられていた.アダムの全人生は,神に中心を置き,その意志も願望も行動も神の御心によって支配されていた.それが,堕罪によって,人生の中心は自分自身に向けられ,エゴがすべてを支配してきた.人生がエゴに向かっている限り,神秘主義に没頭したところで,道徳主義に専念したところで,また教会の礼典を完璧に守ったところで,神との正しい関係を回復できるわけではない.すべての努力が知らず知らず,自分本位に働いてしまう.まさに,そのような自分が救われるとするなら,神によるほかはない.そのために,神はキリストを通して働いて下さった.驚くべき恵みのうちに,神御自身が堕罪の現状に介入し,御自身の臨在とことばとわざによって人間を罪の鎖から解放し,神の子供としての自由の中へと導き入れたのである.これを神の恵みと呼ぶ.<復> さらにルターは,中世神学が恵みと功績を融合させたことに反旗を翻して,救いはただ恵みによる(sola gratia)ことを再主張した.恵みが功績を生み出すのではない.無論,功績をもって恵みを獲得するのでもない.救いは,ただ恵みによる.神の前に功績を獲得したなどと誇れる人間は一人としてない.われわれが持っているものも,今あるわれわれ自身も,元をたどればすべて神の恵みである.たといわれわれが神のおきてを完全に守ったとしても,神の前に稼いだ功績など一つもない.ここでルターは,恵みと功績を結合する代りに,恵みと信仰とを堅く結び合せた.福音の本質は,神が人間から遠く離れて存在し,人間が努力して神に近付こうと階段を昇ることにはない.福音の本質は,その逆の事実にある.すなわち,人間が罪のゆえに神から遠ざかっているのに対して,神のほうでキリストを通して人間に近付いてきて下さったということである.そうなれば,人間が自分の義を努力して勝ち取って,それを神の前に差し出して義認を得るという功績の概念は,極めて不適切なものである.われわれは,神に近付こうと思って,もしくは,神が近付いて下さるくらい霊的な存在になろうとして,自分の行いや霊性に頼ってはならない.われわれが常に心がけるべきことは,すでにわれわれの救いのためにすべてを勝ち取って下さったキリストから,彼の義と功績をわが身に受け取り,必要な恵みと助けを獲得することである.ゆえに,恵みと結合すべきは,キリストにすがってキリストの功績を自分の身に受け取るための,施しを求めるからっぽの手のような信仰である.<復> 以上,恵みの教理を歴史的な発展を考えながら,恵みと人間性(nature),恵みと功績/信仰の問題を簡単に整理した.他に,キリスト教神学が恵みに関して論じてきた問題として,恵みが人間に伝授される手段(恵みの手段/サクラメント),さらに恵みと人間の意志との関係,すなわち選びの教理があるが,この二つの問題については,それぞれの項目を参照されたい.→救い,救いの秩序,贖罪・贖罪論,義,義認,罪・罪論,罪の赦し,原罪,選び,恵みの手段,秘跡(サクラメント),礼典.<復>〔参考文献〕Moffatt, J., Grace in the New Testament, 1931 ; Hardman, D., The Christian Doctrine of Grace, 1947 ; Watson, P., The Concept of Grace, the Epworth Press, 1960.(藤本 満)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社