《じっくり解説》離婚とは?

離婚とは?

離婚…

夫婦が生存中に婚姻関係を解消すること.協議離婚,調停離婚(離婚訴訟に先立ち,家庭裁判所の調停において合意が成立した離婚),審判離婚(調停が成立せず,家庭裁判所の審判によって成立した離婚),判決離婚(夫婦の一方からの請求に基づき裁判所が認めた離婚)がある.うち協議離婚の占める割合は91%,調停離婚は7—8%,判決離婚は1%である.<復> わが国の離婚率は1963年以降上昇傾向にあったが,1983年の1.51%を記録した後下降し,横ばい状態となっている(→図1,2「離婚件数と離婚率の推移」).しかしわが国には「家庭内離婚」という言葉があるように,離婚に等しい状況は多く,女性の経済力とともに離婚率も上昇する傾向がある.<復> 離婚は決して容易ではない.たとえ協議離婚であっても,恨み,怒り,恐れ,失望が伴う.子供がかかわっている場合,苦痛はさらに大きくなる.離婚に際しては勝者はいない.<復> 1.離婚についての聖書の教え.<復> 神は「離婚を憎む」(マラキ2:16)と言われている.結婚は神の制定されたものであるが,離婚はそうではない.イエスは離婚について,「初めからそうだったのではありません」(マタイ19:8)と言われた.離婚は人間社会である時点から起ったものであり,モーセが「離別することをあなたがたに許した」(マタイ19:8)にすぎないのである.<復> 神は背信のイスラエルについて,「背信の女イスラエルは,姦通したというその理由で,わたしが離婚状を渡してこれを追い出した」(エレミヤ3:8)と言われる.このように,神は離婚の背後にある罪を憎まれるが,ある状況下での離婚を認め,かつ制約を与えている.<復> 離婚は決して赦されない罪ではない.離婚によってもたらされる悲惨な結果は避けられないかもしれないが,離婚にからむ罪も多くの罪の一つであり,赦しの対象となる.<復> 申命24:1‐4によると,離婚が成立するためには次の三つが必要である.<復> (1) 離婚状を書く.離婚状を書くことは衝動的な離婚から人を守る働きをする.<復> (2) 離婚状を手渡す.夫は離婚状を書いて妻に手渡さなければならない.離婚状はそれを手渡された女性の自由を保証するものとなる.彼女は自由に再婚することもできる.<復> (3) 家から去らせる.離婚状を手渡されると,妻は家から出ることが求められる.実際に家を出ることで「連れ合い」(companion)の状態ではなくなる.<復> 聖書の中に離婚状のサンプルはないが,「彼女はわたしの妻ではなく,わたしは彼女の夫ではない」(ホセア2:2)を,離婚状からの引用を考える者もある.離婚状の主旨は,軽はずみな離婚を防ぎ,被害を最小限に食い止める働きをすることにある.<復> 2.別居.<復> 現代風の「別居」には聖書的根拠はない.この別居は,離婚の前段階,あるいは正当事由がなく離婚できないが″ともかく別居を″,というものである.別居した夫婦の和解は,共に住んでいる夫婦の和解よりも困難なことが多い.別居は,ただ問題を回避することにしかならず,問題の直視にはならないのである.<復> 「妻は夫と別れてはいけません.—もし別れたのだったら,結婚せずにいるか,それとも夫と和解するか,どちらかにしなさい.—また夫は妻を離別してはいけません」(Ⅰコリント7:10,11).ここでパウロが「別れる」で意味しているのは離婚のことである.聖書で言う「別れる」は「引き離す」(マタイ19:6)行為であり,現代風の「別居」ではなく,離婚と同じものである.離婚に必要な「離婚状を書き」「手渡し」「去らせる」という3段階を含んだものである.<復> 配偶者の一方が自ら家を出るという形で意志表示をし,もう一方が事の重大さに気付いて和解に至るケースがないわけではない.また,相手の不貞ゆえに離婚を決意して家を出,後に和解したケースもある.しかし,離婚する気がなく,正当事由もないのに別居して事態を好転させようとしても,期待通りにならないことが多い.聖書的な別居は「祈りに専心するために,合意の上でしばらく離れて」(Ⅰコリント7:5)とあるように,目的は「祈り」のためであり「合意」でなければならず,期間も長期間ではなく「しばらく」でなければならない.安易な別居は安易な離婚につながることを忘れてはならない.<復> 3.信者同士の離婚.<復> 信者同士の離婚について,パウロは「妻は夫と別れてはいけません」「また夫は妻を離別してはいけません」(Ⅰコリント7:10,11)と言い,命じるのは自分ではなくイエス・キリストであると,明確に禁じている.しかしこのような明確な命令があっても不従順のゆえに離婚する者はいる.そのような者に対しては「もし別れたのだったら,結婚せずにいるか,それとも夫と和解するか,どちらかにしなさい」(7:11)と教えられている.離婚はしても「神の目には依然結婚の状態」であるという考え方は聖書的ではない.人の前でも神の前でも離婚に変りはない.信者で離婚してしまった人は,そのまま独身の状態でいるか前の夫と和解するか,どちらかにするように言われている.離婚しても再婚しないでいる限り和解の可能性は残されている.<復> 4.離婚の理由.<復> 離婚の理由には正当事由もあればそうでないものもある.<復> (1)「妻に何か恥ずべき事」がある場合の離婚.申命24:1‐4の「何か恥ずべき事」とは何を意味するのか古くから議論されている.ジョン・マーレイも指摘するように,「何か恥ずべき事」は,姦淫や性的罪を意味するのではなく,不品行や性的罪以外のものと解釈できる.つまりモーセは,人がどんな理由であっても妻を離別する可能性のあることを言っているのである.しかし,それを是認しているわけではない.新国際訳はバークレー訳と同じように,申命24:1‐3を条件節と解釈している.「…女の手に渡し,彼女を家から去らせなければならない」を条件節とし,「…女の手に渡し,彼女を家から去らせ,女がその家を出て,行って,ほかの人の妻となったなら…」と読む.こういった離婚であっても以下の三つのことが必要とされる.つまり「離婚状を書き」それを「手渡し」「家から去らせる」ことである.ただし,あくまでもこれは「しなければならない」ことであり,離婚の理由を正当化するものではない(マタイ5:31,32).<復> 申命24:1‐4の中心は,安易な離婚を禁じ,結婚という契約を軽く見ないようにと教えるものであるが,いつしかその重点が離婚状を与えることに移ってしまい,中身がすり替ってしまった.「彼女は汚されているから」(同24:4)をイエスはさらに明確にして,「妻に姦淫を犯させる」(マタイ5:32)と言っている.不品行以外の理由で妻を離別してはならないのであって,離婚状さえ手渡せばどんな理由であってもかまわないというのは勝手な解釈である.<復> (2) 配偶者の不貞による離婚.離婚の理由で最も多いのが不貞と言えよう.離婚の7割もしくはそれ以上に不貞がからんでいると言われる.イエス・キリストは,信者の離婚の正当事由にこの不貞を挙げている(マタイ5:32,19:9).どんな理由であっても離婚できると勝手に考えていたユダヤ人に,「不貞以外の理由で…」をイエスは繰り返された.<復> 「不貞」と訳されている[ギリシャ語]ポルネイアは,「不品行」で,姦淫も含まれるが,すべての性的罪,例えば近親相姦,獣姦,同性愛行為等を含んでいる.<復> 配偶者の不貞の場合,それが離婚の正当事由になって離婚は許されるが,離婚をするよう命じられているのではない.罪を犯した配偶者が悔い改めて,赦し合うことも可能である.<復> 罪を犯した配偶者が悔い改めない場合はどうか.マタイ18:15‐17の手順を踏むことである.まず第1に当事者の二人だけで話し,次に他者(一人か二人)に加わってもらい,それでも解決のつかない場合は教会の問題とする.それでも悔い改めようとしないなら,その人を信者でない者と同じように扱わなければならない.つまり信者でない者が去っていくなら去るに任せる.罪を犯していない配偶者はここに至って正当事由の離婚と認められ,再婚の自由も与えられる.<復> (3) 信者でない配偶者が離れていく離婚.これは配偶者の一方が信者になって起る問題である.イエス・キリストの在世中はこのような結婚について言及する必要はなかったようであるが,パウロの時代になると具体的な問題として起ってきた.パウロは「これを言うのは主ではなく,私です」(Ⅰコリント7:12)と言った.が,これは,この教えが権威のない教えという意味ではない.信者でない配偶者が離れていくのであればやむを得ない.離婚を受け入れなさい.これは離婚の正当事由になる,ということである.では,信者同士で一方の配偶者が離れていこうとする場合はどうなのか.この場合もマタイ18:15‐17の手順が適用される.どうしても和解が成立せず,相手が離れていくというのであれば,その配偶者を信者でない者として扱うことになる.この場合も離婚の正当事由があり,罪のない配偶者には再婚の自由も与えられる.<復> (4) 性格の不一致による離婚.現代の離婚のほとんどがこれを理由としている.もちろん聖書的正当事由とはならない.これは(1)の「何か恥ずべき事」に入る非聖書的な理由である.<復> 5.再婚.<復> 図3「夫妻の初婚と再婚の推移」を見ると,1970年に「夫妻とも初婚」88.9%が1987年には82.2%と減少し,夫妻のどちらかまたは両方が再婚のケースは,同年比で11.1%から17.8%に増加している.<復> 少なくともキリストの時代までは,ユダヤ人の間でなされる,離婚についての論議は,離婚の理由に集中しており,再婚の権利が問題にされることはなかった.これに対して,現代の福音派の論議は離婚の理由もさることながら,多くは再婚の権利に集中しているようである.<復> 申命24:2によると,離婚状を持っている女性には再婚の権利がある.離婚した女性が他の人と再婚した場合,2番目の夫に死に別れたり,再度離婚したとしても,最初の夫と彼女は復縁できない.彼女が最初の夫と離婚してそのまま独身でいるなら,復縁の可能性はある.しかし無制限に再婚が許されているのではない.<復> マタイ5:32,19:9によると,姦淫という事実があれば,罪のない配偶者には離婚の権利も再婚の権利もある.<復> 信者でない配偶者が去っていくのなら,信者の配偶者には離婚の権利も再婚の権利もある.しかし再婚が許されている場合でも,再婚が賢明でない場合もある.パウロは結婚していない人には独身でとどまるよう勧めている.過去の結婚を引きずっている場合,また再婚について良心的にすっきりしていない場合,また再婚することに強い願望がない場合,「自分が召されたときの状態にとどまって」(Ⅰコリント7:20)独身でいるほうがよいと言われている.<復> 配偶者に死に別れた人の場合,再婚に反対する理由は何もない(ローマ7:3).再婚が悪でないことは明確である.再婚は時に勧められ(Ⅰテモテ5:14),やもめに対しては「情の燃える」よりは「結婚しなさい」(Ⅰコリント7:9)と命じられてさえいる.<復> 配偶者と死別した人の再婚については,聖書は以上のように積極的である.従って再婚した人が教会で長老や執事のような指導者の立場に立てないとするのは問題である.監督となる人の条件の,「ひとりの妻の夫」(Ⅰテモテ3:2,12,テトス1:6)で問題となっているのは,何度結婚したかではなく,何人妻を持っているか,ということである(Marriage, Divorce and Remarriage in the Bible, p.80).ユダヤ人の間には11世紀頃まで一夫多妻の事実があったようで,ギリシヤ人,ローマ人の間にもこの時代まだ一夫多妻の事実が存在した.このみことばは,そのような状況で語られたものであり,正当事由による離婚者,そして再婚者について,指導者の立場に立ってはいけないと教えているのではない.<復> 聖書的根拠のない離婚をした人がその後クリスチャンになった場合の再婚はどうなのか.もとの信者でない配偶者のもとに戻るべきなのだろうか.このような問題に処する第1の原則は,「おのおの召されたときのままの状態で,神の御前に」(Ⅰコリント7:24)いることである.回心者にとってはその回心の時から新しい生活が始まるのである.コリントの教会の中には,以前は「不品行な者…姦淫をする者,男娼となる者,男色をする者…」(6:9)がいたが,今や「洗われ,聖なる者とされ,義と認められた」(6:11)のである.赦され,新しくされたその時が出発点である.神は不品行も姦淫も赦される.神が赦された者を人間が赦すのは当然である.<復> 社会が離婚に対して寛容になるにつれ,離婚は増加すると思われる.防ぐ手立ては良い結婚を確立することである.聖書の原則に基づいた,愛と決意と開かれたコミュニケーションを特徴とした結婚を育むことである.このためには日頃から結婚について教えられる必要がある.<復> 6.離婚のプロセス.<復> 離婚に直面した人は,死に直面した人の経験に似た,幾つかの段階を踏むようである.<復> (1) 否定.ショックを受け,まさか自分たちの結婚が離婚に至ることはない,と否定する段階である.<復> (2) 抑鬱.社会とのかかわりを断ち,閉じこもって,抑うつ状態になる時期である.<復> (3) 怒り.裏切られた思いからくる怒りの感情である.これは配偶者に向けられるが,やがて異性全体に向けられることもある.<復> (4) 受け入れ.徐々に事態を受け入れ,将来の計画も立てられるようになる段階である.<復> エリーザベス・キュブラー‐ロスの示す死に至る段階と同じように,ショックなこと,あり得ないようなことが自分に起ってくる時に,誰もが経験する段階と言えよう.離婚したくない配偶者は,事実を受け入れることができず,いろいろな形の取り引きをしようとする.ある人の場合は去って行こうとする配偶者に取りすがって懇願する.しかしこれは相手の「自由」という基本的欲求を侵害することになるので逆効果となることが多い.<復> 7.離婚への対応.<復> 離婚の可能性に直面したら,経験豊かなカウンセラーに相談するとよい.仮に離婚という事態になっても,子供たちに与える影響を最小限に食い止める対処の仕方を学ぶことができる.親の離婚に巻き込まれた子供たちは,自分は愛されていないと思い込んでしまう傾向がある.<復> 離婚の背後には何らかの罪が存在している.相手を変えようとするのではなく,自分の罪を認めるところから和解の糸口はつかめる.苦々しさ,恨み,赦せない心,絶えざる非難.こうしたものが結婚を離婚まで追い詰めていないかよく自己吟味することである.「なぜあなたは,兄弟の目の中のちりに目をつけるが,自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7:3).<復> 離婚は多くの場合,問題解決の逃げの手である.自分たちには離婚という解決策はないと考え,問題を直視する夫婦は必ず問題を解決することができる.離婚は決して必要なものではない.ただ相手がいることなので,一方だけでなく二人の決意が必要である.→結婚,独身.<復>〔参考文献〕J・マーレイ『離婚論』聖恵授産所出版部,1985;Adams, J. E., Marriage, Divorce and Remarriage in the Bible, Baker,1980.(柿谷正期)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社