《じっくり解説》決定論とは?

決定論とは?

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決定論…

[英語]determinism.人間の意志が意志自身の力の及ばない何らかの必然性によって究極的に完全に決定されているのかという問に対して肯定的な見解をとる立場は一般に決定論と呼ばれている.これに対して人間の自由意志を擁護する立場は,この問に対して否定的な見解をとっている.決定論は人間の意志を支配している必然性をどのようにとらえるかによって,多彩な形態をとり得る.西欧の哲学・宗教思想において,自由意志は形而上学的に,また倫理学的に様々の角度から論じられてきたが,自由意志と決定論の問題は最も重要な問題の一つとして取り上げられてきた.そして現代において,この問題は自由意志に関する唯一の問題であるかのように見なされている.<復> 西欧哲学の歴史の中で,自由意志と決定論の問題は,ストア派によって主題的に取り扱われた.ストア派はこの世界を至高の理性によって支配されているものと見なし,世界の事象は神的理性によってすべて必然的に生起するとした.人間も世界を統治する神的理性の支配を逃れることはできない.世界の合理的必然的作用と人間の自由の行使は調和的に考えられ,人間は愛をもって世界の意志を受容し,運命に服従することによって,あらゆる不満から解放された自由を享受することができる.運命に抗し得る自由が人間にあるのかという問に対しては否定的な回答しか与えられず,自由意志と決定論の調和しがたい対立がいまだ自覚されていない.<復> 近代以後の決定論の特徴は,人間の意志を支配する必然性が自然科学的な因果法則としてとらえられたことである.世界内のあらゆる事象はこの法則によって原理上説明されなければならないとされ,またこの説明は閉鎖的な因果関係の斉一性の法則の外にあるいかなる事物や出来事にも言及してはならないとされた.自然科学的・機械論的決定論は,すべての結果は必然的原因によって作り出されるとする単純で斉一的な因果関係によって,世界事象一般の普遍的な法則連関を説明する.このような自然科学的な仮説が人間にも適用されるならば,人間のあらゆる営みは先行する原因によって必然的に決定されているとする結論は不可避のように思われる.<復> デカルト(1596—1650年)は,人間の身体を一つの機械と見なし,身体の活動を物質界を支配している法則によって説明したが,物質とは異なる精神という実体を認めることによって,自由意志を擁護しようとした.しかしスピノーザ(1632—77年)は,汎神論の立場から,決定論を肯定した.彼によれば,自由に物事を選択できると考えている信念は,行為の選択を決定している諸原因に対する無知から生ずるのである.ヒューム(1711—76年)も,実験的物理学の有効性が証明され,その方法や基本観念が人間的事象を取り扱う学問のモデルであることが示唆されるならば,物理現象の研究から抽出された経験的論理は人間の行為をも含めた人間的事象についてのあらゆる思考を拘束すべきであるとした.カント(1724—1804年)は決定論と自由を同時に維持しようとした.彼によれば,人間は現象界に属する限り,現象界を支配する自然法則としての因果法則に支配されている.現象界に属する人間の意志も,意志の対象の実質的内容に依存する限り,因果法則に支配されている.しかし人間は現象界と同時に本体界にも属している.本体界に属する人間の意志は現象界を支配している法則とはかかわりなしに,直接意志自らを規定することができる.人間の意志が意志の実質的対象に依存しない道徳法則という立法の形式によって自らを規定する時には,この意志は因果法則から独立している.しかし人間の認識の対象になり得るのは因果法則に支配された現象としての行為のみであり,本体界に属する自由は全く不可知である.<復> 現代の生物学や心理学は,人間のすべての行動を遺伝的要因や環境的要因によって決定されたものとして説明しようとしている.そして人間の意欲と行動はすべて先行する外的・内的な原因から必然的に生み出される結果として解釈される.このような自然科学的な仮説の正しさが様々の検証手段によって証明されるならば,自由意志の概念は科学が説明できなかったものを説明するための暫定的虚構にすぎなくなり,人間の無知に基づくこの概念は科学的人間理解が深まれば,必然的に消滅してゆくと考えられるようになるであろう.<復> しかし決定論という自然科学的仮説の正しさを実証する決定的な方法は存在しない.行為がなされた時,それとは別の仕方でその行為がなされ得る可能性は絶対になかったことを実証しなければ,行為が決定論的必然性に支配されていることを証明したことにならないが,そのような方法は存在しない.数学的定式によって表現される自然的事象に関しては,将来の出来事が正確に予測できる.しかし予測可能性という概念は決定論を肯定する場合にも,あるいは否定する場合にも,強力な論拠にはなり得ない.行為が正確に予測できなかったとしても,予測された結果をあらかじめ知ることによって,予測された結果を知らない場合と異なる行為をとることが可能であるという状況も含めて,行為が決定されていることに対する究極的な反論にはならない.予測ができなかったのは,行為が自由だったからではなく,行為の複雑な因果関係がまだ科学によって解明されていないからであると解釈する余地が常に存在するからである.また行為の予測可能性は,行為が決定論的必然性に支配されていることを意味するとは限らない.例えば倫理的規範に服従する人間が明日の約束を守ることが十分に予測できても,その行為が自由意志に基づいてなされたことを否定するものではないからである.行為を決断する究極の要因が行為者自身の意志の中にはないという自然科学的仮説について,ある特殊な領域において真であることが確認されることはあっても,すべての人間的事象に対する厳密な普遍妥当性を証明する方法は存在しないのである.<復> 決定論の立場は人間の日常的な行為の直接的な体験と矛盾している.人間は普段の生活において,自分の好きな所へ行き,自分の好きなものを食べることができるという自由の意識を持っている.決定論の立場を実践的に徹底させれば,道徳の基盤が崩壊する.道徳は,規範に服従することも,服従しないこともできる自由を前提としている.人間は自分に依存する行為にのみ,倫理的義務を負うのであり,行為がすべて決定論的必然性に服しているならば,一切の倫理的義務意識は無意味になる.またしばしば主張されるように,決定論の主張は決定論者に自己矛盾を生み出す.決定論者は自分の立場も含めてすべての思想的立場を非理性的な原因の結果であると主張せざるを得ず,決定論に反対する立場を論駁する権利とともに,決定論の正しさを論証する権利をも自ら放棄してしまうのである.<復> 神学的決定論は神の世界支配の必然性によって,行為は決定されていると主張する.行為が因果法則によって決定されていなくても,あらゆる事象の原因者によって決定されている可能性が存在する以上,この決定論は自然科学的・機械論的決定論に依存していない.この立場に従えば,全能かつ全知の神が世界に生起するすべての出来事の究極の原因者であれば,因果的決定性を免れた人間も,神の主権的な世界統治のもとでは,真の意味で自由に行動したり,決断を下したりすることはできない.神が万物を支配しているならば,いかなる人間も神の意志に反して行為することは不可能である.もし神の全能,全知,主権的支配のような神学的概念と自由意志という概念とが必然的に矛盾するならば,キリスト教神学に対して重大な問題が提起される.神があらゆる出来事の究極の原因者であれば,原罪の原因も,個々の人間の罪の責任も神に帰せざるを得なくなる.このような帰結は,神の善性と被造世界の善性というキリスト教の中心教理と矛盾する.<復> 聖書によれば,人間は神のかたちに従って造られている.神のかたちには,自分で決定し,それに基づいて行為する自由意志の能力も含まれている.そしてこの神のかたちは,堕落の後でも失われていない.それゆえ罪人も自己決定の能力を失っていない.神の全知と自由意志は矛盾するものではない.なされる行為が神によってすべて知られていても,その行為が自由意志に基づいてなされたことを否定するものではないからである.また全能な神の主権が自由意志と矛盾すると考えるのは,神の主権の誤解に起因する.様々の特質を与えられたものとして人間が存在していることの究極の原因者は神であるが,その特質を用いる決定権を神は人間にゆだねている.神は人間の自由意志を侵害せずに,世界に対する支配を貫徹し,その意志を成就されるのである.<復> 非決定論という立場は,自由意志を擁護する立場と同じではない.非決定論は,人間の意志はいかなる動機や原因,その他一切の必然性にも全く左右されないと主張する.人間の意志は自由を意志するという以外に全く理由のないものとして,非理性的で偶発的,また無根拠なものとされる.このような自由は無関心の自由と呼ばれる.意志の決定においては,因果関係が全く欠けており,無決定な意志の選択の自由が残されており,このような自由は全く予測不可能なものと見なされている.<復> 心の中に生ずる様々の動機や欲望によって意志が完全に決定されているとする心理学的決定論の主張は極端であるにしても,意志が動機や欲望などの要因の影響を受けていることは否定しがたい.また行為は社会的・経済的・歴史的要因によって完全に決定されているとする厳格な社会的・経済的・歴史的決定論の主張は誤りだとしても,人間の意志決定がそれらの要因の影響を全く受けないということはあり得ない.また生理学的決定論が主張している人間の意志決定における遺伝的素質や環境などの要因を全く無視することもできないであろう.また世界に因果法則が存在しなければ,行為は意図した結果を生み出すこともできないであろう.自由意志の擁護者は意志が様々の要因によって決定されていることに反対するのではない.自由意志の擁護者は意志が自分の力の及ばない要因によって究極的に決定されているという決定論の主張に反対している.意志は様々の要因の影響を受けることはあっても,それらの要因を組織し,意志自身の究極的な自律的な自己決定のもとに統合する能力をその本性的可能性として持っている.様々の必然性のもとに意志を屈服させようとする諸要因に受動的に身をゆだねるのではなく,それらを根拠として,意志はあくまでも意志自身の自己原因的な法則に従おうとするのである.意志の自由には,様々の決定論的必然性に屈服して,意志の自由を放棄する自由も含まれている.しかしその場合にも,人間は本性的可能性としての自己決定の能力を失ってはいないのである.<復> 聖書は,行為の究極の原因を意志に帰属させながらも,その意志が罪の支配下にあり,罪から自由ではないと主張している.聖書は人間の本性的能力としての自由のほかに,罪の力から解放する救済論的概念としての自由の存在を告知している.人間の本性的能力としての自由は選択の自由という形式的自由であり,罪の力からの解放,キリストへの服従という自由の実質的な内容が欠けている.福音はこの実質的な自由へと人間を解放する.「キリストは,自由を得させるために,私たちを解放してくださいました」(ガラテヤ5:1前半).人間の本性的能力としての自由意志は,罪の支配のもとにある限り,あくまでも自己中心性を貫こうとするものであり,神の恵みに基づく実質的自由と対立する.<復> 初期のキリスト教神学の中で,この二つの自由は調和的に考えられてきたが,これらの自由が鋭く相対立するものであることが明白に自覚されたのは,アウグスティーヌス(354—430年)とペラギウス(360年頃—420年頃)の論争においてであった.アウグスティーヌスは,神のかたちに従って造られた人間は自由であるがゆえに,選択能力を誤用して堕落した後でも,愛することのできる対象を追求する際に,自由な選択を行使できると主張した.しかし人間は神と隣人を真の意味で愛する高次の自由を失っており,このような自由は神の恵みによってしか獲得することができない.ペラギウスは本性的能力としての自由が罪の完全な支配下にあることを否定し,善の正しい認識を獲得すれば,自由意志によって神の求める完全な善に到達できると主張した.彼は救いと恵みの必要性を否定したのである.ペラギウスはアウグスティーヌスの恵みの理解は,人間の道徳的努力を否定するものとして非難した.これに対してアウグスティーヌスは恵みに基づく自由は,本性的能力としての自由を破壊するものではなく,それを統合するものであると主張した.人間の本性的能力としての自由が罪の完全な支配のもとにあることを論理的に徹底させれば,罪からの解放は人間の意志に全く依存しない神の一方的な主権的な恵みのわざに依存するという予定論的主張が生れてくる.<復> 中世神学の主潮は,神の恵みに基づく自由と本性的能力としての自由の関係をいかに調和させるかという問題を巡って発展した.やがてこの問題は中世スコラ哲学において,超自然と自然という形式によって総合された.トマス・アクィナス(1225—74年)は,アウグスティーヌスとペラギウスにおいて矛盾相対立していた二つの自由を整合的体系の中に統合しようとした.彼は神の恵みに基づく自由と本性的能力としての自由とを共に肯定し,また両者の関係を調和的に考え,超自然は自然を完成するという形式で両者を総合した.神の恵みに基づく自由と本性的能力としての自由とは協働して,完全な善の実現へと至るのである.しかし中世末期になると,この総合が揺らぎ始め,実質的に本性的能力としての自由を要求する方向へと傾いていった.<復> 二つの自由の協働関係が決定的に否定されたのは,ルター(1483—1546年)とエラスムス(1466—1536年)との自由意志に関する論争においてであった.伝統的な二つの意志の協働という図式を踏襲していたエラスムスは,神の恵みなしに,永遠の救いへと導くような事柄へと自分を適合させる力を本性的能力としての自由のうちに認めようとした.これに対してルターは人間の意志は道徳的な選択の自由を持つにしても,神との関係においては,神に対する不従順の閉鎖の中にあると主張した.本性的能力としての意志は,それ自身においては救いに役立つことは何一つできず,神の恵みと意志とに反抗することしかできない.本性的能力としての意志は奴隷意志である.「罪を行なっている者はみな,罪の奴隷です」(ヨハネ8:34).もし人間がその本性的能力としての自由によって,神の恵みなしに一つでも善をなし得ることを認めるならば,原理的には神の恵みなしにすべての善をなし得るという結論を排除することはできない.神の恵みに基づく自由だけが人間を奴隷意志から解放するのであり,そこには本性的自由が協働する余地は何もないのである.<復> 両者の自由が相剋するということは,神学から完全に分離した近代以後の見解の中でも明らかになった.カントによれば,意志が意志自らの規定根拠であるような自律的行為にのみ,道徳性が付与されるのであり,意志が意志以外のもの,すなわち神によって規定される他律的行為は道徳性を持ち得ない.現代の大部分の哲学においても神の恵みは人間の自律的自由を脅かす外的原因の一つと見なされている.キリスト教会がこのような実践的無神論という帰結を回避しようと願うならば,自由意志に関する宗教改革的洞察をあくまでも堅持しなければならないのである.→予知・予定論,救い,恵み.(多井一雄)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社