《じっくり解説》ヴァチカン公会議とは?

ヴァチカン公会議とは?

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ヴァチカン公会議…

[ラテン語]Concilium Vaticanum,[英語]Vatican Council.ヴァチカンの聖ペテロ(サン・ピエトロ)大聖堂において開催された公会議である.この名称は,それぞれ19世紀と20世紀後半に開かれた二つの公会議に与えられ,ローマ・カトリック教会により第1ヴァチカン公会議(1869—70年)は第20回,第2ヴァチカン公会議(1962—65年)は第21回世界教会会議(Ecumenical Council)と認められている.16世紀に台頭したプロテスタンティズムに対抗して中世カトリック教会の伝統を再確認したのはトリエント公会議(1545—63年)であったが,諸般の事情により対処できなかった教理が教会論と教会における教皇権問題であったと言われる.トリエント以来のこれら二つの課題に関して,第1ヴァチカンは教皇権論の確立,第2ヴァチカンはカトリック教会論の樹立をもって歴史的課題を処理し,対抗宗教改革を完結したと言えよう.同時に,宗教改革と近代性に対する「対決」と「対話」という二面性を持つ近世のカトリック教会の姿を明らかにしたという意味において,二つの公会議は近世カトリック教会史における重要な道標であったと言えよう.<復> 1.第1ヴァチカン公会議.<復> (1) 歴史的背景.18世紀から19世紀にかけてのカトリック教会は,啓蒙主義の結果生じた合理主義や自由主義の思想,近代国家の誕生を見たフランス革命(1789年)などからの攻撃を受け守勢に立たされ,反プロテスタントに加え反近代性の対決姿勢を強めていった.このように教会を取り巻く19世紀の政治・文化・神学的背景の中で第1ヴァチカン公会議は理解され得るが,同時に,1846年の教皇就任から1878年の没年まで波乱に満ちた教会の歩みを強い個性と権力により指導した教皇ピウス9世の存在抜きには十分理解できない.政治的には,1860年にイタリアにあった教皇領がローマを除き共和制国家により奪われるという事態が生じた.ピウス9世は,これを教会が歴史的に主張してきた教皇の世俗支配権にとっての危機と受け止め,教会会議による巻き返しをはかったのである.文化的には,ロマン主義(Romanticism)の興隆により反合理主義の精神や伝統的権威の復権がはかられる中で,伝統主義者ピウス9世は権威ある公会議開催により教皇権の絶対化を意図した.また神学的には,公会議の背景にはウルトラモンタニズム(Ultramontanism)とガリア主義(Gallicanism)という,近世カトリック教会史の底流である二つの思潮の対立があった.ウルトラモンタニズムは教皇至上主義(Papalism)の一形態で,ヨーロッパ中心部から見て「山(アルプス)を越えて」ローマに目を向ける姿勢であり,全キリスト教会に対する教皇の首位性や世俗支配権を認める中央集権の立場をとった.これに対するガリア主義は教会会議至上主義(Conciliarism)の伝統を継承するもので,教皇に対する公会議の優位性や国と地方の教会の自由をより認める地方分権を主張し,教皇の世俗支配権については否定的で,近代的精神との対話を重んずる立場であった.ピウス9世は厳正なウルトラモンタニズムに立ち,教会内では聖書的にも神学的にも支持できないとして反対の声も多くあったマリヤの無垢(無原罪)受胎の教義(1854年)を宣明し,そして反プロテスタント,反近代性に徹底したためしばしば反動的と言われた「謬説表」(シラブス,1864年)を発表した.これら一連の動きの総仕上げとして,ガリア主義を決定的に退けるための公会議の招集となったのである.かくして,1869年12月にピウス9世はヴァチカン公会議を招集した.二つの主要な教会憲章を採択するという成果はあったが,普仏(プロシア—フランス)戦争の発生やイタリア軍によるローマ占拠など,国際情勢が悪化する中で,翌年10月,ピウス9世は公会議の会期途中にして無期延期を宣言した.<復> (2) 教義とその意義.約700名の参加者をもって開始された会議は,当初,信仰と教義,教会と国家,東方教会と宣教,教会戒規,修道院など幅広い課題についての草案が準備されていたが,全体会議により採択されたのは教義に関する二文書にすぎなかった.第1は「カトリック信仰に関する教義憲章」(Dei filius)であり,そこでは伝統的なカトリック教義が再確認され,また無神論,汎神論,合理主義などが謬説とされる中で,信仰中心・聖書中心のプロテスタントの立場も退けられている.しかし,重要度においては,第2の文書「キリスト教会に関する教義憲章」(Pastor aeternus)が主張した教皇不可謬説が特筆に値する.これによれば,教皇が教会の永遠の牧者である聖ペテロの座から(ex Cathedra)信仰と道徳に関して発言する時は,公同教会の意志を表明するものと見なされ,それゆえ不可謬であるとされる.この不可謬説には,全体会議に草案が提出された段階で88名の出席主教が反対し,会議には出席していなかった著名なイギリスのカトリック学者(後に枢機卿)ニューマンやドイツの教会史家デリンガーなど多数も,聖書と伝承に十分基礎付けられないとして反対した.しかし公会議は最終的に採択をし,この教義のゆえに第1ヴァチカンは「すべての公会議を終らせるための公会議」と評されることとなった.この教義の影響は,一方で19世紀から20世紀にかけての躍進的なカトリック信仰の復興に寄与したが,他方,今日までカトリック教会内に諸問題を提起することとなった.<復> 2.第2ヴァチカン公会議.<復> (1) 第1から第2ヴァチカンへ.未完のまま無期延期とされた第1ヴァチカン公会議を継承する新たな公会議開催の動きは,ローマ教皇庁の国際的地位がラテラノ条約(1929年)の締結を見るまで不安定であったこと,二つの世界大戦により妨げられたことなどがあり,第2次大戦後に持ち越された.それは,77歳の高齢のため暫定的任職と見られていた教皇ヨハネス23世が,就任3か月後に公会議開催の意図を明らかにしたことに起因した.教皇は開催の意図をしばしば用いた「現代化」(Aggiornamento)という言葉で表現したが,これはカトリック教会の信仰と生活を20世紀に対応し得るものとし,カトリック以外のキリスト教会や現代世界との「対話」を進めることを意味した.公会議の準備段階として,1960年に教皇は10の準備委員会を設置するが,それらは信仰と倫理(神学),聖職及び信徒,秘跡,典礼,東方教会,布教などの広範囲の課題と取り組むものであった.1961年から翌年にかけて公表された一連の教勅を通し,教皇は非カトリック教徒の会議参加についての方針,ヴァチカンの聖ペテロ大聖堂を会場とすること,会議規定の策定,10委員会の正式設置などを行い,1962年10月11日公会議を開会した.開会宣言においては,欧米先進文明の躍進の陰に貧困と圧迫に苦しむ多くの人々がいる事実,戦闘的無神論の台頭により世界が直面する精神的危機を直視し,公会議を通してカトリック教会を再生し,平和,正義,福祉のため働くよう訴えた.教皇のこのような基調のゆえに,世に仕えようとする牧会的精神,広範囲にわたる問題を聖書から解決を試みようとする聖書主義,非カトリック教徒との連帯を重視するエキュメニズムが公会議を支配したと言われる.とりわけ注目に値する点は,カトリック教会が「歴史」の中にあるという意識である.この意識のゆえに,一方で過去との関連から,旧・新約聖書の救済史との連帯から自らを「巡礼者の教会」と呼び,また,教会が形成してきた教理的伝統を決して否定することなく,むしろ積極的に肯定しながら,他方で現代世界との「対話」を続けながら,将来に向かって開かれた教会であろうとするのである.また,同じ理由から公会議に共存する「対決」と「対話」の姿勢も説明され得る.ちなみに,公会議は現代的諸問題と取り組む中で,教会内の最新の神学思想をもって解決を試みている.けれども同時に過去の伝統をかたくなに守り,対抗宗教改革のトリエント公会議も第1ヴァチカン公会議の教皇不可謬説も継承することを明らかにしているのも事実である.なお,公会議の会期は,1962年から65年までの4年間,毎年秋の2ないし3か月間の4会期であった.その成果としては,二つの教義憲章と他の二つの憲章,9の教令,三つの宣言から成る16の公文書である.有資格出席者は会議冒頭で2540名,各会期平均で約2300名で,公会議の歴史においても最大のものであった.<復> 第1会期(1962年10月11日—12月8日)は,週に5回開かれる非公開の総会を36(1—36総会)数え,典礼と教会に関する憲章草案を検討したが,ヨハネス23世の発病(翌年死亡)によって12月8日に休会となった.第2会期(1963年9月29日—12月4日,37—79総会)は後任教皇パウルス6世により開かれ,「典礼憲章」と「広報機関に関する教令」を制定した.第3会期(1964年9月14日—11月21日,80—127総会)では,「教会憲章」「東方カトリック諸教会に関する教令」「エキュメニズムに関する教令」が制定された.第4会期(1965年9月14日—12月8日,128—168総会)は,「神の啓示に関する教義憲章」「現代世界憲章」「信徒使徒職に関する教令」「信教の自由に関する宣言」など残り11の公文書を制定して,12月8日に聖ペテロ大聖堂広場での閉会式をもってその幕を閉じた.<復> (2) 主要公文書とその意義.<復> ①「教会憲章」(正確には「教会に関する教義憲章」,別名「Lumen gentium」〔諸民族の光〕)は公会議文書中最重要であり,カトリック教会論を集大成したものである.公会議そのものの性格を反映して,この文書は対決と対話,伝統性と近代性という両要素を総合する性質を持っている.公会議の準備段階で神学委員会が作成した草案は対決的,伝統的であったため,第1会期と第2会期の間に大幅に改訂され,20世紀のカトリック神学,聖書学の成果を反映し,現代世界に対応するダイナミックな教会理解を盛り込むものとなった.8章から構成される憲章は,教会を「キリストの神秘体」と定義し,受肉の延長と見なした.受肉のキリストにおいて人性と神性とが奥義的に調和していたように,人性的存在である教会は時間的制約や歴史的諸力からの支配を受けるが,神性的存在としての教会は,歴史の諸力を乗り越えて,終末に向けて前進・勝利する.厳密に言えば,憲章が新しい教理を制定したのではなく,それまで教会の伝統の中で形成されてきた教えを新しい光の中で調和させたと考えられる.例えば,第1ヴァチカン公会議以来,教会内で問題視されてきた教皇不可謬説をほとんど逐語的に肯定して教皇の首位性を認める反面,それとは対立する教会会議重視の立場を,教皇とともに働く主教会議が教会の教導権を行使し得るものと位置付けている.また,旧・新約聖書を貫く基本的理解としての「神の民」をもって教会とし,その民には司祭と信徒両方が含まれ,信徒も共通司祭職を行使し得るとする反面,司祭と信徒間には本質的相違があり,司祭の持つ司祭権は信徒のそれとは本質的に異なるとして,プロテスタントの万人祭司論から一線を画している.さらに,伝統的なマリヤ論,死者のための祈り,煉獄の教え,聖人への加護祈祷などを再確認している.<復> ②「神の啓示に関する教義憲章」(Dei verbum)は「教会憲章」と並んで重要な教義憲章と位置付けられ,トリエント公会議の第4会議(1546年)で採択された「聖書と伝承」論を継承,発展させたものと言える.神学委員会草案が,いわゆる「啓示の二資料説」を含む伝統的なものであったため,総会の審議に載せるに必要な支持を得られず,改訂を余儀なくされた.その結果,憲章は聖書と伝承を最初の2章に分けて,それぞれ「啓示そのもの」と「啓示の伝達」として扱い,伝承が聖書の啓示から独立した資料であるかのごとき印象を避けている.しかし,ここでの強調点は啓示全般であり,プロテスタント宗教改革が主張した聖書に限定された啓示ではない.それゆえ,書かれた書物としての聖書は啓示を含むのではあるが,聖書全体が啓示なのではない.聖書は聖霊によってすべて霊感され,また,新約聖書以降新たな「公的啓示」は終末までないとは言え,聖書全体が啓示されたものではない.この点からしても,「死せる文字」である聖書自体は新約聖書時代の後の教会によって解釈,解説される必要が生じる.そのような解釈の積み重ねを伝承(聖伝)とし,「聖伝と聖書とは互いに堅く結ばれ,互いに共通するもの」「どちらも同一の神的起源をもち,ある程度一体をなし,同一の目的に向かっている」とする.また,厳格に言えば伝承は誤り得るものであるとは言え,教会の教導職のゆえに,聖霊の導きにより誤謬から守られるとされた.<復> ③「エキュメニズムに関する教令」(Unitatis redintegratio)において,伝統的主張と新しい時代への対応の両方が見られる.20世紀の教会史に特筆されるものの一つに,おもにプロテスタント教会を中心とした,教会の一致を求めてのエキュメニカル運動がある.また,カトリック教会は毎年1月の一定期間,教会の一致のため全教会を挙げて祈祷をささげてきたが,その主旨はプロテスタントが真の教会であるカトリック教会に「立ち返り」,東方教会がローマからの「分裂をやめる」ことであった.この教令は初めて,「三位一体の神を奉じ,イエズスを主および救い主と認める人々が,エキュメニカル運動と呼ばれるこの一致運動に参加」している事実を認め,プロテスタントを「分離している兄弟」と認め,また,東方正教会を直接使徒たちにその起源をさかのぼることのできる教会と位置付けた.特に注目されることは,公会議が,カトリック教会こそ真の,使徒的な公同教会であるという伝統的な主張は棄てることなく,教会の一致のためにプロテスタント教会と東方正教会がローマに「立ち返る」という過去に向かっての志向性ではなく,カトリック教会も含めた諸教会が「キリストの単一唯一の教会一致の中に」一つとされるという将来に向かっての志向性を明らかにしたことであろう.→トリエント公会議,教会会議.<復>〔参考文献〕第1ヴァチカン—Jaeger, L., The Ecumenical Council, 1961 ; Ku¨ng, H., Infallible ? An Inquiry,1971;第2ヴァチカン—南山大学監修『公会議公文書全集』(公会議解説叢書7)中央出版社,1969;Berkouwer, G. C., The Second Vatican Council and the New Catholicism, 1965.(丸山忠孝)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社