《じっくり解説》神のかたちとは?

神のかたちとは?

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神のかたち…

1.人間は神のかたち([ヘブル語]ツェレム)に創造された(創世1:26,27).<復> 創世1:26では「われわれに似る([ヘブル語]デムース)ように,われわれのかたち([ヘブル語]ツェレム)に,人を造ろう」と,ツェレムとデムースの二つの語が用いられている.前者は,像,鋳像,肖像等の訳があてられる(民数33:52,Ⅰサムエル6:5,Ⅱ列王11:18,エゼキエル23:14).後者は,図面,似姿,似たもの,姿等に訳される(Ⅱ列王16:10,イザヤ40:18,エゼキエル1:26,23:15).これらに対し創世1:26,27では,これらのことばは,創造者である生けるまことの神と,人格性において近似のものとして造られた人間との間に,他の被造物と神との間には見られない緊密な関係があることを示している.二つのことばは,人間の性質の内容的相違を示すために用いられたものではなく,ヘブライ的表現の特色である並行法によるものである.すなわち「神のかたち」と「神に似る」は,お互いに説明し合い,補い合っているのである.旧約において,人間は身体と霊魂とに二元的に分けられるものではなく,「生きもの」として一元的に理解されている(創世2:7).人間は,身体と霊魂を持った人格として,神のかたちなのである.<復> 人間は神のかたちとして,神を完全に写したものであり,一部分だけが似た不完全なもの,あるいはいびつなかたちではない.「あなたは,人を,神よりいくらか劣るものとし,これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」(詩篇8:5)との詩篇のことばはこの点をよく示している.人間は被造物である限り,神よりも無限に低い者であり,神に絶対的に依存する.それにもかかわらず,人間は神のかたちであるゆえに,自由かつ独立の人格を持つ者として,神との親密な関係のうちに生き得るのである.「人とは,何者なのでしょう」(詩篇8:4)との詩人の叫びは,いやしい被造物でありつつも神のかたちという栄光を持つ人間の創造の秘密の前には,ただ驚嘆するほかにないことを示している.<復> 神のかたちとしての人間に関し,二つのことが付け加えられる.<復> (1) 27節では「神のかたちに彼を創造し,男と女とに彼らを創造された」と言われている.神のかたちを持つのは男のみでも女のみでもなく,両性から成るものとしての人間が,神のかたちなのである.「彼」「彼ら」と単数,複数の両方が用いられ,人間が最初から単独では存在しないものであり,社会的存在であることを示している.Ⅰコリント11:7を根拠として,男のみが神のかたちであるとの見解が主張されてきた.この箇所でパウロが論じているのは,集会における女性のかぶりもののことである.一部の女性が秩序を乱しているので,それを戒めるために,創造における男女の秩序の教えから指示を与えたのである.従って,秩序という観点から見た男女の違いを,神のかたちとしての人間という本質論と混同すべきではない.「神のかたち」を論じる時は,「すべては神から発しています」(Ⅰコリント11:12),「主にあっては,女は男を離れてあるものではなく,男も女を離れてあるものではありません」(同11:11)という立場を重視しなければならない.人間は男女に分かれるだけでなく,人種,階層,才能,力その他においても相違がある.しかし人間はすべて,神のかたちに創造されているという点で等しいのである.<復> (2) 神が人を御自身のかたちに創造された直接の目的は,すべての生き物を支配させ,地を従わせるためである(創世1:26‐28).この表現は,人間の文化活動を意味すると理解することができる.創世2:15の「耕し」「守る」ということばにも同様の意味がある.<復> 以上,神のかたちである人間は,神との関係(宗教),対人関係(道徳),対世界関係(文化)の三つの関係において生きるべく創造されたものである.どのような被造物も単独では存在し得ず,神及び相互との関係の中で生き,存在している.その中で人間は特に,自由と独立を与えられた人格として,対神,対人,対世界の関係を生きるように,責任と使命を与えられたものである.<復> 2.堕落後の神のかたち.<復> 創世5:1‐3において,神のかたちはアダムよりその子セツへと伝わったと記されている.創世9:6では,人が神のかたちに創造されたゆえに,その血を流してはいけないと命じられる.ヤコブ3:9にも神のかたちに造られた人間をのろう舌の罪に言及される.人間は堕落後も神から責任を問い続けられる存在として,聖書に示されている.この意味では人間は神のかたちであることをやめたのではない.<復> 他方,神のかたちが失われた,とする直接の表現はないものの,罪人とその救いに関する聖書の教えによれば,確かに神のかたちは失われたのである.罪によって人間は義と聖を失い,その心の思いは腐敗し,悪の奴隷となった.人間は,新しく生れ変り,義とされ,聖とされなければならない.真の神のかたちであり(Ⅱコリント4:4,コロサイ1:15)われわれがそのかたちに似る者とならねばならない(ローマ8:29)キリストとの生命的交わりを通してのみ,失った神のかたちの回復は可能となる.「またあなたがたが心の霊において新しくされ,真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された,新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ4:23,24),「あなたがたは,古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて,新しい人を着たのです.新しい人は,造り主のかたちに似せられてますます新しくされ,真の知識に至るのです」(コロサイ3:9,10)とある通り,神のかたちである神の義と聖と知識は,罪によって完全に失われている.ただキリストを信じる信仰により,キリストとの交わりを通してのみ,再びこれにあずかり得るのである.<復> このように聖書は,一方では堕落後も神のかたちが人間に残っていると言い,他方では,これが完全に失われていると言う.このことから,神のかたちを,広い意味と狭い意味とに分けることが可能となる.<復> 神のかたちを狭い意味でしか認めない人々もいる.伝統的なルター派では,神のかたちは原義,すなわち知識と義と聖であると理解される.人が罪を犯して原義を失った時,同時に神のかたちのすべてが失われたと考える.<復> これに対し,伝統的なカトリックの考えは,聖書的な意味とは異なった形で神のかたちを広義と狭義に解している.それは,自然と,恩寵あるいは超自然に関する人為的な区別に基づくものである.すなわち,自然的人間は宗教的,道徳的であり得ても,その物質的,身体的,感覚的性質のゆえに霊に逆らい,罪に誘われやすい.そのために,神は恩恵によって,この自然的人間に狭義の神のかたちである原義を付加された.この狭義の神のかたちが付加されることにより,肉の自然的欲望([ラテン語]concupiscentia)は制御され,また,これによって人は超自然的義務を行って天に至る功績を積むことができるのである.<復> 聖書の教えは,伝統的なルター派とカトリックの考えのいずれとも異なっている.聖書によれば,神のかたちは原義よりも広いものである.神のかたちはトータルな人間性に深く行き渡っているので,堕落によって原義が失われても,人は全く神のかたちのない存在になったのではない.神のかたちは自然的人間に付加されたものではなく,人は神のかたちを持つ者というよりは神のかたちそのものとして創造されたのである.人間であるということは,神のかたちであることと等しい.人間が人間でなくなってしまったのでない限り,堕落しても神のかたちは何らかの意味で残る.狭義の神のかたちとは人間の霊的健康,あるいは完全さのことである.それを失った人間は霊的病人となり,義の代りに悪と罪の支配を受ける身となった.人間は堕落によって霊的には死んだ者となったのである.しかし,人間は人間として生き続けている限り,広義の神のかたちは残る.<復> 聖書の教えは現実的であり,自然と恩恵,創造と贖罪を決して人為的,機械的に区別しない.神は,人間の堕落後も創造のみわざを保持し,贖いのみわざによってこれを完成されるのである.<復> 3.広義の神のかたち.<復> 人間の創造の記事も含めて,聖書は人間を神との関係において描いており,その観点は宗教的である.従って,現代的な問題意識に直接答える形では書かれていない.人間が土のちりから形造られたゆえに(創世2:7),人と動物は形態上は区別できないと聖書は見ているが,その点よりもむしろ,人が神のかたちに創造されたという点を強調する.人間は神と人格的な交わりを持って生きる存在であり,理性的であり(創世1:28,2:19),道徳的服従を試みられる自由意志を持つ人格であり(同2:16,17),神との深い交わりに生きる者であった(同3:3).人には動物を支配し,地を従わせるという文化的使命が与えられたが,文化は,神と人に対する奉仕としてこれがささげられる時,霊的な香り高いものとなる.<復> 聖書は人を近代心理学的観点から分析はしないが,人の本性については首尾一貫した本質的なとらえ方をしている.人は霊魂と肉体とが不可分に合体した人格であることが,特に強調される.両者の分離は罪の結果生じたものである(創世2:17).従って,死後のからだの復活が,罪の贖いの究極の目的である(ローマ8:23).死と復活の中間の,霊魂だけが主とともにある形態は,究極のものとは見なされない(Ⅱコリント5:1‐4).しかし人間の霊魂の救いがまず語られるのは,それが全く独自のものだからである.動物も神の御霊によって造られるが,神が息を取り去られると死ぬ(詩篇104:29,30).人間の霊魂は,動物のように身体の死とともになくなるのではなく,それを授けた神に帰る(伝道者12:7).人は肉体を殺しても,魂は殺し得ない(マタイ10:28).死後も霊として存在し続けている(ヘブル12:9,23).人間は霊的存在として,霊である神(ヨハネ4:24)と交わりを持ち得る.同時に,この霊なる神が思考と感情と意志の働きを持たれることを聖書は大胆に述べているが,神のかたちとしての人間も,その霊魂の機能として同様のものを与えられている.また,霊魂の働きはすべて身体を器官として行われるのであるから,身体もまた神のかたちであると言うべきである.<復> 新約聖書はさらに,贖われた者が「神の子ども」とされ(ヨハネ1:12),天にある永遠の霊的祝福にあずかり(エペソ1:3),復活者であるキリストとの生命的交わりと終末の完成の時に実現する生の充満が聖霊によって保証されている(Ⅱコリント1:22,ガラテヤ5:22,エペソ1:14)と述べる.創造の時の広義の神のかたちが,より高い栄光をもって実現することを明らかにしている.<復> 4.狭義の神のかたち.<復> 聖書の教えによれば,人間は,理性・感情・意志を持つものとして神に似ているだけではない.それらが義と聖という性質を根本において持っていることがより重要である.従って狭義の神のかたちを「原義」として理解することは,極めて重要である.悪霊も霊的な存在として,理性・感情・意志の働きを持つが,それを神への憎しみに用いる.広義の神のかたちを持っていても,その人がイエスを憎み,これを殺そうとするなら,彼は悪霊と同じようなものであり,狭義の神のかたちは彼の内にはない(ヨハネ8:39‐44).<復> 最初の人アダムは神のかたちに従って,原義,すなわち真の知識と義と聖を持っていた.それは純粋なものであった.彼の中からは悪い思いや欲望は生れなかった.神を知ること,神の御旨を行うことを喜びとしていた.そして,神との平和な関係のうちに生活することができた.神との平和は,地との関係にも反映していた.<復> 罪が入り込んだ後の立場から,最初の人間の正しい状態を正確に理解することは不可能である.しかしながら,現代の神学において,創世記のアダムを単に神話的人間と考え(なぜなら現代の科学はアダムの存在を否定するから),アダムはわれわれすべての典型と見なす考えに同調することはできない.確かに最初の人間については多くのことは語られていない.しかし,罪のない者として,義をもって生きたアダムが存在したことを,聖書は明言している.このアダムに対応する者として,聖書はキリストを見ている.キリストは真の人間であり,しかも罪がなかった(ヘブル4:15,7:26).われわれは福音書において人々の間を行き来されるイエスの御姿に,真の知識と義と聖を持つ人を見る.従って,最初の人アダムがこれと同じように罪のない,完全な義をもって生きた人であったということを心に思い浮べることは可能である.最初に創造された人間がわれわれと同じように罪を持った人間であるならば,堕落ということは本来あり得ず,従って罪に堕ちた人間を救うということも起らない.罪あるいは罪への傾向性が,創造された人間に本来的に属しているのであれば,罪からの贖いは,人間が人間でなくなってしまうことである.しかし聖書は救いを,明らかに人間性の回復として語っている.初めに神が人を神のかたちに従って創造されたゆえに,救いとは同じ神のかたちを回復する再創造のみわざであると言われるのである.<復> このように創造と贖いの間には密接な関係があるが,創造の啓示の独自性を見失わないようにすべきである.そのために,以下の区別をはっきりしなければならない.<復> 創造における神のかたちは,最初の人アダムにただ一度完全に与えられたが,贖いにおける神のかたちは徐々に形成されること.創造における神のかたちはすべての人間に及ぶが,贖いにおける神のかたちは選ばれた者にしか及ばないこと.創造における神のかたちは人を動物から区別したが,贖いにおける神のかたちは,再生された者を再生されない者と区別すること.創造における神のかたちは試練の結果堕落したが,贖いにおける神のかたちにはもはやその恐れがないこと,である.<復> 5.地を従わせよ.<復> 文化命令は,神のかたちの本質に属するものではなく,その働きである.従って,文化そのものが人間存在の究極的意義となることはない.6日間の労働の後に7日目の安息日があり,その日は仕事を休んで神を賛美することが求められているように,労働や文化は,人間の神との究極の関係を離れて意味を持ち得ない.その意味では,地を従わせよとの命令は,まことの神のかたちを持つ者のみが実行し得ることと言える.→人間論,霊魂の起源,原義.<復>〔参考文献〕岡田稔『改革派神学概論』p.73以下,聖恵授産所出版部;榊原康夫『創造と堕落』みくに書店,1967;H・バヴィンク『信徒のための改革派組織神学』上,聖恵授産所出版部.(安田吉三郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社