《じっくり解説》グノーシス主義とは?

グノーシス主義とは?

グノーシス主義…

1.語義.<復> グノーシス主義とは,ギリシヤ語で知識を意味するグノーシス(gno~sis)という語に由来し,知識を救済の手段とする多種多様な宗派の総称である.これが初めて歴史に登場するのは,2—4世紀のキリスト教の反異端文書においてであり,その中で当時台頭していたキリスト教の異端思想がグノーシス,その思想を説く人がグノーティコイ(gno~tikoi)と呼ばれている.初期の教父たち,ユスティノス,エイレーナイオス,ヒッポリュトス等は,すべてのキリスト教異端の祖を魔術師シモンとし(参照使徒8:9以下),その後継者すべてをグノーティコイと呼んでいる.この中には代表的なキリスト教的グノーシス主義とされるバシレイデース,ウァレンティーノスらの思想や,マルキオーンの思想の一部も含まれている.<復> しかし現在では,グノーシス主義のその後の研究により,非キリスト教的グノーシス主義が存在していたことも確認されており,グノーシス主義は教父たちの意味した狭義のものから,以下に示すような思想的特徴を持つ「精神運動」(H・ヨナス),「一つのイデオロギー」(荒井献)と考えられるようになった.むしろこのイデオロギーが特定の宗教と出会った時に,その教義,思想を取り込んで,それぞれの教義体系を作り上げるものと思われる.このため多様なグノーシス主義が存在するのであろう.キリスト教的グノーシス主義以外では,マンダ教徒の正典,マニ教蔵書,ポイマンドレース(ヘルメス文書),東方マニ教トゥルファン断片などを参照のこと.<復> 2.思想.<復> (1) 二元論.グノーシス主義の第1の特徴は,そのラディカルな二元論であり,これがすべての思想の根幹となっている.世界観では,これが至高者と世界(コスモス)の断絶として現れる.至高者は世界を創造もしないし,支配もしない.至高者は光の領域に,世界はこれから遠く離れた闇の領域に属している.世界は下位の支配者たち(アルコーン)によって創造され,統治される広大な牢獄のようなもので,その最も奥にある地で人間は生活している.世界の創造が一人の支配者に帰される場合,それはデミウルゴスと呼ばれる.二元論は人間観にも及んでいる.人間は肉体・魂・霊から構成されるが,そのうち霊のみが本来的自己(原人)であり,至高者に由来している.世界の諸権力は,これに倣って人間の肉体をつくり,それに魂を吹き込んだ.しかしそれは世界に対応している非本来的自己であり,至高者と等置される霊(プニューマ.閃光とも呼ばれる)は,肉体と魂の中に閉じ込められている.救済されていない状態の人間は,自らを自覚せず,無知で眠った状態にある.<復> (2) 救済の手段としての知識.グノーシス主義の二元論では,人間が鍛練や修行によって自己の救いに到達することは不可能である.グノーシス主義の救いは,非本来的自己を世界(肉体と魂)から解放して,光の領域に戻すことである.このために人間は本来の自己を知らなければならない.それは同時に本来的自己と等置される至高者を知ることである.これが救いに至らせるグノーシス(知識)である.しかし人間は自らこの知識に到達することはできない.そこで自己と至高者についての啓示者または救済者が要請される.それは光の世界からの使者である.キリスト教的グノーシス主義では,この使者がイエス・キリストであると考えられる.この世の支配者たちは,あらゆる手段を尽してこの啓示者の侵入を妨げようとする.しかし彼はそれらの障害を乗り越えてこの世界に侵入し,人間に知識を与えて霊を覚醒させる.この知識が世界と人間について説き明かすグノーシス主義の福音であるが,それは同時に肉体と魂から解放されて世界から脱出し,神のもとに帰る道を示している.地上でこの知識を持った人は,霊的人間(プニューマティコイ)となり,その人の霊は死後,上方に昇っていき,一切の地上的付着物を脱ぎ捨てて,ついには至高者の実質と一つになる.<復> (3) 道徳.グノーシスの所有者である霊的人間は,無知な大衆とは全く区別された存在である.彼らはすでに知識の照明を受けており,至高者と同一となっているので,世界に対して敵意を持ち,これを軽蔑する.このような霊的人間は,地上で全く相反する二つの道徳観を持つに至った.禁欲主義と放埒(放縦)主義である.前者は地上のものに汚されるのを避け,世界との接触を避けようとする志向であり,後者は世界の侵すことのできるのは肉体と魂までで,霊は世界の道徳律より上位にいるので,何をしても許されると考えた.しかし実際には放埒主義のグノーシス主義者は少数であったと考えられている.<復> 3.起源.<復> 19世紀の神学者アードルフ・フォン・ハルナックの有名な定式によると,グノーシス主義は「キリスト教の過激なギリシヤ化」であった.直接のグノーシス文献が少なく,教父たちの証言という2次資料に頼らざるを得なかったこと,その教父たちもユスティノス以前はグノーシス主義に対して口を閉していることから,長い間,グノーシス主義はキリスト教の異端として発生したと信じられてきた.<復> しかしその後の考古学的研究,特にナグ・ハマディ文書の発見により,2世紀にグノーシス文書が存在していたことが確実視されるようになった.2世紀に文書が存在していたとすれば,そのような思想が一夜にして成立しないことは明らかであり,当時の時代状況を考えれば,ある思想が文書化されるまでに数十年を要すると考えられることから,年代史的にはグノーシス主義が,キリスト教の発生とほとんど同じくらいまでさかのぼる可能性が示されたわけである.文書の内容から判断しても,非キリスト教的グノーシス文書の存在は,グノーシス主義がキリスト教とは別に成立,存在したことを物語っている.ナグ・ハマディ文書には非キリスト教的グノーシス文書と同時に,キリスト教的グノーシス文書,そしてキリスト教化しつつあるグノーシス文書が含まれているが,これはグノーシス主義がキリスト教に出会って変化したことを意味する.しかしながら,これらの内的証拠も,グノーシス主義がキリスト教に先立って成立したかについては沈黙する.<復> 現在まで,グノーシス主義の起源をどこに求めるかについては,ギリシヤ起源説,バビロニヤ起源説,エジプト起源説,イラン起源説,またはこのいずれかの混合,さらにこれらにユダヤ教,キリスト教的要素が加わったなど,諸説が提示されてきた.H・ヨナスは,グノーシス主義の背景として,アレクサンドロス大王の東方遠征を見,ヘレニズムとオリエントの統合に,グノーシス主義の芽を求める.グノーシス主義の本質自体から起源について考えると,絶対二元論はユダヤ教に,自己認識による救済はプラトニズムに,救済者はユダヤ教の知恵文学に同様の思想が存在する.このことからも,グノーシス主義はギリシヤ思想とオリエント思想(特にユダヤ思想)の混合であると言えそうである.荒井献はこれらを踏まえて,グノーシス主義の成立を,キリスト教とは無関係に,ヘレニズム・ユダヤ教の地域であったと考える(『原始キリスト教とグノーシス主義』p.351以下).<復> 4.問題点.<復> 起源はキリスト教とは無関係であったとはいえ,グノーシス主義の救済者観はキリスト教と容易に結び付き,2世紀になると,ウァレンティーノスなどの哲学的素養のある人々により,キリスト教的グノーシス主義は,それぞれの教義体系を持つに至った.W・ウォーカーは,グノーシス主義が,「歴史的なキリスト教を圧倒するほどに脅かし,そのためにキリスト教会に,パウロが律法からの自由のために戦って以来の最大の危機をもたらした」(『古代教会』〔キリスト教史1〕p.109)と述べている.個々のキリスト教的グノーシス主義の思想は多少の相違性を持つが,その共通するところをキリスト教と比較すると,以下のような問題点がある.<復> (1) グノーシス主義の至高者は,天上にあって超越しており,悪と悩みに満ちた世界の創造者ではあり得ない.これに対し,キリスト教の神は世界を創造し,支配する人格神であり,グノーシス主義の抽象的,神秘主義的神観とは,全く本質を異にする.<復> (2) この至高者に対する見方は,当然旧約聖書の神観と相いれない.事実多くのキリスト教的グノーシス主義は,旧約聖書の正典性を否定しており,旧約聖書と新約聖書の連続性を認めない.<復> (3) 同様にグノーシス主義において,至高者のもとから来たキリストが受肉することはあり得ない.肉体はこの世の支配者たちの産物だからである.またこの世界を超越している光の使者が,この世から十字架の辱めを受けることも受け入れられない.グノーシス主義においては,受肉の段階においてか,受難の段階においてか,キリスト論は仮現論にならざるを得ない.<復> (4) グノーシス主義の救済者は,人間の霊を覚醒させ,救いに至る知識を与える役割を担っている.そこでは十字架の苦難は,何ら救済的意味を持たない.復活による勝利もなく,使者は役割を果した後,天に帰る.<復> (5) グノーシス主義には,身体の復活,最後の審判,キリストの来臨,新天新地の出現などの終末論が存在しない.救われた人間の霊が次第に上昇して至高者の領域に入り,至高者と本質を同じくすることが,グノーシス主義の救いである.<復> これらの問題点をまとめると,グノーシス主義には歴史の概念がないことが最大の問題点であろう.聖書の神は世界を創造し,歴史に介入して,これを支配される神である.また世の初めからおられたキリストは,時至って人間のただ中に,人間と同じ姿で来られ,身代りの贖いを完成された方である.このキリストは世の終りに再び来臨され,審判の席に着かれる.その時,キリストにある者は栄光の体でよみがえらされ,新天新地を生きる.このような歴史を貫く神のわざ,そのリアリティーが欠落している点が,神の救いをむなしくするグノーシス主義の危険性である.<復> 5.新約聖書とグノーシス主義.<復> グノーシス主義は,新約聖典とまでは断定できないにしても,キリスト教思想と出会うことによって,キリスト教的グノーシス主義を生み出していったことは確かである(→本項目3.).それではこの逆はどうであろうか.新約聖書中にグノーシス主義と共通の思想,用語が存在することは周知の事実である.これはグノーシス主義が新約聖書に影響を与えた,さらに言うならば新約聖書がグノーシス主義の思想を含んでいることの証拠になるのであろうか.以下,幾つかの点について検討してみる.<復> (1) トマス福音書はQ資料か.新約外典トマス福音書の存在は,ヒッポリュトス(3世紀)やオーリゲネース(同世紀)の証言により,古くから知られていたが実物が発見されていなかった.そこで1945年に発見されたナグ・ハマディ文書の中に,「トマス福音書」と後書きされた文書が発見された時には,センセーションを巻き起した.トマス福音書は,福音書と名付けられてはいるが,イエスの生涯の記録ではなく,イエスの語録である.そしてこの語録の中には,福音書中のイエスのことばと共通したものが多く含まれている.このことから,この福音書が正典中の福音書の資料,特にマタイとルカの共通資料であったQではないかと論じられてきた.果して,古代教父によって異端として退けられ,内容もグノーシス主義的であるトマス福音書が,マタイとルカによって用いられたのであろうか.コプト語トマス福音書が3世紀初めに存在したのは確かであるので,その原本は新約聖典より古いとする学者もいる.しかし両者の内容を比較してみると,トマス福音書には,正典においては重要なモチーフである「人の子=メシヤの到来」の表現がなく,黙示表現もまれである.従って,この福音書が初代教会のイエスの言葉伝承と何らかの形でつながっていた可能性は否定できないが,直接マタイ,ルカによって用いられた可能性は低い.<復> (2)「ヨハネの福音書」とグノーシス主義.聖書のヨハネの福音書の中には,明らかにグノーシス主義と共通した要素がある.光と闇,霊と肉,真理と偽りの対比などの二元論,ヨハネのプロローグと,ナグ・ハマディ文書の「三体のプローティノイア」の類似,先在→来臨→受難→高挙という図式のキリスト論(ケーゼマンはヨハネのキリスト論をナイーブな仮現論と見なす)などである.しかしながら,この共通性からヨハネがグノーシス主義の影響を受けたとは断定できない.ヨハネの時代に,グノーシス主義がその社会に影響を与えており,ヨハネの用語法にもその影響があった可能性は否定できない.しかしそれがヨハネの思想にまでは影響を与えていなかったことは,ヨハネの福音書で受肉と受難におけるキリストの人間性に重点が置かれている(1:14,4:6,7,11:35,19:28,34)ことから明らかであろう.他方ヨハネは反グノーシス文書としてこの福音書を書いたために,共通の用語を用いつつ仮現論を排除したという学者もいるが(R・H・ストローン),ヨハネがそれを目的としたかどうかは疑わしい.<復> (3) その他の新約文書の背景となっている論敵・異端者.コリント人への手紙第1でパウロは「知恵のことば」に対して「十字架のことば」を強調する.コリント教会に入り込んでいたのはグノーシス主義ではないか.牧会書簡の中で「ユダヤ人の空想話」(テトス1:14),「果てしのない空想話と系図」(Ⅰテモテ1:4),「俗悪なむだ話,また,まちがって『霊知』と呼ばれる反対論」(同6:20)と言われるものはグノーシス主義ではないか.ユダが「御霊を持たず,分裂を起こし,生まれつきのままの人間」(ユダ19節)と呼んでいるのは,グノーティコイではないか.ヨハネは手紙の中でキリスト仮現論を反駁しているのではないか.など,新約聖書の背景にグノーシス主義の影響があることが指摘されてきた.この時代にすでにグノーシス主義的思想が存在したことは既述の通りであるが,これら個々のものがグノーシス主義と言えるものであるか否かについては,新約聖書,グノーシス主義双方の側から,さらに研究が進められなければならない.→ヘルメス文書,デミウルゴス,プレローマ,ナグ・ハマディ文書.<復>〔参考文献〕荒井献『新約聖書とグノーシス主義』岩波書店,1986;H・ヨナス『グノーシスの宗教』人文書院,1986;Hedrick, C. W.(ed.), Nag Hammadi, Gnosticism and Early Christianity, Hendrickson, 1986 ; Yamauchi, E., Pre‐Christian Gnosticism, Grand Rapids, 1983.(田中智恵)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社