《じっくり解説》律法とは?

律法とは?

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律法…

1.定義.<復> 律法は,神が人間に対して自己自身と意志を啓示し,両者の関係を正しく保持するために人に課した要求ないし命令である.そのため,行動を規制するという要素が目立つが,背後に人類に対する神の配慮と期待があるという点において,いわゆる社会的法律や慣習法とは根本的に区別される.<復> 2.旧約聖書における律法.<復> (1) 律法を指す用語.旧約聖書において律法を指す代表的な用語は,[ヘブル語]トーラーと[アラム語]ダース(エズラ7:12,25,26,ダニエル6:5)であり,同義語はほかにもかなりある(教え,戒め,おきて,さとし,命令,定め,さばき,道など).<復> [ヘブル語]トーラーは元来,「教える,投げる」を意味する動詞[ヘブル語]ヤーラーに由来する.それは必ずしも非人格的な規定条文を指すのでなく,むしろ神の「教え,指示」の意味である.それは,父母が子供に対して行う「教え」に類比が認められる(箴言1:8,3:1,6:20).神こそは偉大な教師である(詩篇25:4,86:11).この概念を一般化して言えば,律法は神のことばと教え,神託のすべてを意味している(イザヤ1:10,8:16,ミカ4:2).<復> (2) 旧約律法の意義と歴史的発展.神学的に言って律法は,神の存在イメージを地上に投影する.それは「わたしはある」者(参照出エジプト3:14)として語りかけ,一般的には主(ヤハウェ)と呼ばれる神を根源としており(参照レビ26:1,2,13),人間にその義務を明らかにする.それはまた啓示の漸進性とかかわって考察される.<復> ヴェルハウゼンら批評的な学者はかつて,律法は旧約宗教発展の最後期にまとめられたと考え,決疑法は法廷に,断言法は契約祭儀に起源を持つと見た.しかし今日では,より複雑にその成立史の再構成が試みられる.<復> 律法の最も素朴な様式は,創世2章の創造物語において見られる.人は,エデンの園のすべての木の実を食物として与えられたが,ただ「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と命令された(創世2:17,3:11).これに従う時,人は永遠のいのちを含む神の祝福を享受することができる.律法への従順は,人類にそれを賦与した神の存在とその善意とを信じる信仰によって基礎付けられる.しかし人は,この律法を破ったために,全き祝福への道を閉され,死を免れないものとなった(創世3:17‐19).罪の結果,夫婦関係は破れ,兄弟は憎しみをもって殺し合い,天上と地上の倫理的な秩序は乱れ,暴虐が地に満ちることとなった.<復> 最もまとまった形の律法は,モーセを仲介者としてシナイ山でイスラエル人に与えられた(出エジプト18:16).その中核を成すまとまりが十戒(十のことば)と呼ばれる(出エジプト20章,申命5章).律法への従順は,エジプトでの奴隷生活によって典型的に象徴される束縛が過去のものとなり,今や神との新しい関係に置かれていることへの感謝の表出である.律法を与えた神は,族長(創世26:5)を初めとする神の選ばれた民が,神の聖さにふさわしい生き方をすることを期待される(レビ18:5,19:2).<復> 神の具体的な語りかけは,神の任命した指導者(申命17:9‐11),祭司(エレミヤ2:8,ホセア4:6),預言者(イザヤ5:24),賢者(箴言13:14,28:4,7)らを通してなされた.それらが書き記される時,具体的な形の「律法の書」が成立し(ヨシュア1:8,24:26,Ⅱ列王14:6,22:8),聖所に保管される(申命31:24‐26).民の指導者は,その教え(トーラー)を解説する(申命1:5).<復> イスラエルがバビロンに捕囚となり,エルサレム神殿における犠牲奉献を中心とした宗教生活が不可能になると,会堂に集まる人々の関心は,律法とその倫理的な適用に集中した.捕囚からの帰還後,エズラが人々に律法を読み聞かせた情景は,律法が以前よりもはるかに重要な意味を持つようになったことを示唆する(ネヘミヤ8,9章).旧新約中間時代に,その傾向がさらに助長されたことは,外典文書に律法への言及が多いことに反映される.<復> (3) 旧約律法の特質.旧約律法には犠牲奉献や祭儀,安息日や祝祭(レビ23,25章)の規定など,多くの宗教的・祭儀的な戒律が含まれている点において,ハムラビ法典などの法令とは著しく異なる.それはイスラエル民族の宗教的秩序を表す.ささげ物のうち代表的なのは,全焼のいけにえ,和解のいけにえ,罪のためのいけにえ,穀物のささげ物である.<復> 契約と律法とのかかわりについて言えば,アブラハム契約,ダビデ契約は,神がその計画を開示し,自らに義務を課する仕方で与えられており,厳密な意味における律法規定を欠いている.他方,シナイ契約には,律法を代表する十戒(十のことば)が含まれるが,それは,神の自己顕現,その恩恵の歴史的回顧に続く,第3の要素であり,その後さらに保存と再朗読の勧告,契約の証人,祝福とのろいの道が示される.律法は,神の恩恵と契約関係を土台として与えられるのであって,決してその逆ではない.恵みは常に,律法の賦与に先行している.<復> 旧約の律法(トーラー)は,その語源からして,かなり含蓄のある用語である.特に詩篇における律法の概念は典型的であって,例えば119篇を見ると,それは自由(45節),喜び(92節)をもたらし,世の富にまさって慕わしい(72節).それは愛の対象(97節),また真理であり(142節),平和の基礎(165節)である.預言者によれば,人間が神との交わりに入る時,律法は心に記される(エレミヤ31:33).<復> 3.新約聖書における律法.<復> (1) 律法を指す用語と用例.新約聖書において「律法」と翻訳される用語はほとんどが[ギリシャ語]ノモスであり(マタイ5:18,ローマ3:19‐21),「学問」と訳出される[ギリシャ語]グラムマは同義的である(ヨハネ7:15).[ギリシャ語]ノモスは,「割り当てる,分与する」を意味する動詞[ギリシャ語]ネモーに由来し,古典ギリシヤ語においては法的な規範を指す用語であり,原理,原則といった含蓄も持っていた(参照ローマ3:27,7:21‐25,ヤコブ1:25).その反意語となる名詞は「不法をなす者」[ギリシャ語]アノミア(マタイ7:23),形容詞は「律法を持たない」と訳出される[ギリシャ語]アノモスである(ルカ22:37「罪人」,Ⅰコリント9:21).<復> 新約聖書においては,70人訳聖書の用語法が引き継がれており(ガラテヤ3:10に申命27:26が引用される),律法のことばとともに臨在する人格神を想起させる.新約で[ギリシャ語]ノモスと呼ばれる内容は,テキストによって多少異なり,十戒(ローマ7:7),モーセ五書(ルカ2:22‐24,10:26,ヨハネ1:17,45,ガラテヤ3:17,21,ヤコブ2:10,11),さらに広く預言書,諸文書を含む旧約聖書全体(ヨハネ10:34,12:34,ローマ3:19,20,Ⅰコリント14:21)を指す.従って,旧約聖書は「律法と預言者」(マタイ5:17,ルカ16:16),「律法と預言者と詩篇」(ルカ24:44)などと称される.「律法学者」([ギリシャ語]グラムマテュース:マタイ17:10,マルコ9:11;[ギリシャ語]ノモディダスカロス:使徒5:34,ルカ5:17「律法の教師」)と呼ばれる人々は,捕囚時代以降に現れ,律法を専門的に研究し,人々を指導した(参照エレミヤ8:8「書記」).新約聖書において後期ユダヤ教の伝承(言い伝え)は,本来の旧約律法から区別されている(マルコ7:5‐13,コロサイ2:8).<復> (2) イエスと旧約律法.イエスは最初,律法に従順であろうと努めたヨセフ,マリヤの家庭にゆだねられた.「彼らは主の律法による定めをすべて果たした」(ルカ2:39.参照ルカ2:22‐24,27).新約聖書においてイエスとその弟子が旧約律法を軽んじたと見るのは正当でない.「律法の下に」(ガラテヤ4:4)生れたイエスが対決されたのは,ユダヤ教において律法を誤用していた者たちに対してであって,旧約律法とその精神に反する生き方を提唱されたのではない.「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません.廃棄するためにではなく,成就するために来たのです」と明言している(マタイ5:17.参照マタイ5:18,19,ルカ10:25‐28).いわば,律法の律法主義的な受け取り方を否定されたのであった.イエスはむしろ,律法条項の形式的な実行だけでは不十分であるとし(マタイ5:21以下,マルコ10:17以下),旧約律法のすべては神への従順と隣人への愛として要約できると大胆に宣言された(マタイ22:35‐40).この立場は,初代教会によって継承された(ローマ13:8‐10.参照Ⅰヨハネ2:7‐11).<復> (3) 律法と律法主義.新約聖書においてパウロは,律法の意義を神学的に詳細に論じ,それを消極的背景としながら信仰義認の教理的主張を展開する.そこにおいて律法は,合法的かつ明確に人の罪を責め,さばくものであり,神の怒りを啓示する.それは福音の原理に対立する原理である.<復> 創造主の存在イメージと律法の要求は,すべての人の心に残っている(ローマ1:18‐32).律法は,それ自体が悪ではなく(ローマ7:12),人は律法を守るべきである(ガラテヤ3:12).問題は,律法に示される神の御旨を全うし得ない人間の罪である(ローマ7:7‐11).とはいえ神は,すでに罪の下にある人間が自分の力によって律法を完全に守り得るとは考えておられない.すべての人は罪を犯したために,神に好ましい取り扱いを要求することはできない.さて,律法を遵守することによって神の好ましい応答と報いを引き出し得ると見る考え方を,律法主義と言うが,それは基本的に言って神と律法の性格への誤解に基づいている.義は義認の根拠であり,義は神の御旨への完全な従順である.しかし,それは神の恩寵を引き出す手段ではない.義認への道は,神への信頼と信仰によって開かれるのである(ローマ3:28,31.参照創世15:6).信仰による義は,律法の遵守という人間のわざとは別に与えられるのであって(ローマ3:21,28),自分の義を立てようとする者は,かえってその目的を果すことができない(同10:3).これと対照的に聖書は,信仰者が律法に対して死に(ローマ7:4‐6),義認はキリストの従順がわれわれ人間のものとして評価され,律法に基づくわれわれへの非難がキリストの上に転嫁されたという「幸いな交換」によって与えられると教える(ローマ8:1,2,ガラテヤ3:13).理論的には,永遠のいのちが完全な従順への報いとして示されるとしても(ローマ10:5),それは人類が罪を犯さないことを仮定して初めて可能な事柄にしかすぎないのである(ヤコブ2:10).<復> 4.律法の種類と用法.<復> 基本的に言って律法は,人類の繁栄と幸福のために与えられた.「私が…あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない.そうすれば,あなたがたは生き,その数はふえ…」(申命8:1.参照4:1).その種類は,内容の上から,社会法規,儀式律法,道徳律法に大別される.また,その用法と機能は普通,次の三つに区分して述べられる.<復> (1) 市民的用法.律法は,人間がまとまりのある一つの国家ないし共同体として存在し得るための基準であり,枠組みである.社会秩序の究極の権威者は,世界を創造された神である(ローマ13:1‐7,Ⅰペテロ2:13,14).律法は,刑罰が与えられるという警告によって不信心な心を抑制し,社会悪を阻止し,また正義と安全とを保証し,善を推進する規則である(Ⅰテモテ1:9,10).<復> (2) 教育的用法.儀式律法を含めて,すべての律法は人にその罪を悟らせ(ローマ5:13,20,ガラテヤ3:10),罪に対する神の怒りを宣言し(ローマ4:15,7:11),罪,さばき,滅びの関係を明らかにする(ローマ8:2,3:19).それは結果的に,キリストによる救いを求めさせるように働き,いわば「養育係」としての機能を持つ(ガラテヤ3:14‐25).<復> (3) 倫理的用法.神の義,キリストの従順な生涯は,かつて律法とそののろいのもとにあった人間を贖い,滅びから救い出した.しかし律法は,信仰者と無縁になったのではなく,信仰者の生活規範としての機能を持ち続けると見られる(マタイ5:16,エペソ6:2‐4,ヤコブ2:8‐13,Ⅰヨハネ5:3).その場合の倫理的な効用は,律法の第3用法と呼ばれる.いわば信者を聖化する手段,義の基準である.キリストの律法(ガラテヤ6:2)とは,キリストの模範に倣うことであり,それは信仰者の心に記されている(Ⅰコリント9:21,Ⅱコリント3:3).それは聖霊に従う生活の指針であって(ローマ8:1‐9),神と人とに対する愛によって結論付けられる.従順の土台は,神への純粋な感謝と愛である(ローマ13:8‐10,ガラテヤ5:14).そこにおいて,信仰の生活は律法を全うするものとなるのである(ローマ3:31,8:4).<復> 今日的判断においては,旧約の祭儀的律法は効力を失ったが,倫理的律法は不変であり,今も有効であるとされる(使徒15章,ヘブル7:12,8章).またルーテル教会では一般に,「恵みのみ」による救いを強調するという脈絡において,第2の教育的な用法が重んじられ,「律法と福音」を明確に区別することが教えられる.他方,改革派教会においては,統一的世界観と「恵みの手段」の理解を背景として,律法を福音に従属する位置に置いて,第3の倫理的用法についての洞察が深められている.→神のことば,モーセ五書,契約.<復>〔参考文献〕岡田稔『改革派教理学教本』新教出版社,1969;H・ジェーコブズ『キリスト教教義学』鍋谷堯爾訳,聖文舎,1970;Davies, W. D. et al., “Law,” Interpreter’s Dictionary of the Bible, Vol. 1, Abingdon, 1962; Esser, H. H., “Law,” The New International Dictionary of New Testament Theology, Vol.2, Zondervan, 1976 ; Motyer, J. A., “Law,” Evangelical Dictionary of Theology, Baker, 1984.(石黒則年)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社