エルサレムとは?
エルサレム…
1.名称.<復> エルサレムは,ヘブル語では双数であったらしく,yeru^s▽a~layimとなっている.エルは基礎という意味で,サレムはカナン人の神であったかもしれないと言われるが,町の名の由来はなお確かではない.エルサレムは,シオンとも呼ばれ,同義的に使われている.<復> 2.歴史.<復> (1) 前3000年期.丘の斜面で初期青銅器時代Ⅰの層から土器が発見されている.この土器が定住者のものか,泉の周囲に集まった遊牧民のものかは断定されていない.<復> (2) 前2500年頃とされるエブラ文書に聖書においてよく知られているハツォル,メギド,ラキシュ,ヤフォ,アシュドデなどと並んで「サリム」が登場するが,場所の特定はされておらず,同一視は困難であろう.<復> (3) 前19—18世紀.エジプトの呪詛文書にエルサレムの王たち(ル・シャリムウム)が,カナンやシリヤの都市国家の支配者たちとともに現れており,この時代と思われる層から墓と陶器が発見されている.<復> (4) 聖書においては,エルサレムはアブラハムの物語に最初に登場する.シャレム(エルサレム)の王メルキゼデクに会った(創世14:18‐20)とある.この記録によると前18世紀頃に,エルサレムは都市国家として知られていたらしい.<復> (5) アマルナ時代(前14世紀).この時代には,エジプトがカナンを支配していた.カナンの諸王からエジプト王にあてた文書(アマルナ文書)にエルサレムが出ている(ウルサリム).<復> (6) イスラエルの時代.カナン征服時代にはエルサレムの王アドニ・ツェデクがエモリ人の連合軍を率いてヨシュアに対抗した.ダビデの時代になってようやくイスラエルのものとなり,「ダビデの町」に改称された.ダビデは,王国の首都と定めて契約の箱をシロから運び入れた.これによって,エルサレムが礼拝の中心となる基礎がつくられた.ソロモンはダビデの遺志を継いで,シオン山(モリヤの山)に神殿と宮殿を建て,町を北側に拡張した.エルサレムはイスラエル王国の政治と宗教の中心地となった.分裂王国時代になるとエルサレムは南王国ユダだけの首都となり,聖所を持つ小さな礼拝所がイスラエル全土に設けられた.北王国イスラエルが,前722年,アッシリヤに滅ぼされて後,エルサレムはイスラエルの民の宗教と政治の中心地としての位置を取り戻したが,神殿の存在が重要であった.ヒゼキヤは,政治,経済,宗教の中心地としてエルサレムの地位を不動のものとした.アッシリヤの王セナケリブの侵攻に対抗して城壁を補強し,ギホンの泉の水を城壁内に引き入れた(シロアムあるいはヒゼキヤのトンネル).マナセはオフェルを補強し,ギホンの西に新しい城壁を設けた.ヨシヤは,宗教改革を行い各地の祭壇を破壊し,偶像礼拝を禁止して,エルサレム神殿においてのみ礼拝を行うようにした.ヨシヤの治世に,ユダはアッシリヤのくびきから解放されて,領土を拡張し,経済と宗教の繁栄を享受した.<復> (7) 捕囚期(前6—5世紀).エホヤキムとエホヤキンの反バビロニヤ政策に対してバビロンの王ネブカデネザルは,前597年にエルサレムを攻略し,エホヤキンと指導者たちを捕囚とした.前586年には再度,エルサレムは略奪を受け,神殿は焼き払われた.エルサレムは約50年間荒れるに任せられ,ユダヤはペルシヤの属州に編入された.前538年ペルシヤの王クロスは勅令を発し,捕囚民の帰還を許したため,ユダヤ人はエルサレムに帰り,神殿を再建することができた(エズラ記).ゼルバベルは神殿を再建し,エズラは民の信仰を建て直し,ネヘミヤはエルサレムの城壁を補修し堅固にした.こうして,イスラエルの民の宗教,社会,経済が復興した.<復> (8) ギリシヤの時代(前4世紀後期—前2世紀).前332年,アレクサンドロス大王がペルシヤを平定しユダヤはその属州とされた.エルサレムはギリシヤ文化の影響のもとに置かれた.アレクサンドロス大王の後継者たるエジプトのプトレマイオスとシリヤのセレウコスは,ユダヤ州を挟んで互いに覇権を競った.この情況は,マカベアの反乱に至るまで続いた.シリヤの支配下にあって,ユダヤの内政は神政政治であり,祭司がエルサレムの上流階級であった.セレウコス王朝の意向に沿って選出される大祭司は宗教だけでなく,民政の指導者でもあった.その結果,上流階級にはギリシヤ文化が広まり,日常生活にも変化がもたらされた.前175年にアンティオコス4世エピファネースが即位すると,ヤソンがエルサレムの大祭司職を金銭で手に入れジムナジウムを建て,エルサレムをアンティオキアというギリシヤ風の町(ポリス)に変える許可を得た.これはユダヤ人の生活をギリシヤ化する動きだけではなく,それを求める人と伝統を守ろうとする人との間の抗争にもはずみをつけることになった.さらに,シリヤ軍の介入を招くことにもなった.シリヤの影響力を強化しようとしてアンティオコス4世は,前168年に神殿の境内地を見張り,支配する目的でアクラと呼ばれるとりでを新しく設けた.神殿で異教の礼拝を行い,豚をささげ,聖書を所持した者は処刑された.ハスモン王朝のマッタティヤを指導者としてマカベアの反乱が起った.ユダヤ人は政治的独立を勝ち取った.<復> (9) ローマ時代(前1世紀—紀元4世紀).シリヤのセレウコス王朝を倒したローマは,前63年にポンペーイウスがエルサレムに侵攻した.ユダヤはローマの属州となりその支配に服した.ローマに亡命していたイドマヤ人ヘロデは皇帝アウグストゥスからユダヤの王の称号を得てパルテア人に占領されていたエルサレムを解放した.前37年から紀元70年にかけてエルサレムは,ヘロデ王家とローマ総督によって支配された.前37—4年のヘロデ大王は,大建築運動を展開した.城壁を補強し,捕囚後の神殿とは比較にならないほど壮大な神殿建築に着手した.前20年に着工し,完成は,その死後の紀元62年である.彼の業績は善悪の両面において偉大である.優れた政治家であり,ローマに取り入ってその支持を取り付け,聖地以外にも広く勢力を伸すことができた.他方,ハスモン家を圧迫することに関しては全く妥協しなかった.家来であれ親族であれ彼に反対する者は徹底して迫害した.彼に対するユダヤ人の憎悪は,彼がイドマヤ人であることとユダヤにおいては合法的な王家であるハスモン家に属する人々を滅ぼしたことによる.ヘロデ大王は,ギリシヤ・ローマ文化の熱心な信奉者であった.紀元66年,ローマに対する反乱が起った.70年,ティトゥスとの143日に及ぶ攻防戦の後に,エルサレム及びその神殿は猛火に包まれて焼け落ちた.市街に突入したローマ兵が至る所で人々を惨殺し,家々に放火した.ティトゥスがエルサレムを破壊してからは(ヨセフスは『ユダヤ戦記』4:4などで,ティトゥスは作戦会議で神殿を破壊から救おうと主張したと述べている),ローマ第10軍団の基地とされた.バル・コクバの乱と呼ばれる第2次反乱は,ハドリアーヌスの治世,132—135年ユダヤで起った.ハドリアーヌスはエルサレムをその礎石に至るまで徹底的に破壊し,その廃墟の上に新しい町を建て「コロニア・アエリア・カピトリナ」と命名した.それは,プーブリウス・アエリウス・ハドリアーヌスという彼の名前と新しい町の守護神とされたカピトリネ・ジュピターにちなむものである.ユダヤ人は追放され,この町及びその近郊に居住することは許されなかった.<復> (10) ビザンチン時代(4—7世紀).324年のコンスタンティーヌス大帝の勝利により,キリスト教が帝国内において公認されるようになった.シリア・パレスチナ州の辺境であった聖地がローマ帝国全体を治めるための重要な要素になり,エルサレムは再び宗教の中心地となった.エルサレムは巡礼の目的地であり,教会や修道院,ホステルなどの建築が集中的に行われた.コンスタンティーヌス大帝の治世の初期に聖墳墓教会が建てられた.彼の治世においてはユダヤ人の追放は解除されていなかった.「背教者」と呼ばれるユリアーヌス帝(361—363年在位)は,親族が殺されたことや,新プラトン主義哲学の立場に立って教会に反感を持ち,異教の哲学と宗教を広めるために援助を惜しまなかった.エルサレムをユダヤ人に返還し,神殿を再建しようとしたのである.ユリアーヌスは,ペルシヤ遠征の出発前に重ねてエルサレム及び神殿再建の約束を明言したが,彼は遠征先で死に,神殿再建工事は地震と推定される事故によって中断されてついに完成しなかった.<復> (11) ペルシヤ軍の侵入から現代まで.603年に始まったローマ軍とペルシヤ軍の衝突は,ペルシヤ軍の勝利に終り,614年ペルシヤ軍がパレスチナ,エルサレムを征服した.これにはユダヤ人の参加があったと言われる.恐らく,ユダヤ人の協力が必要であり,ユダヤ人はイスラエルの回復,特にエルサレムへの帰還を条件としたであろう.パレスチナの歴史では画期的なことであった.すなわち,アレクサンドロス大王の東方遠征から数えると,ギリシヤ,ローマ,ビザンチンのパレスチナ支配が約千年で終り,その後は短期間の例外を除くと,近代に至るまでこの地域の多くが,アラブ人,宗教的にはイスラムによって支配されるようになることを意味する.ローマとペルシヤとが拮抗することによって,結果としては双方が弱体化し,アラブ人による支配が始まる素地をつくったのである.634年にアラブ軍の侵攻が始まり,638年春にはエルサレムがカリフ・オマルの手に落ちた.640年にカイザリアが陥落してビザンチンのパレスチナ支配は終焉を迎えた.691年,荒れるにまかせられていたエルサレム神殿の境内に岩のドームが建立され,イスラムの聖地とされた.1099年になって十字軍によってエルサレムが奪還された.1212年にはエルサレム城壁の再建がなされたがそれも7年後に解体された.1514年にはオスマン・トルコによってパレスチナが征服され,1537年スレイマン大帝がエルサレム城壁の再建(現在見られるもの)を行った.1917年のイギリスによるパレスチナの征服と国連の委任統治を経て,1948年にイスラエル建国がなされた.1967年にイスラエルによるエルサレム併合が行われ現在に至っている.<復> 3.神学的意義.<復> エルサレムは,ケデロン,ヒノム,チロペオンの三つの谷に囲まれた尾根にあるが,北側からは容易に接近でき,また,東側の山地からは手に取るように望見できる.地勢からは要害の地とは言えないであろう.しかし,政治と宗教の中心地として果してきた役割は計り知れない.<復> (1) 神の選びの場所(申命12:5,Ⅰ列王8:16).イスラエルがエジプトを脱出して以来,神はイスラエルのうちに一つの町を選んでそこに住まわれると約束された.その町は,神の民が神を礼拝する場所となると定められていた.ダビデの時代になって,ダビデは,エルサレムの先住者であるエブス人を征服して王の町(ダビデの町)とし,全イスラエルの軍事,政治の拠点とした.ソロモンがダビデの町を北方に拡張して神殿を建築してからは,それまで以上にエルサレムがイスラエルの礼拝の中心ともなった.そこではモーセ律法の下で祭司がいけにえをささげた.キリストがエルサレムで死なれたことは,キリストが旧約聖書の制度と約束とを実現されることと不可分であろう(マルコ10:33,ルカ24:49,52).<復> (2) 神の民.エルサレムは単に町の名であるだけでなく,そこに住む住民,神の民,終末の教会を表す場合がある(詩篇79:1,Ⅱ歴代32:26,33,ガラテヤ4:26,ヘブル12:22,黙示録21:2,10,22).預言者によればキリストの支配における首都になる(エレミヤ31:40,ゼカリヤ8:4,5).ヨハネの黙示録によればエルサレムは天の町であり,その美しさはあらゆる宝石で飾られた町にたとえられている.ところがその町には,神殿がない.「それは,万物の支配者である,神であられる主と,小羊とが都の神殿だからである」(黙示録21:22).しかし,それと,エルサレムが陥落した時キリスト者が旧約における神の契約の民の真の後継者であると自認し,キリスト教がローマ公認宗教となってからはエルサレムを信仰の焦点として位置付けたこととは異なるであろう.<復> (3) 神のさばき.エルサレムが神の選びのゆえに歴史上に特別な位置を占めたことは,その栄光だけにとどまらず,人間の罪のゆえに,それを誇ることにもつながり,神のさばきの対象ともなった.預言者は繰り返しエルサレムの罪を指摘し,悔い改めを迫った(イザヤ1:21,エレミヤ7:1以下,エゼキエル16:2,ミカ3:10).<復> 姦淫,不従順,偶像礼拝,律法の軽視などの罪のゆえに責められている.エルサレムは警告を無視し,預言者のことばの通りに異邦人の軍隊によって攻撃され,陥落した.その結果,王及び民の指導者が遠国に捕囚として連行された(エレミヤ25:11,ダニエル9章,詩篇137篇).キリストもエルサレムのために泣かれた(ルカ19:41‐44).救いに導こうとする者を苦しめ,殺害することがエルサレムの罪の集約なのであろう.その罪のゆえに神のさばきを受け,滅亡する(マタイ23:37).しかし,さばきの中にも神のあわれみによる回復が語られている(ルカ21:24).(→図「紀元135年以降のパレスチナ」),→イスラエル,選民,神の民.<復>〔参考文献〕The Illustrated Bible Dictionary, 4Vols., IVP, 1980 ; Elwell, W. A.(ed.), Evangelical Dictionary of Theology, Baker Book House, 1984 ; Alon, G., Jews, Judaism and the Classical World, The Magnes Press, The Hebrew Univ., 1977 ; Avi‐Yonah, M., The Jews under Roman and Byzantine Rule, The Magnes Press, The Hebrew Univ., 1984 ; Avigad, N., Discovering Jerusalem, Shikmona Publishing Co., 1980, Eng. Trans., 1983.(下村 茂)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社