《じっくり解説》しもべとは?

しもべとは?

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しもべ…

他者に忠義を尽す義務を負う者.<復> 1.旧約聖書では,[ヘブル語]ナアル(エステル2:2で「仕える若い者」と訳出),[ヘブル語]ネティーニーム(Ⅰ歴代9:2「宮に仕えるしもべたち」),[ヘブル語]シャーラス(詩篇103:21「仕える者」,104:4「召使」),[ヘブル語]ツァーイール(エレミヤ14:3「召使」),[ヘブル語]アーマー(創世30:3「はしため」),[ヘブル語]シフハー(創世30:4「女奴隷」)等の語が「しもべ」を表すが,最も頻繁に用いられているのは「働く,仕える」という動詞[ヘブル語]アーバドゥ(出エジプト20:9,21:2,申命6:13等)の派生語[ヘブル語]エベドゥである.この語は,人間関係においては,奴隷(出エジプト21:1‐11,哀歌5:8),家令(創世24:2),家来(Ⅰサムエル8:14),隷属の王(Ⅱ列王17:3),被征服民族(Ⅱサムエル8:2),その他の主従関係や上下関係にある場合の下位の者に対して用いるほか,一人称の謙譲語としても用いる(創世32:4).しもべの対義語は主人であるが,両者の関係は一種の契約関係である(ヨシュア9:6‐8,Ⅱ列王10:5,Ⅱサムエル15:34,ヨブ41:4).この語の契約的用法は,主なる神としもべなる人間との関係を表すのに用いられる.神の選びによって神との契約関係に入れられた人が「神のしもべ」である.そこでは,奴隷が主人のものであるように,主なる神に「属する者」,神に「仕える者」,神のために「働く者」としての人間が「しもべ」と言い表される.例えば,族長アブラハム(創世26:24),イサク(創世24:14),ヤコブ(出エジプト32:13),律法制定者モーセ(出エジプト14:31),モーセの後継者ヨシュア(ヨシュア24:29),義人ヨブ(ヨブ1:8),士師サムソン(士師15:18),預言者エリヤ(Ⅰ列王18:36),預言者たち(Ⅱ列王17:23),王ダビデ(Ⅰサムエル23:10,11)等が神のしもべと呼ばれている.異国の王ネブカデレザルも神の計画遂行の器として用いられたがゆえに神のしもべと呼ばれる(エレミヤ25:9).祭司等の神殿聖職者も神のしもべと呼ばれる(詩篇134:1).信仰者と神の関係はしもべ(奴隷)と主人との関係で言い表される(詩篇123:2).信仰者は自らを神のしもべと呼び(詩篇19:11,31:16),神は御自分に忠実な者を「わたしのしもべ」と呼ぶ(Ⅱ列王19:34,21:8,ヨブ2:3).神の民イスラエルは単数形で主のしもべと呼ばれる(詩篇136:22,イザヤ41:8,9,44:1,2,21,26,45:4,48:20,49:3,エレミヤ30:10,46:27,28).イスラエルは神が選んだ主の証人であり(イザヤ43:10),神が彼らの仕えるべき王である(43:15).だが,彼らは不信実なしもべ,反逆のしもべとなった(申命9:24,イザヤ42:19,20).しかし,彼らの中に少数の忠実な主のしもべたちがいる.それが「残りの者」である(イザヤ65:8‐16).アブラハムやモーセや預言者の例に見られるように,神との契約において,個人の「しもべ」は,イスラエルの民という集団としての「しもべたち」を代表する者である.それゆえ個人としてのしもべと集団としてのしもべは不可分的関係にある(Ⅰ列王8:52‐66).イスラエルを導く者は,神のしもべとして神に仕え,かつ「民のしもべ」となって民に仕えるべきであるとの注目すべき思想がある(Ⅰ列王12:7).レビ25:42で[ヘブル語]エベドゥは「しもべ」と「奴隷」の2通りの意味に用いられている(「彼らは,わたしがエジプトの地から連れ出した,わたしの奴隷(しもべ)だからである.彼らは奴隷(の身分)として売られてはならない」).イスラエルの民はエジプトの「奴隷」であったが,神に救出され,契約によって神の「しもべ」とされ,さらには神の「子」(出エジプト4:22,23)とされる.<復> 新約では,[ギリシャ語]ディアコノス(「仕える者」を表す語.マタイ20:26,ローマ15:8,13:4「(神の)しもべ」),[ギリシャ語]パイス(元来は「子供」を表す語.マタイ8:6,12:18,ルカ7:7),[ギリシャ語]オイケテース(「家の奴隷」,使徒10:7,Ⅰペテロ2:18),[ギリシャ語]パイディスケー(元来は「少女」を表す.使徒16:16「女奴隷」)等の語が「しもべ」を表すが,最も多く用いられるのは,70人訳が主として[ヘブル語]エベドゥの訳語に当てた[ギリシャ語]ドゥーロスである.旧約の用法が新約にも継承され,奴隷(Ⅰコリント7:21‐24,テトス2:9,ピレモン16節),しもべ(マタイ10:24,25),家来(マタイ18:23),はしため(ルカ1:38)等を指す.神との関係においては,神の民(黙示録2:20,19:5),預言者たち(10:7,11:18)が「神のしもべ」と呼ばれる.モーセ,ダビデ,イスラエル共同体も神のしもべと呼ばれる(黙示録15:3,ルカ1:54,69).信仰者たちは自分を「神のしもべ」と呼ぶ(ルカ2:29,使徒4:29,テトス1:1).イエスは特別な意味において神のしもべである(マタイ12:18,使徒3:13,26,4:27,30.これらの箇所では[ギリシャ語]ドゥーロスではなく[ギリシャ語]パイスが使われている).<復> パウロはこの語を「奴隷」の意味で比喩的に用いて,人はキリストにより信仰のゆえに,「罪の奴隷,汚れと不法の奴隷」(ローマ6:16,17,19,20)から解放されて,「従順の奴隷,義の奴隷,神の奴隷」(同6:18,22)とされると述べる.また,同じ語を用いてパウロは自分を「キリスト・イエスのしもべ」と呼ぶが(ローマ1:1,ピリピ1:1),それは旧約の「しもべ」の契約的用法に基づくものである.パウロを初めキリスト者たちが自分を「キリストのしもべ」と呼ぶことは(ガラテヤ1:10),イエス・キリストを「主」と告白することの当然の帰結である(ローマ10:9).一方,イエスは弟子たちをもはや「しもべ」ではなく「友」と呼ぶと言い(ヨハネ15:15),「父」なる神の子とすると言った(20:17).主のしもべは,主に仕えるとともに,他者に仕えるしもべでもある(マルコ10:43‐45,ヨハネ13:4‐17,Ⅱコリント4:5.参照ルカ17:7‐10,Ⅰコリント9:19).ルターの『キリスト者の自由』(1520)は,キリスト者が「自由な君主」でありつつしかも「仕えるしもべ」であることを論じた記念碑的文書である.<復> 2.「しもべ」で最も注目すべきは,イザヤ書の「主のしもべの歌」における「主のしもべ」である.「主のしもべの歌」は普通はイザヤ42:1‐4,49:1‐6,50:4‐9,52:13‐53:12の四つの歌を言うが,42:5‐7,49:7,50:10,11,61:1‐3を加える者もいる.イザヤ書の他の箇所の「主のしもべ」と「主のしもべの歌」に描かれた「しもべ像」とを単純に切り離すことはできないが,明らかに際立った相違がある.「しもべの歌」のしもべが誰なのかということについては,大別して3種の解釈がある.第1は集団説で,しもべはイスラエルないしイスラエルの「残りの者」のことだとする.その主なる根拠は49:3の「わたしのしもべ,イスラエル」である.また,預言者たち,律法の教師たちのことだとする説もある.第2は個人説で,これはさらに,ある特定の歴史上の人物像とするものと,未来の理想像たるメシヤとするものとに別れる.前者の人物像として挙げられてきたのはモーセ,ヨシュア,ヨブ,メシュラム,エレミヤ,ゼルバベル,預言者イザヤ本人,いわゆる第2イザヤ等である.第3は祭儀説で,しもべの歌の背景にバビロニヤ神話の王の死と再生の祭儀を想定し,しもべを神話的象徴と見る.今日,祭儀説や純然たる集団説と純然たる個人説をとる者は少ない.ある者はしもべの歌に,集団説的しもべ像から個人的しもべ像への思想の進展を見ている.個人的しもべ像の究極に位置するのが理想的しもべ像としてのメシヤである.また,イスラエル人は個と集団とを単純に区別してはいないとして,複合人格説が提唱されている.それによれば,しもべの歌は,一個人について語る時その一個人においてイスラエル全体が表され,一方,イスラエルについて語る場面でもイスラエル全体が一個人において集約されている.それゆえ,主のしもべが一個人であっても,彼はイスラエルの民を贖うために,彼らの代表,代理として,苦しみ,死ぬことが可能なのである.<復> しもべの歌に描かれた主のしもべは,神に選ばれ神の霊を賦与され,神のことばを託された(イザヤ42:1,49:1‐3).彼はまた,沈黙のしもべ,愛のしもべである(42:2,3).彼はイスラエルを神のもとへと連れ戻すために神に選ばれた(49:5).だが,彼のその働きは一民族の枠を越えてはるかに大きな広がりを見せていく.彼は主の知恵と力によって預言者的働きをし,世界の光となって地の果てまで神の救いと公義をもたらす(42:3,4,49:6).彼の宣教のわざは彼の苦難を通して成し遂げられる.彼は主の民の代表として,彼らの受くべきはずのさばきを耐え忍ぶ(53:4‐6,8).彼には特別の見栄えはなく(52:14‐53:3),無罪であるのに苦しみを受けるが,彼は主を信じ従い通す(49:4,50:4‐9,52:14‐53:9).それが主のみこころだからである(53:10).彼の苦難は多くの者のための代贖の苦しみであり,その苦しみは死に至る(53:4,8,9,11,12).彼の死は罪過のためのいけにえとしての死である(53:10).だが彼の苦難と死のかなたには勝利が待っている(42:4,50:8,9).彼は多くの人の罪を負い,背いた者のためにとりなし,自らの死をもって彼らを救いへと解き放つ(53:11,12,61:1‐3).かくして彼の宣教のわざは成就し,彼は高められ,世界大の影響を与える(52:13,15,53:12).<復> イザヤの主のしもべの歌とエレミヤ書との間に密接な関連性があることは明らかである(例えば,イザヤ49:1‐6とエレミヤ1:5,9,10,17‐19,11:20,12:3,15:15‐21,16:19,17:14‐17等).イザヤの主のしもべ像はまた,ゼカリヤ9‐14章のメシヤ預言にもその影響を見ることができる(9:9,10,11:4‐7,12:10‐14,13:7‐9等).<復> 後期ヘレニズム・ユダヤ教においては,しもべ章句をメシヤ的に解釈した例は第4歌(イザヤ52:13‐53:12)の70人訳以外にはまれである.一方,パレスチナ・ユダヤ教においては,受難するメシヤという思想にとまどいを見せつつも,しもべ像のメシヤ的解釈は絶えず存在した.第4歌についてのヨナタンのタルグムはその好例である.<復> 「主のしもべの歌」にまさって深く大きな影響を新約聖書に与えた旧約預言はない.新約聖書はしもべの歌をメシヤ預言としてとらえ,そこに歌われる「主のしもべ」はメシヤであり,そのメシヤがイエスであると告げる.イエス自身はルカ22:37でイザヤ53:12を自分に関する預言として引用した.マルコ9:12,10:45の苦難と贖いの死を予告したイエスのことばの背景にあるのは,イザヤの主のしもべ像である.イエスは「人の子は苦しみを受けねばならない」と語ったが,その背景にあるのはダニエル書の「人の子」思想よりもむしろ,イザヤの苦難のしもべ像である(マタイ26:54,マルコ8:31,32,9:12,10:33,34,14:21,49,ルカ18:31‐33.参照マルコ10:45,ダニエル7:13,14).イエスの洗礼(バプテスマ)時の天からの声には第1歌イザヤ42:1が反映されており,イエスのその後の使命が主のしもべとしての代贖苦とかかわることが暗示される(マタイ3:17,マルコ1:11).最後の晩餐でイエスは,契約の血として多くの人のために自分の血を流すことを予告したが,そこにもまたイザヤのしもべの姿が濃厚に表れている(マタイ26:28,マルコ14:24).このように,イザヤの主のしもべ像は,イエスが自分の宣教を,身代りの苦難と死を通してなされる贖いのわざであると理解する上で,大きな要素となったことは間違いない.<復> 初代教会はイエスを「主のしもべ」と呼ぶ(使徒3:13,26,4:27,30).イエスは「仕える者(しもべ)の姿をとって」(ピリピ2:7)来臨し,十字架の死に至るまで神に仕えた(同2:8).イエスはその全き服従と受難と死のゆえに,イザヤ書の「苦難の主のしもべ」と同一視されている(マタイ8:17,12:18‐21,ヨハネ12:38‐41,使徒8:32‐35,ローマ10:16,17,15:20,21).また,Ⅰペテロ2:21‐25,3:18,Ⅰコリント15:3のキリスト論にも,イザヤの主のしもべ像が反映されている.ローマ4:25,5:19,Ⅱコリント5:21,そしてヨハネの「世の罪を取り除く神の小羊」というイエスの呼称にも(ヨハネ1:29,36,イザヤ53:7),しもべ像が反映されている.このように,新約聖書の証言するところによれば,「主のしもべの歌」は,人類を罪の咎から解き放つ神のしもべ,来るべきメシヤ・キリストについての一大預言詩だったのである.→救い主,苦難(キリストの).<復>〔参考文献〕E・J・ヤング『イザヤ書53章』いのちのことば社,1961;Michaels, J. R., “Servant,” France, R. T., “Servant of the Lord,” The Zondervan Pictorial Encyclopedia of the Bible, Zondervan, 1979 ; Brown, C., “Child,” Hess, K., “Serve,” Tuente, R., “Slave,” Michel, O., “Servant of God,” The New International Dictionary of New Testament Theology, Paternoster, 1979.(熊谷 徹)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社