《じっくり解説》祖先崇拝とキリスト者とは?

祖先崇拝とキリスト者とは?

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祖先崇拝とキリスト者…

1.祖先崇拝の語.<復> 祖先崇拝,[英語]ancestor worship,[ドイツ語]Ahnenkultus,[フランス語]culte des ance^tresは,いずれも「祖先」と「崇拝」の2語の合成語である.祖先には「先祖」「祖霊」,崇拝には「祭祀」「供養」「崇敬」などの語が対応するが,宗教学会や人類学会においても,これら各語の組合せから形成される「祖先崇拝」に関連した熟語の明確な定義は定まっていない.<復> 2.宗教としての祖先崇拝.<復> 一般に祖先崇拝には,すでに死亡した家族や血縁の先祖の霊に対して子孫が特別に追慕敬愛する感情の側面(信条体系)と,祖霊に供犠を供え供養するという側面(行動体系)がある.祖先崇拝を単に祖先を敬慕する感情ととらえることもあるが,そこには必ず祖霊を供養するという一定の手続すなわち行為が含まれ,それは儀式をもって対応される.このような信条と行為の二側面等を含む点からも,祖先崇拝は明らかに宗教であると言える.<復> 行為としての側面を強調する時,祖先崇拝は「祖先祭祀」または「祖先祭」と称されることがある.宗教学者孝本貢は,この宗教形態に対して,「日常用語として中立的で,かつ広く含まれるものとして先祖祭祀という語」を使用しようとしている.<復> この形態は,一神教としての有神論を標榜する民族を除いて,あらゆる民族に多かれ少なかれ共通して見られる.また,死霊・祖霊の観念に一般的に乏しく死者を弔うという慣習のない未開社会の時代を除いて,通時代的に見られ,「家」や「同族」と言われるような家族・親族の結合形態が強く意識されている民族においては,血縁的で排他的な強い結合を存続させるという大きな役割を果してきた.しかも,この先祖祭祀の方法は,社会や文化の変動につれて大きく変ってきた.確かに,祖先崇拝は人類全体に普遍的な現象とは言えない.とはいえ,特定の民族や地域においては,今日においても本質的に衰えを見せない宗教現象の一つである.これはすでに「習俗」化されていると言われることもある.しかし,祖霊に対する供養儀礼を行うに当って墓標が用いられたり,祖霊と子孫を結びつける形式としての供犠が供えられたりするのであり,この点からも祖先崇拝はれっきとした宗教であると結論できる.<復> 3.祖先崇拝の基盤.<復> (1) 祖霊と子孫の互酬関係.祖先崇拝は,死者の霊を単に崇拝する死霊崇拝とは異なり,死者との血縁的な結合性が要件となる.人は一般に,死後に身近な者に供養してもらいたいと考える.一方,その子孫は祖霊によって守り導かれたいと願う.この相互互恵の関係が,祖先崇拝の先祖と子孫の間の関係を形成する.この意味で,祖霊の供養儀礼を行う子孫には,祖霊に対する敬愛の念が不可欠である.ここに祖霊供養と祖霊による子孫の守護という互酬関係が生れる.従って,祖先祭祀の基盤には家族的な紐帯が不可欠であり,祀(まつ)る者と祀られる者との間には,単なる死者儀礼を超えた強い感情融合が前提とされる.柳田国男が「祖先の話」の中で「先祖の祭は子孫の義務といふだけで無くもとは正統嫡流の主人主婦の権利でもあった」と述べたように,死霊と最も強い系譜関係にある直系尊属が,この先祖祭祀を家族または氏族を代表して担った.家族や氏族は,このような先祖祭祀を通して,その組織的結合が強化されたのである.<復> (2) 氏族と祖先崇拝.祖先崇拝は,直接的な血縁関係としての家族を越えて,氏族の広がりにおいても行われる.歴史的に見ても,農耕社会としての殷(いん)の時代において,殷民族に対する守護は祖先に負うと考えられ,その祖先として「帝」の宗廟の祖霊に加護を祈念したと言う.すなわち,「『帝』は,殷人の宗祖神として,氏族的祭祀共同体の中心となった」(松本晧一)のである.わが国では,縄文時代には「母系的な死者崇拝から出た祖先崇拝」が存在し,古墳時代には「父長権威的な大家族の大氏族連合」が成立し「父系祖先的な祖先崇拝」が行われた(平井直房)と言う.これらは明らかに,家族を越えた氏族の祖神とその民の間の互酬関係に基づく先祖祭祀が古くから存在しているよき証拠であろう.この氏族的な祖先崇拝は,特に儒教の伝統の強いアジアの国々において,今日なお広く行われている.<復> 4.日本人の祖先観.<復> 日本人の祖先観については,「3.祖先崇拝の基盤」としての日本の家族制度との観点で問題にされなければならない.日本においては,長子相続に基づいて,先祖祭祀権をも含む家督相続制度が,封建的な家族関係を存続させてきた大きな理由とされている.この点について,柳田国男は,「子孫後裔を死後にも守護したい,家を永遠に取續くことが出来るように」との願いが家督制度に具現されていると指摘し,この家督の中で「滅失の危険にさらされる有形の財産よりも,寧ろかほど迄に親密であった先祖と子孫の者との間の交感」としての「無形の家督」の重要性を述べている.<復> 桜井徳太郎は,「日本人にもみられる強い祖先崇拝の観念」は,日本人の「民族性」によるものであるかもしれないが,(1)「日本の社会を長い期間にわたって導いてきた家父長的家族制度の規制」と,(2)「家父長(戸主)の祖先祭祀権を義務づけた,明治民法の法的拘束性」並びに(3)「家族国家観を国民道徳の基幹に据えて,″祖孫一体の大生命″などと強調した天皇制国家の倫理統制」によるところが大きいとしている.結局は「日本人の祖先観といっても,実状は,こうした多くの歴史的規制を受けている」(桜井)ことを看過すべきではない.<復> 5.日本人の祖先観の変容.<復> 今日,都市化や産業化また核家族化の進展に伴う世俗化とともに,日本の先祖祭祀の様相も大きく変化してきている.孝本貢によれば,この祖先崇拝の変化に関する学会の見解について,<復> (1) 現代社会においては,先祖祭祀を担う家はすでになく,家の信仰としての先祖祭祀は衰微し,宗教は個人個人のものとして受けとめられるという宗教の私化(privatization)が進展しているという立場,<復> (2) 先祖祭祀は日本の伝統的事実として,現行民法でも第897条に「祭具等の承継」が存続しているように,今日の社会にも厳然として存続しているという立場,<復> (3) 先祖祭祀は,今日,伝統的な家制度を基調にするようなものではなく,単なる「祖父母,父母への思慕,ないし,『心的交流』の側面」を基盤とするものに変容しているとする立場,<復> (4)「先祖祭祀を義務としない」新しい先祖観の出現を考える立場,などがあると言う.<復> 桜井徳太郎が言うように,「祖先軽視の風,父祖無視の風潮が,単なる一部の知識階級にみられる無宗教主義者の特異現象だと断定できない」ほど,着実に世俗化が進んでいると見ることもできよう.とはいえ,「日本人が祖先崇敬の念に厚く,盆・彼岸・忌日にあたって死者の供養をとくに懇(ねんごろ)に施行(せぎょう)していることは民族的事実」でもある.<復> 6.祖先崇拝とキリスト者.<復> ところで,日本のキリスト者がこの異教国で生きようとする時,どうしても避けて通ることのできない問題は,死霊崇拝としての祖先崇拝が,この国で厳然と続いているという事実であろう.<復> (1) 仏教的環境.例えば,日本仏教の重要な要素である「祖霊祭祀」は,日本古来の先祖崇拝の影響を強く受けているとされる.その仏教の信者数は,他の宗教に帰依している者も含めて9300万人にものぼる(文化庁編『宗教年鑑』昭和63年版による).これらの人々は,意識のあるなしにかかわらず,ある意味で先祖祭祀を容認していると言えよう.法事とか何回忌などという「先祖祭」が日本のどこでも行われている.特に仏教は,戒名を付ける,法事を行うなどの手段を通して,先祖祭祀に「人も知る通り甚だしく個人的なもの」(柳田)を持ち込むとともに,先祖祭祀と強く結びついているのである.<復> (2) 儒教・神道と祖先崇拝.また,祖先崇拝は儒教の孝道思想と結合し,日本の倫理的な道徳としての地位にまで高められているとも言えよう.今日では,神道の家族国家観とも結合し,国家的な規模で国の「祖先」を祭祀することが要請される.先祖の神々を崇拝することが倫理的美徳とされ,それをしない者には,様々な圧力がかかる社会状況がある.<復> (3) 新宗教と祖先崇拝.また,新宗教や新新宗教と言われる宗教教団が,一般に祖先崇拝を強調する傾向にある.一例を挙げるなら,祖霊崇拝と法華信仰とを結合した霊友会系諸教団は,在家で先祖「供養」をして自らこの世で成仏することを教え,大教団を形成するに至っている.新しい宗教として生き残るためには,祖先崇拝を認めることが一つの条件とさえ言われる.祖先崇拝は様々な顕在的変化が見られるとはいえ,今日の社会の中にも息づいており,キリスト者は否応なくこのような異教的環境に生きねばならない.<復> 7.キリスト者とあかし.<復> キリスト者は,このような異教的な風土の中で,自らの信仰をあかししなければならない.<復> (1) 死者崇拝の禁止.特にキリスト者は,十戒(十のことば)にあるように「あなたには,わたしのほかに,ほかの神々があってはならない」(第一戒,出エジプト20:3)のである.しかも,たとえ「あなたの父と母を敬え」(第五戒,出エジプト20:12)と教えられていても,父母が死んだ時でさえ,死者のために祈ることは禁じられている.死者のために祈っても,「あの子をもう一度,呼び戻せるであろうか…あの子は私のところに戻っては来ない」(Ⅱサムエル12:23)ように,明らかに,「死人は〈戻っては来ない〉」(榊原康夫)のである(ルカ16:25,26も参照).聖書は明らかに仏教の「輪廻」の思想を否定する.この点を見るだけでも,祖霊に数々の事を祈ると同時に祖霊を盆・彼岸・忌日などに迎えるという先祖供養は,聖書の示すところとは異なる.聖書には,「今から後,主にあって死ぬ死者は幸いである」(黙示録14:13)ともある.これは「迫害によって殉教する者たちに対する慰め」(山口昇)であり,また主を信じる人々に対する深い慰めである.ここにおいて,キリスト教では,死者の霊を慰めるために供養する習慣は否定される.キリスト教には,祖先崇拝は存在し得ないと結論できる.<復> (2) 異教的習慣とキリスト者.とはいえ,今日の社会の中で,多くのキリスト者は,世俗の生活の中で異教の習慣にさらされる.一例を挙げるなら,会社を代表して仏式の葬儀に出席し焼香を余儀なくさせられるというような場合である.「焼香」そのものは,本来インドにおいて悪臭を消すために焚かれていたものが仏教に取り入れられたのであるが,香は仏使とされ,仏を迎えたり送る時になされる儀礼であることに留意すべきであろう.他にも,神道やその他の異教的習慣が生活の細部にまで蔓延し,冠婚葬祭などにおいて異教的宗教習慣にもろにさらされる.その時には,「天地の造り主,全能の父なる」神以外の神を神としないという聖書の原理に照らして対処すべきである.それは,「信教の自由」の原則にも明確に認められていることである.<復> 8.カトリックと祖先崇敬.<復> 最後に,今日大きな変化を遂げてきているとされるカトリック教会の祖先崇拝を示しておこう.カトリックでは「崇拝」の語は神のみに対して用いられ,一般に神以外に対する敬意には「崇敬」を用いる.従って,祖先に対しては「祖先崇敬」という語が用いられる.カトリック教会では「聖母マリアはじめ,キリストの12使徒や殉教者」などの聖人を「崇敬」することは当然のこととされ,自ら「その保護を祈り求め,また,その取り次を頼む」こともできる.しかも,「祖先のうちで天国に入った人々についても」その保護を求めることができる.<復> カトリック教会では,「信者は祖先崇敬と死者のための祈りを忠実に行なうべき」ことが教えられる.日曜日ごとのミサや食後の祈りに際し,祖先や死者に対する祈りが行われる.「仏壇はそれ自体位牌などを置くものですから必要なもの」とされ,そこには「果物,酒など,故人が好んでいた物を供えてもよい」とされる.盆の時には,日本の習慣に従って,教会では死者のためにミサが捧げられ,各家庭においては「仏壇を特別に飾ったり,精霊棚を作ったり,精霊流しも,シンボル的意味であればかまわない」とも指導されている.葬式などにおいては,信者は,「焼香・献花などは,特定の宗教儀式というよりは,どの宗教にも共通の儀式ですから差し支えありません」とされる.これらの宗教的対応は,特に第2ヴァチカン公会議(1962—65年)以来,その「エキュメニズムに関する教令」の精神のもとに,日本の精神風土に対してカトリック信仰の土着化をはかろうとする立場を反映したものと言える.「カトリック教会は,これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」(「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」)と,他宗教に対する「寛容」さを増大させている.カトリックに見られるように「み使いたちやこの世を去った聖者たちに祈り求める」ことは,「正しくない」のである(『ジュネーブ教会信仰問答』問238).→葬儀,日本の宗教,仏教・ヒンズー教とキリスト教,儒教とキリスト教,神道とキリスト教,偶像礼拝.<復>〔参考文献〕柳田国男「先祖の話」『定本柳田国男集第10巻』筑摩書房,1962;桜井徳太郎『祭りと信仰—民俗学への招待—』講談社学術文庫,1987;孝本貢「現代日本における先祖祭祀の研究課題」,新保満「先祖崇拝と基礎制度体」『近現代における「家」の変質と宗教』新地書房,1986;松本晧一「中国人の宗教」,平井直房「日本人の宗教」『世界の宗教』大明堂,1965;南山大学監修『第2バチカン公会議公文書全集』中央出版社,1986;日本カトリック司教協議会諸宗教委員会『祖先と死者についてのカトリック信者の手引』カトリック中央協議会,1985;M・クリスチャン『カトリックの祖先崇敬』オリエンス宗教研究所,1976.(村田充八)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社