《じっくり解説》バプテストとは?

バプテストとは?

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バプテスト…

1.「バプテスト」の名称.<復> 「バプテスト」という名が,個人または集団を指して用いられるようになったのはいつ頃からか.バプテストの名が一般的に使われるようになったのは1610年から70年の時期に,英国の幼児洗礼主義者たちが,国教会から分離したある集団をアナバプテストあるいはバプテストというあだ名で呼んで以来のことである.教派教会としてバプテストの名が出てくるのは,1644年の信仰告白の中で,自らを「一般にアナ・バプテスト(誤ってではあるが)と呼ばれる教会」と言っている.また1646年の告白では「その信仰の告白に基づいてバプテスマを受けたキリスト者の会衆」という一節があり,当時自分からバプテストとは名乗らなかったことがわかる.彼らは,自分たちが大陸のアナバプテストとは異なることを自覚していたのである.歴史家H・ヴェダーは「彼らは人々からアナバプテストと呼ばれていたが,それと区別するために,バプテスマを受けた信者,あるいは信仰告白に基づくバプテスマを受けたクリスチャン,と自分たちを呼んでいた.しかし,これらの呼び方がわずらわしくなって次第に人々の呼び方にならって,バプテストと名乗るようになった」と説明している.1654年の彼らの出版物には「穏健なバプテスト」とあり,「バプテスト教理問答」もできた.<復> このように,バプテストは,その当時英国に存在した国教会派,長老派,独立派,会衆派のいずれでもなく,またルター,カルヴァン,J・ノックス,メノー・シーモンス等の有名な霊的指導者の下でできた教派でもない.かくしてバプテストは,17世紀の英国の清教徒(ピューリタン)運動の中の分離派,独立派,会衆派などの胎動のただ中で,半ば自然発生的とも言うべき出現を見るに至ったのである.<復> 2.初期バプテスト教会の特色.<復> さて,バプテストが英国教会から分離し,その上長老派や会衆派あるいは独立派にも加わらずに,自ら「召集された教会」あるいは「契約者たちの集会」として存在していた理由はどこにあったのか.彼らが発表した信仰告白ないし信仰規準はその理由を示す.<復> バプテストは「互いの間の中に区別があり,また,他のプロテスタント諸派から区別するため,あるいはその類似点を示すため」(ランプキン)に信仰告白を作成した.バプテストの信仰が当時存在した他の信仰告白と全面的に異なるものではなく,大部分は共通したものであることは1677年の第2ロンドン信仰告白の序文の中でも言明されている.「非常に明白な聖書の事実をもって彼らが確信した全体的プロテスタント教理において,我々は彼ら(長老派や会衆派のこと)に心から同意するものであり…」.<復> しかし,異なる点もあった.それは主として教会論や教会の霊的性格についてである.この相違点は幾つかあるが,次の2点にまとめることができる.(1)信仰告白に基づくバプテスマ,(2)魂の自由(教会の自律的会衆政治,政教分離,信教の自由などを含む)である.バプテスマ(洗礼)の様式が浸礼であるという確信は,バプテストだけの特色ではない.初期のルター派や英国では,17世紀中葉まで浸礼が普通であった(シャッフ).重要なことは,信仰告白に基づく浸礼を主張した点にある.<復> 3.英国における初期バプテスト教会.<復> 信仰告白に基づくバプテスマと魂の自由を掲げて,自ら「召集された教会」と名乗っていたバプテストは,どのような歴史的発展を遂げていったのだろうか.バプテスト教会が急増したのは,すでに述べたように英国では17世紀中葉である.だが,それらの教会のすべてが明白な起源を証明する歴史的証拠を持つわけではない.1644年のロンドン告白は七つの教会の代表者によって作成されたが,これらは一つの教会から派生したものではなく,他にもバプテストの群れは散在していた(J・クリスチャン).ヴェダーは英国バプテストの起源について次のように述べている.「1610年以降は,バプテストの教会のとぎれない連続が,疑う余地のない文献の証拠によって確立されている.…しかし,遅くともおよそ1641年以降は,バプテストの教理と慣習は基本的特質において,現代のそれと同じである」.<復> 英国バプテストには,アルミニウス主義に立つ普遍(救済主義)バプテストとカルヴァン主義に立つ特定(救済主義)バプテストの二つの流れがあった.普遍バプテストの起源は特定バプテストより古く,英国教会の牧師ジョン・スミスと,トマス・ヘルウィスの二人の指導者に関係がある.スミスは1606年ゲーンズバラの分離派会衆教会に加入したが,迫害のため同じ教会のヘルウィスらとともにオランダに逃れた.そしてオランダのアムステルダムにおいて,アルミニアン神学思想やメノー派(メノナイト)の教会観を知った.彼は幼児洗礼は聖書の教えに反するという考えを受け入れ,個人の信仰告白に基づく新生会員による教会を形成すべき確信を持った.そこでヘルウィスと他36名に「信者のバプテスマ」を授けて教会をつくった.その後スミスがメノー派に転じたため,ヘルウィスと幾人かの群れは1610年スミスと決別して,1611年か12年の初めにロンドンに帰り英国最初の普遍バプテスト教会を設立した.ヘルウィスは1616年頃捕えられ獄死したと言われる.彼らは迫害の中で信教の自由,良心の自由を叫び続け,教会は拡大成長し,1644年には47の教会を数えた.<復> 特定バプテストの起源は初期のバプテストの歴史家トマス・クロズビの伝えるところによると,1616年,独立会衆派のヘンリ・ジェイコブ(後に会衆派となる)とその群れの幾人かがオランダから母国英国に帰り教会を設立している.ジェイコブはその教会の牧師となった.1633年,幼児洗礼の問題でジョン・スピルズベリと一部のものがこの教会から分離,1638年,信者のバプテスマを信じる教会を設立した.これが,バプテストの原理を持つ最初の特定バプテストである.彼らは,滴水や灌水(注水)は使徒時代のバプテスマではなく,葬りと復活を象徴する,水中に身体を没入することがバプテスマの固有な様式であると確信していた.1644年,ロンドンの特定バプテストの教会は七つだったが,1677年には107人の教会の代表が第2ロンドン信仰告白に署名している.浸礼の形式を復活させることによって,アナバプテスト的先祖から分離し,今やバプテストは新しいステップを踏み出した(トーベット).<復> 英国の普遍バプテストと特定バプテストは,互いに交わりや協力関係のないままそれぞれ発展していった.やがて普遍バプテストは,一部はユニテリアンとなり,他は特定バプテストと合流し,バプテスト同盟を形成した(1891年).英国バプテストの主流は特定バプテストとなって発展し,新大陸アメリカ,西ヨーロッパ,カナダ,アフリカなどに宣教の輪を広げていった.<復> 4.米国におけるバプテスト.<復> ロジャー・ウィリアムズは,アメリカバプテストの創始者と呼ばれている.英国の初期バプテストの活動の盛んな時代,1638/39年に会衆派から分離し,バプテストの原理を摂取した.そしてロード・アイランド州のプロビデンスに,米国最初と言われるバプテスト教会を設立した.1641/48年同州ニューポートにも教会が創設された.医師兼説教者ジョン・クラークの創設である.1644年にはウェールズのバプテストたちの移住があった.<復> 浸礼を導入する会衆も多くなり,バプテストの伝道は他の諸州にも及んで1649年にはマサチューセッツ,メーン州,1682年ペンシルベニア,1684年バージニア,ノース・カロライナと宣教は徐々に拡大していった.彼らはウィリアムズの主張した,教会と国家の分離及び良心の自由の信仰を継承した.これらのバプテストは清教徒の流れを汲んでいる(ケアンズ).彼らは特定バプテストであり,1742年,フィラデルフィア信仰告白を起草し,その後のバプテスト神学に多大の影響を及ぼした.19世紀の大リバイバルによってバプテストは増大し,南西部へと進展したが,1845年,奴隷制度の問題で南北に分裂した.今日米国のバプテストは2600万人を数えると言う.<復> 5.日本におけるバプテスト.<復> 日本におけるバプテスト教会は,そのほとんどが米国から派遣された宣教師によってその土台が築かれた.<復> 1860年,アメリカの北部バプテストの宣教師ジョナサン・ゴウブルが横浜に上陸し伝道を開始した.彼は1871(明治4)年,日本最初の口語体『摩太福音書』を刊行した.次いで1873年,ネイサン・ブラウン博士(当時65歳)が来日し,東京と横浜で伝道した.ブラウンは聖書と賛美歌の翻訳に従事し,川勝鉄弥の協力を得て1879(明治12)年,平仮名書き(ローマ字による傍注付き)の新約聖書『志無也久世無志与(しんやくぜんしよ)』を完成した.1886年には,ブラウン訳を漢字かな混り文に改めた横浜浸礼教会刊『新約聖書』が出版されている.1879年までに多くの宣教師が米国や英国から派遣されて,関東,東北,北海道そして九州方面へと日本宣教は拡大した.横浜には神学校が設立され,仙台には女学校が創設された.これが今日の日本バプテスト同盟の前身である.<復> 米国南部バプテストから日本に宣教師が派遣されたのは1889(明治22)年で,J・W・マコーラム,J・A・ブランソンがいる.彼らは,九州を中心に伝道し,今日の日本バプテスト連盟の前身となった.福岡に神学校を持ち(1907年),大正になると西南学院,西南女学院などが創設された.<復> 第1次,第2次世界大戦を経て敗戦後,多数のバプテスト宣教師が来日し,多くのバプテスト教会が設立され,連合体も12以上を数える.日本バプテスト連盟,日本バプテスト同盟,日本バプテスト教会連合,日本バプテスト・バイブル・フェロシップ,日本バプテスト連合,福音バプテスト宣教団,福音バプテスト連合,日本バプテスト宣教団,保守バプテスト同盟,沖縄バプテスト連盟,カルバリー・バプテスト教会,全日本バプテスト・ミド・ミッション宣教師団,万国バプテスト福音伝道教会,その他単立系バプテスト多数が存在する.<復> 6.バプテストの信仰.<復> すでに見たように,17世紀の英国バプテストは,当時,他の教派には見られないある種の異なった特質を確立した.こうした特質または信仰を持つに至った経緯は,当時の清教徒革命とそれに続く歴史に目を留めるならば容易に理解できる.また,今日に至るまで種々な影響を受けながら,その信仰を内実のあるものとして成長させていったことがわかる.アメリカでの宗教的リバイバルと個人主義的思想が,バプテストの教会観に大いに影響したことも事実である.そうした中で彼らは,あらゆる信仰と生活の基準は,信条や教会教理ではなく聖書であることを確信した.彼らにとって大切なことは,伝統や慣習ではなく,教会のあるべき姿を聖書はどう教えているかということであった(シェリー).初期のバプテストの信仰的特質は幾つかあるが,その中の代表的なものを,以下に四つ挙げることにする.<復> (1)「見える教会」は「見える聖徒たち」によって構成されるべきこと.つまり教会は「召集された会衆」であって,自ら契約をもって加入する独立,自治の限定された会員を持つ契約共同体である.教会政治は,身分の上下のない民主的会衆政治である.こうした原理は,分離派会衆派のロバート・ブラウン(1550年頃—1633年)の思想がその根底にある.しかしながら,これは教会の閉鎖的孤立化を意味するものではない.彼らは同盟,連合などの協力機関を設けた(教区会員や教区教会の制度に反対).<復> (2) 会衆派(組合派)は,教会員を信者だけに制限しようとしたが徹底せず,教会員の子供には洗礼を施していた.しかしバプテストにとって,幼児洗礼は聖書的根拠がなく,召集された信者の教会の考えに矛盾するものである(幼児洗礼の否定).<復> (3) 個人の魂の自由は,国教会からの分離をうたいながら国家の援助は受けるという矛盾した考えを拒否した.トマス・ヘルウィス,ジョン・バニャン,米国に渡ったロジャー・ウィリアムズなどは,信教の自由のために戦った代表的な戦士である(政教分離の原則,信教の自由の原則).<復> (4)「見える教会」は,新生した会員によって構成されることで「見えない教会」により近付くという確信を持つ.それゆえ,個人的(代理的でなく)信仰告白に基づく信者のバプテスマを受けて教会員となるべきである.たとえ信者の子供であっても,信仰告白なくしてバプテスマを受け教会員になることはない.また,バプテスマは浸礼によることを正当とする.信者のバプテスマは聖書的に支持され,健全で,心理的な真実さ,知的な自由があり,象徴する意味は豊かである(H・ロビンソン)(浸礼による新生信者である教会員).<復> バプテストは特に説教を重んじ,日曜学校運動,聖書出版,海外宣教を盛んにした.ウィリアム・ケアリ,アドニラム・ジャドスン,ジョン・バニャン,C・H・スパージョン(スポルジョン),チャールズ・フラー,W・F・グレイアム(ビリー・グラハム)などの宣教師,説教家を生み出した.→バプテストの信仰告白,バプテスマ,アナバプテスト,教派,教会政治.<復>〔参考文献〕E・E・ケァンズ『基督教全史』聖書図書刊行会,1957;B・L・シェリー/W・F・カー『バプテストとはだれか』バプテスト聖書神学校,1984;高野進『近代バプテスト派研究』ヨルダン社,1989;H・W・ロビンソン『バプテストの本質』ヨルダン社,1985;斎藤剛毅編『資料・バプテストの信仰告白』ヨルダン社,1980 ; Veder, B., A Short History of Baptist, Judson, 1982.(渋谷敬一)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社