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《じっくり解説》聖化とは?

聖化とは?

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聖化…

1.用語. 聖化([英語]sanctification)は,新約聖書中の用語[ギリシャ語]ハギアゾー(動詞),ハギアスモス(名詞),ハギオス(形容詞)の訳語である.他に,カサリゾー(動詞)とハグニゾー(動詞)という他の意味を持つ類語が新約聖書では用いられている.旧約聖書において同意語と見なし得ることばは[ヘブル語]カードーシュであり,しばしば「聖」と訳されるものである.旧約聖書のカードーシュは,光輝,分離,純潔などの意味を含むものであり,新約聖書のハギアゾーは,分離,聖別,純潔を意味し,ことに罪からの解放を含む意味を持つ語であることは一般に知られている.旧約において,汚れと俗性から分離し,聖きと神聖さへ聖別される例を様々な事物に見ることができる.しかし旧約の時代においても,聖化,聖別が人物にも適用され,民としても個人としても,聖き神に属する者は聖別,聖化されるべきことが主張されている.民としてはレビ19:2,個人の例はイザヤ6:1‐8に見られる通りである.新約聖書における聖化,聖別は儀式的,外形的な内容よりも,内的な,道徳的な内容を持ったものが主軸である(→本辞典「きよめ」の項).新約聖書において,三種類のギリシヤ語が聖化に関係して用いられていることは,神学的にも実践的にも興味深いことであり,また,重要な意味を示している.三つのことばとは,ハギオス,カサロス,ハグノス(おのおの,文法的には種々の形をとって用いられる)である.ハギオス(形容詞形)は,思念的にも実際的にも絶対的な聖きを表すことばである.カサロス(同)は,単に清いことを表す用語である.ハグノス(同)は独特な意味を含むもので,それは,あらゆる種類の汚染や誘惑に直面し,それらに対しての勝利を得つつ,その結果として保持していく聖さなのである.従って,御父はハグノスではなくハギオスとして存在されるが,御子は,その地上生涯において人間性の完全な徳を,あらゆる誘惑に打ち勝って得られたゆえにハグノスなる方である.ヨハネが彼の手紙の中で「キリストに対するこの望みをいだく者はみな,キリストが清くあられる(ハグノス)ように,自分を清く(ハグニゼイ)します」(Ⅰヨハネ3:3)と言っていることに,キリスト者の聖化を理解するための大切な一面があることになる.聖化とは,ある働きまたは過程を通して,聖きの状態が具現し実現することを言うことばとしてとらえることができよう.神の子とされた個々のクリスチャンと神の民としての教会にとって,聖化の成就がいかに,そしてどこまで,心と生活の事実となされ得るのかが課題となる. 2.聖化の理解の重要性. 今世紀の後半から現在に至るまでの期間は,あらゆる面から,いわゆる福音主義,福音派,福音主義陣営などという名称に代表される流れの教会の確立とともに,その共通の基盤の認識が固められてきた時と言えよう.聖書信仰ということばの意味するところを基礎とし,ルター以来の聖書的真理の信仰義認を共通の信仰告白と信仰体験として有する族(やから)としてのアイデンティティーをもって福音派がまとまってきた時期ととらえ得る.聖書論も一応の結着がつき,福音派とは何ぞやとの問に対する回答のまとめもついたところ,と言えるのが,この時代である. クリスチャン生涯の始まりに当る義認の点で共通の理解を持ち得た今日の教会が,聖書が示している,神の御旨としての聖化を神学的にも実践的にも正しくとらえることは,この時代とこれからの時代に課せられた,祝福のテーマである. 3.聖化の教理の把握. アジアと日本の教会に今求められていることは,福音主義諸教会に伝承されてきたおのおのの組織神学的立場を,改めてみことばの光に照会し,みことばの著者なる聖霊の導きを受けつつ聖書神学的に「聖化」の本質を理解することと言えよう.幾つかの設問が聖化の教えの再吟味と把握の助けとなるかもしれない.例えば,(1)聖書全体,ことに新約聖書が標準的とするクリスチャン生涯とは,その心と生活においてどのようなものなのか.義とされたクリスチャンに現世において神が期待しておられるクリスチャン・ライフとは何か(ことに,心と生活の聖さにおいて).(2)しばしば聖化に関連して聖書に用いられる用語である,完全または成熟([ギリシャ語]テロス,テレイオースなど)の意味するところは何なのか.(3)Ⅰテサロニケ5:23他に見られる「全く聖化されるように」などの意味することは何か.(4)「全く聖くされること」と,現世において打ち続く外敵に対する,また自分の不完全さに対してのクリスチャンの戦いや,課題との関係はどう理解したらよいのか,などである. 4.西欧組織神学における理解. 聖化を理解しようとする努力に際して,なさねばならぬことの第一は,これまで西欧組織神学界において,聖化の問題に関して対立的な立場を保ってきた二つの大きな論議陣営の概観をしておくことであろう.そのままアジアと日本の教会にも流れ続けるこの二つの立場を認識した上で,聖書神学的なアプローチを持つことが,賢明なことと思われるからである.両陣営は,聖化の恵みの必要性と可能性についての見解は一致しているのであるが,それが現世において全き聖化が可能であるか否かの点となると,完全に肯定論陣営と否定論陣営に分れる.全き聖化とは,次の3点における「完全」を指すと取ってよいだろう.まず自我の完全な死,次に罪性の完全な聖め,そして愛に全うされる,ということで,これらが現世において成就するものであるか否かに論点は絞られるのである. (1) 全き聖化の肯定論者の観点.肯定論者は,全き聖化に対して様々な用語をもって,その内容を表現している.幾つかの例は,「全き愛」「キリスト者の完全」「聖潔」「聖め」「全き救い」「全き聖化」「全き聖潔」「心の割礼」「第2の転機」「聖霊のバプテスマ」「心の清き」「より高き生涯」「祝福の盈満(えいまん)」「キリスト者のホーリネス」等々である.彼らは,全き聖化は消極面と積極面の二面から成るとする.消極面とは,罪からの解放と全き聖潔ということに現れるものと言う.罪からの解放という時,罪の定義が重要となるが,「知られたる法を意識的に犯すこと」と罪を定義する.ゆえに,罪からの解放は「故意に罪を犯すことからの解放」を表す.従って,動機,意志,意図が問題の鍵となる.さらに,全き聖化と言う場合,「全き」の意味は説明付きとなる.すなわち,「罪」は「過誤,弱さ,足りなさ」など不如意なものと区別されるので,人は「罪」からの解放において完全であっても,人間としての弱さ,足りなさ,誤りにおいては完全ではないことになる.ゆえに,これは「キリスト者の完全」と呼ばれるものであって,「神の,または天使の,あるいは堕罪前のアダム的な完全」とは異なるのである.次に,全き聖潔と言う時,それが何であるか,また何でないかを以下のように主張する.何であるかについては,その対象を,内なる人,心とする.ゆえに,意志を司令部とした全人格が対象となる.内容は,「生来の罪の性質」のきよめ(cleansing)である.ウェスレー(ウェスリ)のことばを引用するならば,「罪(sin)とは,内的罪の性質とここでは理解する.すなわち,どんな罪の気質,情欲,愛情であっても,例えば,どんな程度であれ,プライド,わがまま(自我),世を愛する愛,または肉欲,怒り,おこりっぽさ(気難しさ)など,キリストの心に合わないどのようなものでも,である」.ここでも,罪は「あやまち,弱さ,足りなさ」とは区別されている.何でないかについては,「罪を犯し得なくなる完全(sinless perfection)」ではないという点が強調されている.肯定論者の「本筋」から逸脱してsinless perfection(機能的にも罪を犯し得なくなるほどの完全)を説く者たちが出たことや,神学的な説明のために用いられたある種の用語,例えば「根絶(eradication)」などが,この陣営の主張がそれであるかのような誤解を生んでいるようである.しかし,肯定論者を代表するウェスレーが明らかにそれを否定しているのを見る.積極面に関しては,英国ケズィック運動などの主張するところと相通ずるとも言える点が多く挙げられる.勝利の生涯,御霊に満たされた力の生涯,より深き生涯などが幾つかの例である.しかし,肯定論者の中心的な,そして基本的な積極面の理解は,「全き愛」である.人が神の聖き愛に全うされることが,全き聖化の積極面とされる.ここでも,動機と意図が鍵となる.神の愛のみがその人の動機のすべてとなり,純粋な善意のみがその人の意図のすべてとなるのである.ただしこの点においても,動機と意図は愛において全うされていても,その現れに人間的弱さのあり得ることを認めている.しかし,愛の具現においては,無限の成長を含むものとする. 肯定論陣営で言われる今一つの重要な点は,全き聖化が人に成就する時と方法についてである.全き聖化の獲得は,全き献身に現れる全き信仰によって成就するもので,それは,新生(これを第1の転機として数える)後,第2の「転機」として,現世にあっての一瞬時経験として与えられる神のみわざであるとする.ただし,その後も一生涯を通じて聖潔の生涯に継続的な前進と成長がなされ続け,「御子のかたちが成るまで」の歩みをそこに見るべきものとする.みことばと聖霊の声に対する全き服従の生涯の継続なのである.さらに,天にて栄化の時,その「完全」は究極的に獲得されるものと理解するのである. (2) 全き聖化の否定論者の観点.否定の基礎は罪の定義にある.Ⅰヨハネ3:4「罪は即ち不法なり」(文語訳)に見る通り,神の法や御意との完全な調和を崩すどのような思い,ことば,行いも皆罪である.ゆえにウェスレーの言う弱さ,足りなさ,過ちも罪に含まれる.従って,現世にあって肉体を持つ者に「全き聖化」はあり得ない,とする.しかし,この陣営の「完全」の理解を見ると,彼らも「完全」を全くは否定していない.なぜならば,彼らも全き聖化,全き救いなるものを聖書に見るからである(例えばⅡコリント7:1,ヘブル6:1,Ⅰコリント2:6,ピリピ3:15,Ⅰテサロニケ5:23等).では,どのように理解するのかであるが,至極簡明に説明されている.それは,相対的完全と絶対的完全の二種または二段階に分けて理解するのである.相対的完全とは(学者によって詳細は異なるようであるが,一般論的にまとめると),地上のものであり,肯定論者の言う「消極面」はあり得ない(罪性の処置に関しては,存在し続けるが聖霊の力によって抑圧され,不可動となる,という抑圧説が出てくる).そのため,聖化については,キリストのかたちが成るまで,不完全のまま成長することの継続しかあり得ない.ゆえに相対的である.絶対的完全に関しては,学者のすべてが異口同音のようであり,それは天に属するものであるとし,文字通りの完璧な完全と言う(ピリピ3:11,14).従って聖化の獲得または成就については,地上では継続的,漸次的に,天にて絶対的にと理解される. (3) 両者の比較.以上の考察から両者の間にある同意点と相違点を見る時,次のことが明らかとなる.(a)同意点については,教理の基礎と内容において両者は共通していることが判明する.教理の基礎については,①両者は「信仰による義認」が全き聖化の基礎であることにおいて同意する.②両者は,新生した信仰者の内に罪性の存在することにおいて同意する.③両者は,信仰者の目標とするところは,全き聖化以外,または以下の何ものでもないことにおいて同意することが明らかである.教理の内容については,①両者は絶対的完全は天にて与えられる,という点で一致する.②両者は,相対的完全が地にて獲得し得ることにおいて見解を同じくする.③両者は相対的完全は継続的な成長を含むということにおいて同意する,と言える.(b)相違点としては次の2点にまとめることができる.まず,この世におけるすべての罪からの解放が,すなわち「全ききよめ(cleansing)」があるか否かにおいて理解を異にする.次に,「全き聖化」は一つの瞬時的な転機経験として現世において与えられるか否かの点で見解を異にしている,ということが言える. 5.これからの課題. 聖化の探求はこれまで組織神学並びに歴史神学の分野で取り扱われてきており,聖書神学的に十分探求されてはいない.組織神学的な二つの流れを比較すると,その相違点においては一見,行き詰りにきたかに見える面とともに,2点の明るい面を見ることが許されている.一つは,両陣営間にある広大な同意点の存在である.今一つは,両者の今日的共通自覚,「お互いが福音主義的プロテスタント」であることの認知である.両者は,神のことばである聖書をして,事の最終権威と認め合っており,聖書に対する態度に一致を見ている.この事実を土台として,教会が取り組むべき課題は,共通の恵みであり神の民への神の御旨である聖化を,聖書の中から改めて直接的に掘り出す作業であろう.二,三の設問の例として挙げてみると,まず,聖化の一面としてとらえ得る,自我の「死」の完全の問題をローマ6章などに,次に罪のきよめ,聖化に関して「全く(ホロテレイス)」とは何を意味しているのかの課題をⅠテサロニケ5:23などに,さらには,ヨハネの記す「私たちの内に神の愛が全うされる」ことの意味をⅠヨハネなどに見ることが,よき糸口となるのではないだろうか.聖化について聖書神学的な取り組みが待たれるように思う.→聖,聖別,きよめ,完全主義.(蔦田公義)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社
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