《じっくり解説》戦争とは?

戦争とは?

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戦争…

戦争は,常に人類の歴史とともにあった.どの国の歴史をとっても,戦争で色濃くつづられている.<復> 1.どうして戦争が起るのか.<復> 普通戦争とは,集団間の武力による闘争のことを言う.戦争の原因は種々ある.<復> 領土の地理的拡大を求めて,国境線の拡張を目指す戦争.そこには,侵入と略奪が常に伴う.<復> 支配者の名誉のために,ただ支配力の増大を求めてのものもある.バベルの塔以来,人類は異なる人種,民族に分離されてきた.世界統一を目指した王たちもあったが,これまでのところ,そのつど,道半ばにして願望は閉されている.今日のように交通手段が発達し,情報がすぐ手に入り,人道主義的世界観の進展によって国同士の接近があったとしても,世界が一つになるのは至難のわざである.<復> また,異なる人種間の争いもあれば,宗教的な是非を巡るものもある.<復> さらにもう少し複雑になると,内国に不統一や不穏な動きがあって,国民の目を外敵に向けるため,また名誉を傷つけられたことに対して仕返しをするために,戦争が始められることもある.国と国との勢力均衡が破れ,自国の平和が脅かされるような時や,他国の内部事情が自国の権益にも関係する時等にも,戦争は起る.また,自国を防衛するための戦争もあるだろう.<復> しかし,どのような戦争においても,経済的な要因があったことを見逃すことはできない.つまり,食糧や資材等の獲得や保護,国土や財産の所有,ということがほとんどの場合いつでも戦争を始める動機となり,目算となると言えるだろう.たとい開戦の大義名分が,名誉,正義,自由等の美名におおわれたものであったとしてもである.十字軍を見ても,宗教的に彩られた大義の背後に,権力の拡大という野心が秘められていたことは疑えない.<復> 先の太平洋戦争も,その背後には植民地の拡大を目指す列強の衝突があったし,直接的には米国に石油を止められたことが,引き金となったと言える.<復> 今日の局地的に見られる戦争においても,やはり,局所的に産出する金属や石油などの獲得が戦争の要因であるし,経済的勢力圏,政治的勢力圏の確保が大きな戦争力学となっている.<復> 現代はもう少し複雑で,必ずしも戦争による経済的受益国が戦場になっているわけではない.朝鮮戦争,ベトナム戦争の戦争特需で豊かになったわが国のようなケースもあるが,いずれにしても,戦争と経済は密接に関係している.特定の軍需産業の,武器販売による金もうけが水面下でうごめいている.それによって利益を得ている政府は,武器の製造を容認することであろう.<復> 2.聖書は戦争について何と言っているか.<復> それでは,聖書は戦争をどう見ているのだろうか.ある聖句を見れば,戦争を真っ向から否定しているようでもあるし,別の聖句を見ると戦争の存在を容認しているだけではなく,信仰者の参加を命じるところもある.従って,断片的な聖句をもって,短絡的な結論を急ぐのではなく,すべての倫理的な課題の取組がそうであるように,聖書全体と現実の問題を突き合せ,総合的な判断をする必要がある.<復> (1) 旧約聖書.まず,代表的なところでは,十戒(十のことば)の「殺してはならない」(出エジプト20:13)がある.これは直接戦争に言及することばではないが,戦争が常に相手を殺戮することと背中合せであることを思えば,深いかかわりのある箇所である.バルトも『キリスト教倫理Ⅲ—生への自由』の中で,戦争を,この聖句との関連で論じている.確かに戦争は,殺人との関連で考えられるべきである.<復> しかしまた,その同じ律法が,そのすぐ後のところで,この律法に従わない者に死刑を命じているのである.<復> 旧約聖書には,戦争の記事が多い.イスラエルの民を巡る戦争は,神の明白な意図と命令によって行われた戦争であった,と考えられている.主なる神の命じた戦争であるから,それは聖戦であった.しかし,だからといって聖書がどんな戦争でも肯定している,ということにはならない.なるほど,旧約聖書には戦争の記述が多々あるが,それでもそれは歴史の記録として,事実を記しているのであり,戦争の正当性の擁護のためではないのである.<復> その一方で,イザヤなどの旧約の預言者は戦争の絶滅こそ,メシヤ到来のしるしであるとの平和の使信を伝えたのである.<復> (2) 新約聖書.新約聖書もまた,山上の説教に見られるように,無抵抗の絶対平和主義を標榜しているようでもあるし,和解の福音に生きるキリスト者は,平和に生きるように勧められていて,平和主義を全面的に支持するかのように見える.<復> しかし,それでも,信仰者が戦争と何らかかわりを持たずに生きられる,とは書かれていないのである.かえって終末の時代にあっては,戦争と戦争のうわさはやまない(マタイ24:6)と明記されている.<復> また,キリスト者個人の生き方としては,自分で復讐するな(ローマ12:19),と言われているが,同じ手紙に,政府は,悪を行う者に報いを与える剣が与えられていること(同13:4)が記されている.この世の政治的権力者が神のしもべとして剣を帯びており,悪をさばくことが認められていて,その中には戦争への招集の可能性が含まれているのである.<復> ここで忘れてはならない一つの大切な視点は,そのみことばがその人個人に言われたことなのか,それとも市民国家の役割についての言及なのか,ということを判別することであろう.<復> 聖書全体から見ると,戦争は積極的に肯定されてはいないが,他方,考え方一つでなくなるものだとも言われていない.戦争とは,個人が神から離れた罪人であり,生れながらの人が欲望のままに生きることに,端を発する.確かに,冒頭で見たように戦争の原因は欲望,不平等の克服,主義主張の違いによると言える.しかし,究極的な戦争の原因は,正義と不義,神と悪魔,真理と虚偽といった相反する原理がこの世に存在し,調和することのない力が働いていることによるのである.<復> 3.歴代のキリスト者の戦争に対する態度.<復> (1) 初代及び古代教会.初代教会はおおむね,戦争に対しては否定的で平和主義であったと言える.また,キリスト者は社会では少数派であって,迫害を受ける中で,困難ではあったが兵役につくことを拒否した.テルトゥリアーヌス,キュプリアーヌス,オーリゲネース等は戦争に反対する書を書き残している.<復> (2) 中世.コンスタンティーヌス帝の時以来,キリスト教は公認され,国家と教会の命運は共通のものとなり,その結果戦争は教会に公認されるものとなった.戦争を真っ向から肯定することはなかったが,正義の戦いとして位置付けるようになった.<復> アンブロシウスは,周囲の″蛮族″からローマ帝国を守ることは,信仰の防衛であると考えて,キリスト者の参戦に同意した.<復> アウグスティーヌスは,地上に完全な平和を期することはできないと考え,キリスト者個人としては,地上で戦争に巻き込まれることは避けられないとした.正義の確立と平和を目指す戦争を,必要に迫られてのものならという条件付きで認めた.天国の永遠性,完全性の前に,地上の国を相対化したのである.<復> 中世の正義の戦争という考えを具現したのは,何と言っても,8回にわたって挙行された十字軍である.この十字軍を正当化するために,正義の戦いという概念は深められたとも言える.聖ベルナルドゥスは,殺す者はキリストに利益をもたらし,死ぬ者は自分に利益をもたらすとして,勇敢に戦うことを奨励した.<復> トマス・アクィナスは,正しい権威,正しい理由,正しい意図,つまり悪を退ける目的を持つという条件付きながら,正義の戦いを肯定した.彼の考え方は,中世の教会の考え方の集大成と言える.<復> (3) 宗教改革者たちの戦争観.ローマ帝国が崩壊し,多くの領邦国家が群雄割拠する時代となっても,教会が国家と密接な関係にあったという点では,中世とあまり変らないと言える.だから,教会が戦争から隔離されるということもなかった.<復> ルターは1526年に『軍人もまた祝福されるか』という本で,この問題に言及している.宗教上の戦いは否定したが,政府がこの世の正義を保つための戦争は認めた.<復> この点では,カルヴァン及び彼の後継者はさらに,正義の戦いを肯定し,その神学においてだけではなく,実際の行動においても戦闘的であったと言える.これは,いつも外敵に囲まれていたジュネーブ等の状況によるところも大きい.<復> しかし,アナバプテスト派は,戦争に参加して武器を取り,流血することを拒否し,絶対平和主義を貫こうとした.<復> 宗教改革の時代に続く時代は,血で血を洗う,宗教戦争の暗黒時代となった.正義の戦いは,もともと獲得よりは防衛を目指す性格のものであったが,過剰防衛になる時,その正当性を失っていった.正義の戦いと称しつつも,その実,略奪であるものも少なくなかった.戦争は最後的手段であるべきなのである.<復> (4) 啓蒙期の戦争観.この時代特有の,進歩的で楽天的な人間観によって,戦争は早晩なくなるといったふうな平和主義を唱える者が多く出た.カントの永久平和についての論文は有名である.<復> また反面,思想家たちが,教会を超えたところで自由に一人歩きしだしたことから,社会の問題が,信仰と別次元で論じられるようになった.国家主義や世俗主義の発芽も見られる.<復> ヘーゲルは,この世界を絶対精神の発展過程として,国家をその最高の実現と考え,戦争をその国家の自己実現のための必然的な手段として,積極的に肯定した.それはナチズムの発芽となった.教会もこうして,世俗国家の国家至上主義に直面しなければならなくなっていった.<復> (5) 現代.あらゆる形の,平和のための努力にもかかわらず,戦争はなくならず,ますますその規模を拡大してきた.それとともに国家権力は強大になり,教会は戦争参加を国家から強要された.ドイツ告白教会の人たちのように,戦争反対行動をとる者もいたが,大部分は,参加すること以外に道はないと考えた.日本の戦前・戦中の教会も,戦争を進める国家に対して,一部を除き,反対らしい反対をしなかったばかりか,積極的に教会員が協力するように働きかけた.<復> また,第2次世界大戦後は,核の時代となり,もはや正義のための戦いなどというものは,実際上成立しなくなっている.核兵器の破壊力は度外れていて,平和のための威嚇などということを,とっくに通り越しているのである.キリスト者の間でも,平和運動が盛んになった.<復> 以上,大まかに,キリスト者の戦争に対する姿勢を,時代を追いながら見てきた.まとめれば,平和主義に立って,戦争に参与しないか,正義の戦いもしくは聖戦という限定付きではあるが,戦争に参加するかの,どちらかである.平和主義は数の上では圧倒的に少数派であったと言える.<復> 4.今日のキリスト者と戦争.<復> 化学技術の発達は,兵器や戦争自体を変えた.かつては,戦争の倫理の関心は,主として兵士になるべきか否か,ということだった.しかし,ABC兵器(A.原子爆弾,B.細菌爆弾,C.化学兵器)の時代は,国際法の戦争の取決めの範囲を超えるものである.正義のための戦争という概念を意味のないものにする.軍隊と一般市民,戦闘員と非戦闘員とをもはや区別できないからである.キリスト者が積極的ではないにせよ,容認してきた武器による戦争の大義は,せいぜい,(1)武器は威嚇の手段であって,義を守るため,(2)力の行使によって,相手に義の平和を強要することが戦争の目的である,というようなことであった.<復> しかし新兵器は相手の威嚇や自らの防衛を飛び越え,殱滅しかもたらさない.防衛戦争は実質的に成立しなくなった.戦争は全体的であり,自分だけをそこから隔絶するというようなことはあり得ない.<復> キリスト者が,戦争の問題に関して発言する時,この罪の世に対し,全くの武力の行使なしに正義を保持することができるかどうか,ということを考えておかなければならない.政府・国家は,正義が行われるように行政を行い,人々の放縦を防ぎ,悪の侵害から市民を守る任務を帯びている.また悪に対しては,罰をもって正義の秩序を保つために,剣を与えられているのである.<復> 戦争が起きる前に,教会とキリスト者は,ありとあらゆる方法で戦争に反対し,また政府の行動を見守り,発言しなければならない.戦争は,明らかに聖書の戒めに反し,福音的生き方に矛盾する.ぎりぎりのところまでそれに反対すべきである.国家の正常な任務は,自国の中での正しい平和形成と,国家間における戦争回避のあらゆる処置に努めることである.この任務が滞れば,人間ではなく営利資本が政治の対象となり,戦争が起きるのである.<復> だから,キリスト者は隠遁者となってはいけない.どんなに微力でも,地の塩・世の光として,社会の中で声を上げ,行動する者でなければならない.また,戦争と悪の問題の根本的な解決は,福音の使信にあることを覚え,日々福音宣教に務め,日頃のあかしを通じて,平和を行い世論の中に道徳的影響力を持たねばならない.→平和・平安,政治とキリスト者,キリスト者の社会的責任.<復>〔参考文献〕R・H・ベイントン『戦争・平和・キリスト者』新教出版社,1963;K・バルト「戦争の問題」『キリスト教倫理Ⅲ—生への自由』新教出版社,1964;ゴルヴィツァー『自由の要求』新教出版社,1964;P・C・クレイギ『戦争と聖書』すぐ書房,1990.(片岡伸光)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社