《じっくり解説》弟子,弟子づくりとは?

弟子,弟子づくりとは?

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弟子,弟子づくり…

1.聖書に現れる弟子.<復> (1) 旧約聖書では,ヘブル語で,学ぶ,または,慣れるの意味のラーマドゥに関連するタルミードゥ(Ⅰ歴代25:8)と,リムードゥ(イザヤ8:16)がそれぞれ1回ずつ現れ,新改訳聖書では共に,弟子と訳されている.<復> (2) 新約聖書では,学ぶの意味の[ギリシャ語]マンサノーに関連するマセーテースが弟子に当る.この語は,264回現れており,弟子となる,または,弟子とするの意味の動詞形マセーテュオーも4回現れている(マタイ13:52,27:57,28:19,使徒14:21).注目すべきことは,弟子という語は,福音書と使徒の働きにのみ現れており,それ以外の箇所には全く見られないことである.<復> 2.弟子という語の背景.<復> (1) 旧約聖書においては,師弟関係と想定する弟子という概念がほとんど見られない.その理由としては,イスラエルの宗教の啓示宗教としての性格,律法の保持と教育の務めが世襲によって受け継がれたこと,神との関係は,イスラエル民族全体と神との契約関係であったことなどにあると考えられている.<復> (2) 新約聖書の時代のユダヤ教においては,律法の教師であるラビは,その周囲に自分の弟子(タルミードゥ)を集め,書かれた律法とともに,口伝の律法を教えた.パウロがそのもとで学んだガマリエルはそのようなラビの一人である(使徒5:34).このラビの師弟関係の発達は,ヘレニズム文化の影響によるところが大きいと考えられている.ギリシヤ世界では,弟子(マセーテース)とは,知識や技術を習得するために,特定の師について学ぶ者を意味した.様々な学派の哲学者のもとで学ぶ者,医者や職人のもとで修業を積む者が弟子と呼ばれた.弟子は普通,その修業期間中は師とともに生活し,師に仕えた.ユダヤ教のラビの弟子も,ある期間,師のもとで律法の教育を受け,その間,弟子は徒弟として師に仕えた.修学期間が終ると,弟子は師から独立し,自らがラビとなり自分の弟子をとることが許された.<復> 3.イエスとその弟子.<復> 福音書に現れる弟子の概念は,イエスの時代のユダヤ教ラビの師弟関係を背景としているが,偉大な指導者の信奉者,または特定の運動や派に属する者という一般的な意味でも用いられている.バプテスマのヨハネの弟子(マタイ11:2),モーセの弟子(ヨハネ9:28),パリサイ人の弟子(マルコ2:18)などがその例である.しかし,ほとんどの場合,弟子とは,イエスに従った者を意味している.イエスは,ラビとしての正規の教育を受けていなかったが,一人のラビとして出現したと言える.イエスの弟子はイエスをラビと呼び(マルコ9:5,ヨハネ4:31),パリサイ派の指導者もイエスをラビと呼んでいる(ヨハネ3:2).さらに,イエスは他のラビと同じように,人々に律法を教え,自分の周りに弟子を集めていた.しかし,幾つかの点で他のラビと異なっていた.イエスは,自分の権威に基づいて律法に自分の解釈を与え,口伝による伝承ではなく自分の教えを教えた(マタイ5‐7章).人々はイエスの教えに驚いた.イエスが他のラビのようにではなく,権威ある者のように教えたからである(マタイ7:28,29).イエスとその弟子との師弟関係においても,当時のラビのそれと比べると,大きな違いが見られる.<復> (1) ユダヤ教のラビの師弟関係では,弟子が師事する師を選んだが,イエスの弟子の場合は,師が弟子を選んだ(マタイ4:19,マルコ1:17,ヨハネ15:16).<復> (2) イエスが弟子として選んだ人々の中には,他のラビが弟子としようとはしなかった種類の人々がいた.イエスの弟子には,ユダヤ教の枠からは締め出されていた取税人がいた(マタイ9:9).また,ガリラヤの無学な漁師や,異邦人の支配に抵抗する熱心党に属する者もいた(マルコ1:16‐20,ルカ6:15).ユダヤ教のラビは,女性を教えることをしなかったが,イエスは女性を個人的に教えた(ルカ10:39).多くの婦人たちが他の弟子たちとともにイエスに従っていた(ルカ8:2,3).<復> (3) ユダヤ教ラビの弟子は,修業期間を終えると師から独立し,自らがラビとなったが,イエスの弟子は,師から離れて自分の弟子をつくることはなかった.イエスの弟子であるということは,一生の間イエスを師とし,また,主として従うことであった.そのためには,自分の家族,財産,さらに,自分のいのちまでもささげることが求められた.イエスの弟子となることは,師の教えに対する信奉ではなく,師であり主であるイエスに対する無条件の献身であった(マタイ10:37‐39,ルカ14:26‐33).<復> (4) イエスの弟子となる召しは,師とともに生活し,師に学ぶだけでなく,師とともに神のみこころを行う働きへの召しであった.イエスは,御自分が父なる神から与えられた務めに弟子たちを参加させ,彼らをそのために派遣した(マタイ10:7,8).弟子たちは神の国のために人間をとる漁師となるために召された(マルコ1:17).この召しには,師であるイエスが直面したと同じような反対や迫害に遭うことが当然のこととして含まれていた(マタイ10:16‐25,ヨハネ15:18‐21).<復> 4.弟子の範囲.<復> イエスの弟子とは誰を指すかについて,福音書の間に多少の相違が見られる.マタイでは,弟子とは12弟子を意味していると思われる.マルコでも,4:10を除いて,12弟子以外の弟子についての言及が見られない.しかし,ルカとヨハネでは,他の多くの弟子についての言及がある(ルカ6:13,17,10:1,ヨハネ4:1,6:66,19:38).マタイとマルコでは,12弟子に焦点が当てられているが,彼らをイエスに従ったすべての弟子を代表する者と見ることができる.この12弟子は,新しいイスラエルの12部族を象徴するとも見られるだろう.復活の後イエスは,すべての国民を弟子とするように弟子たちに命じたが,それは12弟子に代表されるすべての弟子たちが召し入れられたイエスとの関係にすべての国民を招き入れ,新しい神の民を召し出す命令であった(マタイ28:19).また,12弟子は,多くの弟子の中で使徒として特別な位置と役割が与えられた者と見ることができる.彼らは常にイエスに従い,行動を共にし,イエスの行っていたと同じ働きに派遣され,悪霊を制する権威を授けられた(マタイ10:1,マルコ3:13‐15,ルカ6:13).イエスの復活と昇天の後,弟子たちは使徒を,イエスの復活の証人となるためにイエスの公生涯の初めから昇天まで常に行動を共にした者の中から特別に選ばれた者と理解している(使徒1:21,22).使徒の働きにおいては,弟子とは,イエスをキリストと信じる者を意味し,クリチスャンと同義語である(6:1,7,9:26,11:26).<復> 5.弟子という語が福音書と使徒の働き以外の箇所になぜ見当らないのか.<復> このことを考える上で,イエスの弟子となるということとほとんど同義語として用いられている「従う」([ギリシャ語]アコルーセオー)に注目することが手がかりになると思われる.この語は共観福音書に56回,ヨハネに14回現れている.それ以外の箇所で,この語がイエスとイエスを信じる者との関係について用いられているのは2回だけである(黙示録14:4,19:14).パウロの手紙では1回現れるだけであるが,それもイエスを信じる者のイエスへの態度という文脈ではないところで用いられている.師に付き従う者としての弟子という概念の背景には,ユダヤ教ラビの師弟関係があったが,そこでは弟子は師に物理的に従い,師とともに生活した.しかし,イエスの復活と昇天の後そのようにイエスに従うことが不可能になった今,この「従う」の代りに,「キリスト・イエスにある」(エペソ1:1,ピリピ1:1),主の「御名を呼び求める」(ローマ10:13,Ⅰコリント1:2),また,キリストに「ならう」(Ⅰコリント11:1,Ⅰテサロニケ1:6)などのことばによって,弟子とイエスの関係を表そうとしたのではないかと考えられる.福音書の中で最も後で記されたと考えられているヨハネにおいては,イエスに「従う」という語に,イエスを信じるという意味が含まれている(ヨハネ8:12,10:26‐28).さらにヨハネは,イエスの弟子を,地上のイエスに従う者という定義を越えて,イエスを信じ受け入れた人々(1:12,6:69),イエスのうちにとどまる者(15:4,9),イエスのことばのうちにとどまる者(8:31),父なる神とイエスに属する者(15:6‐10)としている.また,イエスの弟子のしるしは,互いの間の愛であると言う(13:34,35).パウロは,弟子という語を全く用いずに,「キリスト・イエスにある者」(ローマ8:1),「キリスト・イエスにある聖徒」(ピリピ1:1),「キリストにある兄弟」(コロサイ1:2),「主イエス・キリストにある教会」(Ⅰテサロニケ1:1)などのことばを用いている.これらのことから,福音書及び使徒の働き以外の箇所の著者は,ユダヤ教のラビの弟子や,ギリシヤ世界における弟子や見習いを想像させるマセーテースという語を避け,また,ギリシヤ世界で弟子を意味するもう一つのことばアコルーソス(従う者の意味)につながるアコルーセオーをも避け,それらに代ることばを用いたのではないかと推察される.1世紀の終りから2世紀の初めの使徒教父の文書では,弟子という語は,クリスチャンの意味で再び現れている.中でもイグナティオスは,この語を殉教者という意味で用いている.<復> 6.弟子づくり.<復> 「それゆえ,あなたがたは行って,あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)は,復活の後イエスが弟子たちに与えた宣教命令である.全世界に出て行き,すべての造られた者に福音を宣べ伝え(マルコ16:15),あらゆる民族,言語,文化の人々をイエス・キリストの弟子とすることは,イエス・キリストを信じる者すべてに与えられた使命である.弟子とすることは,三位一体の神の名によってバプテスマ(洗礼)を授けることによって,またイエス・キリストの教えを信者が守り行うように教え育てることによって行われる,近年,この「弟子とする」ということが別の観点から強調されてきた.それは,「弟子づくり」「弟子訓練」「弟子化」などと呼ばれるもので,信者,特に,初信者の成長のための訓練の働きを指す.この「弟子づくり」は以下の考えに基づいて行われることが多い.<復> (1) 主の宣教命令を果すためには,宗教改革で確認された万人祭司の教えが実行されなければならない.すなわち,すべての信者が弟子づくりの働きに動員される必要がある.<復> (2) そのためには,信者一人一人が,弟子づくりのわざのために整えられる必要がある.その第一歩は,彼らがまず個人的に弟子訓練を受けて育てられることである.そうして初めて他の人を弟子とすることができる.<復> (3) この弟子訓練が効果的になされるためには,イエス・キリストの弟子訓練から学び,そこにある原則を今日に適用しなければならない.それこそが神が宣教命令の達成のために教会に与えたものだからである.使徒パウロは,全世界に出て行き,福音を宣べ伝え,多くの人を弟子とした(使徒14:21)が,彼が個人的に訓練したテモテに与えた命令(Ⅱテモテ2:2)は,彼自身も主の弟子訓練の原則に従っていたことを示している.このような考え方に基づく弟子づくりがなされるところには,伝道の活性化や信者の間に信仰の成長と規律ある生活の確立がもたらされてきた.特に,初信者が,特定の人の指導のもとで,個人的に,系統的に,教え育てられることの重要性が再確認され,そのための資料や訓練の働きが発達している.同時に,幾つかの注意すべき点も指摘されている.少数の人が選別され,彼らを個人的に,かつ集中的に訓練することが重視されるが,その際,弟子訓練を受ける者は,指導者の霊的権威に服し,その指示と監督に従うことが求められる場合が多い.その時,イエス・キリストの権威に服し,その御心に従うように訓練されるべきであるのに,指導者の権威に服し,その指示に従うようになる危険が伴う.主の弟子になるか,人間の弟子になるかの問題と言えるであろう.また,弟子づくりを組織的に行っていく場合,指導者の監督による規律と訓練を重視するあまり,少数の者に権威が集中し,教会の中に権威の階層が生れる危険もある.極端な場合には,「使徒」と呼ばれる最高権威ないし責任を持つ少数の集団ができ,そのもとにある信者を生活全般にわたって監督する.すべての重要な決定は,その「使徒」ないし,その下にある指導者の承認を必要とするようなこともある.弟子づくりの働きにおいて,主の弟子訓練の原則に従うとともに,しもべとして仕えられた主の模範にならうことも等しく重要である(マタイ23:8‐12,ヨハネ13:12‐15).→使徒性,キリストの宣教命令.<復>〔参考文献〕R・E・コールマン『伝道のマスタープラン』いのちのことば社,1978;Watson, D., Discipleship, Hodder & Stoughton, 1981; Brown, C. (ed.), The New International Dictionary of New Testament Theology, Paternoster, 1975.(太田和功一)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社