《じっくり解説》いのちとは?

いのちとは?

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いのち…

一般的には生き物を生かしている根源的な力を言う.いのちとは何かという問題は,生物学・医学・化学・物理学,そして文学・哲学・宗教にとっての一大テーマである.「生とは死に抵抗する力の総和である」とのM・F・X・ビシャのことばに代表されるように,「死」あるいは「非存在」との対比において「いのち」を考えるのが一般的な理解であるが,それはまた,「いのちとは何か」を定義することが極めて難しいことを物語っている.<復> 日本語の「いのち」ということばの語源には諸説あるが,一般的には「息の道(あるいは,内,霊,力,続)」だとされ,「息」と関連付けられている.そして「息」は「生きる」から来ていることばだと言われる.また,一説に「胃(あるいは,胆)の気(あるいは,霊もしくは血)」だとするものがある(古語では「霊」は「ち」と読まれ,「血」に通じる).息と血が「いのち」ということばに関連することは,後に述べるように,興味深い点である.この「いのち」という日本語に訳される聖書の言語のうち,重要なものは[ヘブル語]ハッイーム,[ヘブル語]ネフェシュ,[ギリシャ語]プシュケー,[ギリシャ語]ゾーエーであり,聖書における「いのち」の考察は,これらのことばの使われ方の多面的な分析を経て,統合的になし得るであろう.<復> 1.旧約におけるいのち.<復> [ヘブル語]ハッイームは「存在する,生きる」ということばから来ており,自然的生命,肉体的生命を表す(申命28:66).いのちを脅かすものが病気であり,死であり(詩篇18:5,6,116:8),いのちとは,それらに負けることなく健康であり,活動することであり,自由や成功を得ることであり,幸福で長生きすることと同義的である(箴言3:2,伝道者9:9,マラキ2:5).しかし,箴言12:28ではこの語は単なる肉体的生命以上のいのち,永遠のいのちを指し示している可能性がある.<復> [ヘブル語]ネフェシュは,生命の基本原理,体を生かしている生命力であり,さらには,生きた存在としての人間,「生命活動」をしている人間を表す.この語の原義が「息」である(ヨブ41:21.同語源の動詞[ヘブル語]ナーファシュを参照→出エジプト23:12).「息」はいのちの根源と考えられ,生きているものは「息あるもの」([ヘブル語]ネシャーマー.ヨシュア11:11,詩篇150:6)であり,息の停止はいのちの終息である(創世35:18,Ⅰ列王17:17,21,22).この語は,息をする器官「のど」(エレミヤ4:10,ハバクク2:5),その器官が切望する「生への欲求」(箴言23:2,伝道者6:7),さらに,その欲求に伴う感情の座である「心」(出エジプト23:9,伝道者6:9)や「たましい」(ヨブ30:25)を意味する.こうしてこの語はより広義の意味を得,「いのち」それ自体を表し,「死」の反対語[ヘブル語]ハッイームの同義語として用いられる(出エジプト21:23,箴言8:35[ヘブル語]ハッイーム,8:36[ヘブル語]ネフェシュ).<復> さらには,息をする「人間」そのもの(創世12:13,レビ17:10),時には息が出て行ってしまった「死体」(民数19:11)さえも意味する.以上のような「いのち」を指す語の持つ意味の多様性それ自体,「いのち」の複雑さを示していると言えよう.<復> 「いのちは血で(血に)ある」と言われている章句がある(創世9:4,5,レビ17:11,14,申命12:23,箴言1:18).これは血が生命力の座であると見なされていたことを示している.とりわけ人間の血を流すことは「神のかたち」を破壊するものとして厳しく弾劾される(創世9:6).聖書における人間のいのちの尊厳は,人間が神のかたちに造られたことに基づくものである(→本辞典「生命倫理」の項).<復> [ヘブル語]ネフェシュに[ヘブル語]ハッイームの同語源語[ヘブル語]ハッヤーを結び合せたことばが,「生き物」を表すことばとして用いられている(創世1:30,2:19).創世2:7によれば,神が土地のちりで人(の肉体)を形造り,「いのち([ヘブル語]ハッイーム)の息」を吹き込まれた結果,初めて人は「生きものとなった」.ここから魂と体の実体二元論を引き出すことは誤りで,生ける人間にとって体が霊にとっての足かせや牢獄であるというような思想は旧約にはない.人間は一つの統一体として神に創造されたのである.この聖句において,他の「生き物」と人間という「生きもの」との違いが明瞭にされる.すなわち,人間だけが神から「いのちの息」を吹き込まれた独自の「生きもの」なのである.従って,人間の「いのち」,人間の全存在は,神に由来し,神に依存する(詩篇104:29,30).いのちの主は「いのちの泉」なる神であり(詩篇36:9),人間ではない(申命32:39,Ⅰサムエル2:6).詩篇139:13‐16は胎児のいのちの尊厳を考える上で重要である(参照ルカ1:41‐44).<復> 注目すべきは「生ける神」[ヘブル語]エローヒーム・ハッイーム(エール・ハイ)という表現である(申命5:26,Ⅰサムエル17:36,詩篇42:2,ホセア1:10).主の御名[ヘブル語]ヤハウェは,「存在する」意味の語[ヘブル語]ハーヤーと密接な関係があり,主が永遠の存在であり生ける神であることをあかしするものと思われる(出エジプト3:14,15).神は永遠なるがゆえに生ける神であり(エレミヤ10:10,ダニエル6:26),いのちを創造し(創世1章),いのちを与え,あるいは取り去られる(ヨブ1:21).被造世界のすべてのいのちは神から出ている.神はいのちの主であり,すべての「生ける者」の「生ける神」なのである.<復> 旧約におけるいのちの本質は,生ける神との交わりに存する.いのちの秘密また根源は,神との交わりなのである.この神との交わりを破壊するのが死である.旧約における死とは,ギリシヤ思想に見られるような神意による自然なもの,完全至福を与える解放ではなく,人間の罪によりこの世に侵入してきた,神とは対立的・非自然的・異常なものであり,神と人との敵,「いのちの敵」である.死は人を,いのちの創造者なる神から引き離す.死とは神からの離反,神との関係喪失である(詩篇88:5,115:17).また,死後,よみ([ヘブル語]シェオール)の世界で,無色の存在,影のようなものとして生き続けるというようなあり方も,真のいのちのあり方ではない.よみは主なる神の統治権外にあると見なされるからである.また,単に生存し続けることも,「生きている」ことにはならない.いのちとは,神の恵みと交わりのうちに存するいのちだからである(詩篇16:11,30:5,63:3,ハバクク2:4).この交わりは,肉体の死によっても壊されることはない(詩篇73:23‐28).神は終末的「その日」に,永久に死を滅ぼし,真のいのち・永遠のいのちを与えて下さる(イザヤ25:8,9,26:19,ダニエル12:2).生ける神との交わり,神と人との間のいのちの結び付き,それが「いのち」なのである.<復> 2.新約におけるいのち.<復> 新約においても,旧約のいのち観は基本的に受け継がれ,さらに深められている.<復> [ギリシャ語]ビオスは,いのちを表す主要な古典ギリシヤ語で,生物学的いのち・時間的いのち・いのちの具体的現れを指す.しかしこの語は,新約聖書にはまれにしか見られず,主として地上的いのち,いのちの現世的な性質を述べる場合に用いられ,「いのち」と訳されている箇所はない(Ⅰテモテ2:2「一生」,Ⅰヨハネ2:16「暮らし向き」,同3:17「富」).<復> [ギリシャ語]プシュケーは,70人訳聖書が[ヘブル語]ネフェシュの訳語にあてた語で,ネフェシュと同様,肉体的いのち(マタイ2:20),人間(使徒2:41,ローマ13:1),人格的主体たる我,思い,欲求,心,精神,知情意の座・人間精神の本質的部分としての「たましい」(Ⅰテサロニケ5:23),内的生命の主体(Ⅰペテロ1:9)など,多様な意味を持っている.<復> [ギリシャ語]ゾーエーは,存在を生きたものにしている根源的エネルギーを言い表す語で,肉体的・地上的いのち(使徒17:25,ヘブル7:3),より高次ないのち・霊的いのち(ローマ6:4),死と対立するいのち(ローマ8:38,Ⅰコリント3:22),永遠のいのち(Ⅰヨハネ5:11,12),復活のいのち(ヨハネ5:29),神のいのち(エペソ4:18)を表す,非常な広がりと深みを持つ語である.<復> (1) 共観福音書と「使徒の働き」において,人のいのちは,全世界をもってしても買うことのできないほどに尊いものであり(マルコ8:36,37),イエスは人のいのちを助けるために,しばしば御自分の力を用いられた(マルコ5:23,41,ルカ7:12‐15).それゆえ,いのちを支える食物・衣服などは,軽視されることなく,神の賜物として感謝して受け取られる(マタイ6:25以下).しかし,真のいのちはパンのみによるのでなく,神のみことばに依存する(マタイ4:4,ルカ12:15).神から離れて生きることは,死んだ状態と同じであり(ルカ15:24,32),そのいのちは「神のいのち」から遠く離れている(参照エペソ4:18).いのちは地上的いのちだけでなく,来るべき世のいのち・永遠のいのちへと連なるいのちである(マルコ10:17,30).そこで「いのちに入る」とは,「永遠のいのちを得る」「神の国に入る」「救われる」と同義である(マタイ18:3,8,19:16,24,29,マルコ10:17,23,26).生かすことも殺すこともできる神は(マタイ10:28),いのちの創造者・賦与者(使徒17:25),いのちの主(ルカ12:20,使徒10:42)である.神はいのちそのものであり,「生ける神」であり(マタイ16:16,26:63,使徒14:15),かつ「生きている者の神」である(マタイ22:32,マルコ12:27,ルカ20:38).<復> (2) パウロ書簡において,いのちは,キリストの死からの復活という光の下で考察されている(ローマ14:9,Ⅰコリント15:20‐22).パウロは,いのちとそれが包む一切のものがことごとく死の支配下にある,と死の本質を見極めた.その死の力ゆえに人間は滅びゆく存在となっているが(Ⅱコリント4:11),キリストが死を滅ぼし,いのちと不滅を明らかにされた(Ⅱテモテ1:10).復活を通して,キリストは新しいいのちの創始者,復活のいのち・永遠のいのちの賦与者となられた(ローマ5:12‐21,Ⅰコリント15:22).キリストはキリスト者のうちに生き(Ⅱコリント13:5,ガラテヤ2:20,エペソ3:17),キリスト者はキリストのうちにあって(Ⅱコリント5:17),キリストのいのちを生きる(Ⅱコリント4:10).そのことは,彼が神とキリストのために生き(ローマ14:8,Ⅱコリント5:15,ピリピ1:21),他者への愛に生きることによって具現化される(ローマ13:10,ガラテヤ5:6,13,22).キリストのいのちは,いのちのことばによって(ピリピ2:16),御霊の創造的力によって(ローマ8:2,6,11,Ⅰコリント15:45),信仰によって(エペソ3:17),キリスト者に賦与される.パウロにとって真の「いのち」とは,生死を超えていつまでも「主とともに生きる」ことなのである(ローマ14:8,ピリピ1:23,Ⅰテサロニケ5:10).<復> (3) ヨハネ文書においては,信仰者に与えられるいのちに焦点が当てられている.永遠のことば([ギリシャ語]ロゴス)は,永遠のいのちであり,永遠に神とともにあり,人の世にイエスとして受肉された(ヨハネ1:1‐18,Ⅰヨハネ1:1,2).それゆえ,イエスのうちにいのちがあり(Ⅰヨハネ5:11),イエスが永遠のいのちの「ことば」を持っておられる(ヨハネ6:68).それだけでなく,イエス御自身が真のいのちそのものであり(ヨハネ6:35,14:6),永遠のいのちにほかならない(ヨハネ11:25,Ⅰヨハネ5:20).神は,イエスを通し,イエスのみことばと人格を通して,人々にいのちをお与えになる(ヨハネ3:16,6:33,63,10:10,20:31,Ⅰヨハネ4:9).ヨハネ文書における永遠のいのちとは,必ずしも死後のいのちを言うのでないことは,以上のことからも明らかである.神と御子を信じる者のうちに,すでに永遠のいのちは現存するのである(ヨハネ17:3).ヨハネの黙示録においては,もはや死のない完全ないのちが示され(21:3,4),新しい神の都における「いのちの木といのちの水」の表象を用いて,神にある永遠のいのちの完全さが強調される(21:6,22:1‐14,19).→永遠のいのち,生命倫理,死,死後の状態,復活,終末論.<復>〔参考文献〕H・W・ヴォルフ『旧約聖書の人間論』日本基督教団出版局,1983;Link, H. G., “Life,” The New International Dictionary of New Testament Theology (Brown, C.〔ed.〕),Zondervan, 1975 ; McDonald, H. D., “Life,” Evangelical Dictionary of Theology (Elwell, W. A.〔ed.〕),Baker, 1984.(熊谷 徹)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社