《じっくり解説》異言とは?

異言とは?

異言…

1.旧約聖書における異言.<復> (1) 旧約聖書に異言についての直接的な言及があるかどうかを考える際,聖書に言及されていることばの実に豊かな広がり全体を背景として異言について理解するという基本的な方向が大切である.<復> (2) 新約聖書の異言への言及において,旧約聖書からの引用がなされているという事実.<復> a.使徒2:15‐21において,ペテロは,エルサレムに集まっていた巡礼者に彼らの直面している現象を説明するに当り,預言者ヨエルのことば(ヨエル2:28‐32)を引用している.<復> b.Ⅰコリント14:21において,パウロは,異言の不信者に対する役割の性格を,預言者イザヤのことば(イザヤ28:11,12)に言及しながら説明している.<復> これらの事実は,異言の理解も旧約聖書全体の流れの中でなすべきことを示している.<復> (3) 議論のある旧約聖書の箇所.異言への言及に際して新約聖書で引用している旧約聖書の箇所以外にも,異言について述べているかどうかで議論の分れる箇所がある.<復> a.民数11:24‐29.70人の長老が経験した状態は,「霊」が与えられとどまったことの外的なしるしであり,異言で話すことを含む,との理解がある.これに対しては,ここで用いている用語は「恍惚状態で預言する」(11:25,26,27)であり,モーセ自身がこの状態を経験したとは直接述べていない,との指摘がなされよう.<復> b.Ⅰサムエル19:18‐24.サムエルの監督する一団の預言者の預言活動には,「異言」と類似する現象が含まれていたのではないか,との理解がある.しかし,サムエルの預言者としての評価は,他のことに依存している(参照Ⅰサムエル3:20).<復> c.記述預言者の活動の記述には,異言についての直接的な言及はない.<復> 以上のような限られた箇所から判断して,異言と見られるような現象があったとしても,それが真の預言者の第1の特徴とは思われない.<復> さらに古代において,異教の予言者たちは恍惚状態での表現,失神,狂乱的な行為とかかわっていたと言われ,普通でない言語で語る記録も残されている.ヘレニズム世界では,デルフィの予言者たちやシビュラ(巫女,女予言者)が未知な,あるいは不明瞭な話しことばで話し,また,ディオニュソスの儀式は,同様な恍惚状態での発言を含むと言われる.しかし,これらの現象と聖書の異言との類似とともに,区別にも十分注意を払う必要がある.<復> 2.新約聖書における異言.<復> (1) 福音書.福音書中に異言についての直接的な言及が見られるのは,マルコ16:17のみである(16:9‐20を欠く異本もある.参照16:9欄外注).そこでは,信じる人々に伴うしるしとして,「新しいことば」が挙げられている.これは,バプテスマのヨハネが母の胎内にいる時の記述(ルカ1:15)から始まり,主イエスの全生涯,弟子たちの活動からエルサレムでの聖霊降臨の待ち望みに至る,福音書に満ちている聖霊の豊かな活動の現れの記述との対比で目立つ.<復> (2) 使徒の働き.<復> a.使徒2章のペンテコステの記事には,弟子たちが聖霊に満たされ,外国語で話し始めたと受け取れる記述がある(2:4,6).しかし,一般的な意味での外国語で話し始めたと解釈すると,「甘いぶどう酒に酔っている」(2:13)と理解されたとの記述と矛盾するとして,ここでも,コリント教会におけると同様な異言現象を示しているとの理解もなされる.いずれにしても,ペンテコステの出来事は,聖霊の公的賦与であり(参照ヨハネ20:22),新しい聖霊の時代の開始を示す.また人類の言語が混乱したバベルの塔の記事と対照的であり,律法の授与が世界のすべての言語でなされたとする伝承と対応するように記述されている(参照使徒2:8)との指摘がなされる.より重要な点は,世界宣教との関係である.使徒2:9‐11に見る国々の一覧表も示すように,ペンテコステの出来事は,キリスト者・教会にゆだねられている世界宣教の使命(参照1:8)と切り離すことはできない.<復> b.その他の記述.カイザリヤでの場合(使徒10:46)は,いわば異邦人のペンテコステであり,同様にサマリヤでの出来事(8:17)や,エペソの回心者の場合(19:6)も,それぞれ,サマリヤの歴史的地理的位置や,バプテスマのヨハネの弟子たちの立場から,それぞれの地域やグループへの聖霊の最初の到来を示す特別な証拠として価値を持つ,との理解が主張される.以上のことからだけでも,使徒の働き全体の構造から,それぞれの記事,出来事を受け止める必要があるのは明らかである.<復> 使徒の働きに登場する上記以外の人々が,聖霊を受けた時,異言で話したかどうかは,直接明記されていないので,確言できないとするのが妥当であろう.また,ペンテコステの出来事は,異言が,聖霊に満たされバプテスマ(洗礼)を受ける者にとって最初の経験として必要不可欠なものであることを示している,という主張がある.これに対しては,歴史的記述は教えの部分により補強されていない限り,そこにのみ立って教義を打ち立てることはできない,との反論がある.また,使徒の働きの記述そのものの中にも,異言が必ずしも最初の経験でない場合が少なくない(4:31,8:17,9:17,18)との指摘もなされる.他方,異言は使徒的メッセージの確認を意図するしるしの賜物であり,この賜物は使徒時代の終結とともに終ったとする論証についても,異言は新しいグループの教会への加入を確認するものであって,直接使徒の働きからのみそのように確言することは困難である.<復> (3) Ⅰコリント12—14章.パウロ書簡における異言への言及の代表的な箇所は,「御霊の賜物」について述べているⅠコリント12—14章である.<復> a.Ⅰコリント12章.ここでは,御霊の賜物の豊かな多様性と統一性の中で,異言が取り上げられている.その背景としては,御霊にある生活を誤解していたコリント教会の熱狂的な人々が,異言を賜物の中で最高のものとして持ち上げる傾向があったことが考えられる.この傾向に対して,パウロは,賜物の多様性を強調し,御霊の賜物全体の中で異言を位置付けている(12:28).また,誰でも霊的な者は異言を語るべきだとの主張に対して,神の主権的導きを強調して,「みなが使徒でしょうか.…みなが異言を語るでしょうか」(12:29,30)と反論していると推察される.パウロ書簡において,何が受信人の意見や関心事であり,何がパウロ自身の最も重要視していることであるか(参照ガラテヤ5:6,6:15等),その区別と絡み合いを見分けることが理解の鍵であるが,異言に関してもこの点が大切であると思われる.<復> b.Ⅰコリント13章の重要性.この章では,相互の愛に欠けるところのあったと思われるコリント教会の人々(参照Ⅰコリント8:1‐3)に,聖霊の導きと統治のもとで,この地上で真に霊的に生かされる道を示している.それは,コリント教会の人々が聖霊によって「主」と告白することの許された,イエスの死によって明らかにされた愛に基づく生き方である.それをパウロは,「愛を追い求めなさい.また,御霊の賜物,特に預言することを熱心に求めなさい」(同14:1)と要約している.主イエスにおいて明らかにされた愛に生かされることこそ,御霊の賜物をもって教会の徳を高めるために不可欠であり,御霊の賜物と御霊の実(ガラテヤ5:22,23)の深い関係が暗示されている.パウロの指し示す愛と御霊の賜物とは対立するものではない.キリストとの生きた結合の中に生かされるキリスト者・教会の豊かな生活・生涯の全体像の中で,パウロは異言を位置付けているのである.<復> c.Ⅰコリント14章.ここでの「異言」の性質については,外国語ではなく(14:2),神秘的な言語表現であるとの理解がなされる一方,ある人々は,14:10に基づいてそれに反対する.いずれにしても,すべての場合に解釈が必要とされる.解釈なしに異言は理解しがたい.特に教会外部の人々から,異言を巡って誤解を受けやすい(14:21‐23).ここでは,異言の不可解性を不信者のための「しるし」とし,旧約預言の成就として受け止めている(14:21.イザヤ28:11,12よりの引用).この不可解さのゆえに非難を受けることを,パウロは認めている(Ⅰコリント14:23.参照使徒2:13).「異言」と「預言」は明白に区別され,預言は理解し得るもの,教会の徳を高めるもの(Ⅰコリント14:4)とされている.パウロは,自ら異言の賜物を受けていることを認めている(14:18)が,教会の徳を高めることを重視し(14:5,12,17,26),教会の秩序の大切さを強調して,「それゆえ,私の兄弟たち.預言することを熱心に求めなさい.異言を話すことも禁じてはいけません.ただ,すべてのことを適切に,秩序をもって行ないなさい」(14:39,40)と結んでいる.<復> (4) その他の書簡.異言についての言及であるかどうか意見の分れる箇所としては,ローマ8:26,エペソ5:19,コロサイ3:16,ヘブル2:4等がある.<復> 3.異言を巡る理解の相異.<復> 異言を巡る理解としては,G・R・オズボーンが指摘するように,大別して以下の三つの立場が考えられる.これらの立場の間には,二つの論争点を巡り理解の相異がある.第1の点は,異言はすべての時代のためのものであるかどうか,第2の点は,異言は聖霊のバプテスマの必要不可欠なしるしであるかどうかである.<復> (1) 肯定的な理解.上記の二つの論争点のいずれについても肯定的に見る理解がある.その場合,バプテスマ(使徒の働き)と異言の賜物(Ⅰコリント)を区別し,前者はすべての人々に対するものであるが,後者は選ばれた人々に対するものと見る.しかしながら,後者についても,各自に開かれており,それを求めるかどうかが課題であるとされる.異言は,聖霊のバプテスマの唯一の最初の証拠であるから,その意味ではすべての人がこの賜物を求めねばならず,人の生涯におけるより霊的な力を受けるための鍵と見なされる.<復> (2) 否定的な理解.この立場は,上記の二つの論争点のいずれに対しても否定的な理解を持つ.すなわち,異言はすべての時代のためのものではなく,また,聖霊のバプテスマの必要不可欠なしるしでもないと考える.この立場に立つ代表的な理解としては,異言は使徒のメッセージを確証することを意図するしるしの賜物の一つであり,それゆえ,新約聖書のメッセージが確立した時には,もはや必要とされなくなった,との見解がある.この立場の間でも,異言(この立場からすれば,異言現象と言うべきか)に対する態度には,かなりの幅がある.<復> (3) 中間派.異言の賜物は,多くの賜物の一つであり,他の人々の徳を高めるために与えられていると見,異言の賜物に対して,求めないが禁じないとの態度をとる.異言はすべての時代のためのものと理解するが,聖霊のバプテスマの必要不可欠なしるしとは考えない.「異言を話すことも禁じてはいけません」(Ⅰコリント14:39)とともに,「みなが異言を語るでしょうか」(12:30)とのことばにも注意を払おうとする.<復> 異言について,以上のいずれの立場に立つとしても,鍵は経験や伝統からより,聖書そのものから聞くべきことが基盤である.上記のように意見の分れる異言についての理解は,慎重になす必要がある.同時に,異言についての記述が,聖書の中で終始一貫してなされている聖霊御自身についての言及の中に位置しており,聖霊御自身についてはどれほど強調しても強調しすぎることはないことは明らかである.しかも聖霊御自身についての言及・聖霊論は,創造論,キリスト論,教会論との生きたかかわりの中でなされている.それゆえ聖霊御自身についての言及を,創造論,キリスト論,教会論との有機的で雄大なかかわりと広がりの中で受け止めるべきであり,異言についての言及もその全体の文脈において理解すべきであろう.→賜物,ペンテコステ,ペンテコステ運動,カリスマ,カリスマ運動,聖霊・聖霊論,預言・預言者.<復>〔参考文献〕前田護郎『ことばと聖書』岩波書店,1963;榊原康夫『コリント人への第1の手紙講解』聖文舎,1984;ジョン・R・W・ストット『今日における聖霊の働き』いのちのことば社,1978;R・H・カルペッパー『カリスマ運動を考える—聖書的視点から』ヨルダン社,1978;ラリイ ・クリスティンソン『異言—なぜ教会のために必要か』生ける水の川社,1979;Watson, E. Millis(ed.), Speaking in Tongues, Eerdmans;Fee, Gordon D., The First Epistle to the Corinthians, Eerdmans, 1987 ; Stendahl, Krister, Paul Among Jews and Gentiles, Fortress, 1976 ; Osborne, G.R., “Tongues,” Evangelical Dictionary of Theology, pp. 1100—3, Baker, 1984.(宮村武夫)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社