《じっくり解説》科学とキリスト教とは?

科学とキリスト教とは?

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科学とキリスト教…

1.歴史的な関係.<復> 古代ヘブル人及び初代キリスト教徒は直接に科学を生み出してはいないが,次の2点において後世の近代科学の誕生に貢献することとなった.第1に,唯一の創造主なる神を礼拝し,この世界は神の被造物であって普遍的な秩序(法則)があると見なしたこと,第2に偶像崇拝を拒否し,異教的な占いや魔術を避けたこと(レビ19:26,31,申命18:10,11,Ⅱ歴代33:6,イザヤ8:19),である.<復> 近代科学が誕生したのは聖書の時代のずっと後,17世紀のヨーロッパにおいてである.もちろんそれ以前に科学の萌芽と呼べるものがなかったわけではない.例えば,古代バビロニヤにもギリシヤにも,天文学を初めとする自然学や数学はかなり高度なものが存在した.しかしそれらは神秘主義や多神教の教義と強く結び付いていた(→本辞典「天文学とキリスト教」の項).また中世ヨーロッパにも自然学と言われるものはあったが,スコラ学の影響を受け,神学化・形而上学化された自然学であった.被造物としての自然が,それ自体で探求されるに値するという近代科学の精神を可能にするような方法の出現は,人間の認識の視点が「普遍」から「個物」に移っていった中世から近代への思想の流れの中でとらえることができる.例えば,16世紀の宗教改革者J・カルヴァンは「たしかに,星の動きを調べ,その位置を定め,そのへだたりを測定し,それぞれの特性を記述するためには,技術と,また人一倍精緻な技巧が必要である.それをわきまえた上で,神の摂理が明らかになればなるほど,それによって精神は神の栄光を見るようにいよいよ高く高められるのである」(『キリスト教綱要』1:5:2,新教出版社,1962)と述べている.このようにして彼は,神の創造と摂理を明らかにしようとする人間理性の働きの一つとして自然学を位置付けるが,これは近代科学の精神につながり得る.<復> 実際,帰納法を提唱し,近代科学の方法論に大きな貢献をした17世紀の哲学者F・ベイコンは,科学を次のように意味付ける.「人間は堕落により,清浄な状態からも,被造物を治める状態からも落ちてしまった.しかしこれら失われたもののある部分はともにこの世にあって取り戻すことができる.すなわち前者は宗教と信仰によって,そして後者は芸術と科学によって」(『ノヴム・オルガヌム』).ここには神による創造・人間の堕落・キリストによる回復といった,救拯(きゅうじょう)的なピューリタンの世界観が認められる.ベイコンは次のようにも述べている.「異教徒は世界は神のかたちであり,人間は世界の縮約されたかたちであると考えていたが,しかし聖書は,けっして世界にそれが神のかたちであるなどという栄誉を与えようとはせず,ただそれが,『神のみ手のわざ』(詩篇8:3)であると認めているだけであり,また聖書が『神のかたち』(創世1:26‐27)といっているのは,ただ人間の場合だけである」(『学問の進歩』).ここには中世的なスコラ主義から解放された近代精神がはっきり見てとれる.<復> 近代科学の具体的展開は,17世紀のガリレーオ・ガリレーイやI・ニュートンらが数学を導入し,自然の観察データを定式化して理論形成をしたことをもって始まった.ニュートン力学の成立はその金字塔である.ガリレーオもニュートンも敬虔なキリスト者であり,その信仰が近代科学を可能にしたとも言えるのであるが,いったん成立してしまった近代科学は次第にその成功と相まってキリスト教的基盤から離れていき,世界観の位置まで引き上げられていった.つまり18世紀の啓蒙主義の時代に至って力学的・機械的な自然観が成立することとなる.また神学もキリスト教を擁護する意図から,逆に科学を使って神の知恵と存在を論証していこうとする,狭義の意味の自然神学を発展させていった.J・バトラーの『宗教の類比』(1736)は理神論の不完全さを暴露するための手段として,自然神学の自立を進んで承認している.この時期の自然神学の命題とは,例えば「時計は設計者の産物であり,時を告げる目的のために作られている.もし宇宙の諸部分が時計仕掛けと類似しているとすれば,やはりある目的のために設計されているに違いない」というものである.これは言わば,科学的知識を使った神存在の目的論的証明である.また神の単一性について次のような形の議論が行われた.「宇宙は,明白に一つの宇宙であるように見える.それは全体にわたって一つの重力法則によって支配されており,あらゆる場所で同じ運動法則に従っている.それゆえ神の単一性は,われわれが宇宙について知っているこの確実な知識によっていまや永遠に証明されている」.<復> このような自然神学の議論には,幾つかの問題点がある.例えば,神の設計を根拠とする論証は,自然の仕掛けと人間の手になる仕掛けとの間の類似点を前提としているが,相違点には目をつぶっている.つまり,人間には堕落によって不完全な神認識の能力しか残っていないこと,そしてそのような不完全な人間がどうして完全な神を知ることができるのか,という問は不問に付せられている.また重力法則の単一性から神の単一性を演繹することも,今日の科学が様々なタイプの力の法則を明らかにしている以上,もはや的はずれな議論である.<復> 最初は啓示としての聖書の補完物にすぎなかった自然神学は,次第に聖書そのものから離れ,あたかもそれ自身で成立するかのごとく扱われるようになった.それと同時に,人間理性の堕落ということが真剣に考慮されない風潮を生み出していった.さらに自然界からの神存在の証明が批判にさらされると,あたかもキリスト教そのものの基盤が崩れたかのように考える風潮をも生み出した.そして実際に,自然界からの神存在の証明はD・ヒュームによって徹底的に批判されたのである.ヒュームが『自然宗教に関する対話』(1779)の中で行った批判の骨子は次のようなものである.<復> (1)諸天地創造を目撃したり体験した人間は誰もいないのだから,ある神的存在がわれわれの世界を創造したという証拠はない.(2)この世には不完全なものがあり余るほどあるので,この世の創造者(あるいは創造者たち)は凡庸で,無器用,かつ,もうろくしている可能性も認められる.(3)原因はその結果と対応しており,われわれが自然の中に観察する結果は有限であるので,そこから神の無限な善性,無限な知恵,無限な力能を推論することは容認しがたい.(4)神の設計論の主唱者は,自然界に対して機械との類似性を選ぶが,植物や動物との類似性も同じようにふさわしいだろう.その場合,宇宙の原因として種子や卵を仮定することができるだろう.<復> このようなヒュームの批判は,経験論の流れに立つ自然神学の基礎を実質的には完全に破壊してしまった.そこでヒュームのような極端な形での議論を避け,もっと常識的な立場で人間が生得的に持つ認識能力を前提にしたのが,スコットランドの常識的実在論者(コモンセンスリアリスト)たちである.彼らの考え方はC・ホッジを中心とする19世紀の古プリンストン神学にも受け継がれ,現代の福音派神学の認識論にも大きな影響を与えている.<復> 一方18世紀啓蒙主義の合理的世界観は,聖書の合理的批評学の成立をも促し,次第にキリスト教を科学とは別次元の宗教的価値のみの領域に押し込めることともなった.キリスト教は道徳宗教(カント)へとおのずから制限する方向に向かい,現代のリベラルな立場の神学の誕生となる.<復> 現代神学者の中で例えばR・ブルトマンは,科学的世界観の中に生きる人々への宣教方法を扱っている.彼は,近代の科学的世界観を持つ人々には新約聖書の使信はそのまま理解できないものとして,キリスト教を神話化する.彼によれば,新約聖書の世界観はユダヤ的黙示文学とグノーシス的救済神話によって構成されているので,現代人にはとうてい受け入れがたい.そこでこれを非神話化し,信仰者の実存に常に新たに決断を迫るための使信として聖書を解釈し直していく.しかしこのようなブルトマンの非神話化論の前提となっている科学的世界観そのものが,実は20世紀後半には様々な領域で批判にさらされており,今日その問い直しが盛んに叫ばれているのである.<復> 2.福音主義の立場.<復> 科学の持つ帰納的方法論を神学の方法論として応用した人に,19世紀プリンストン神学校の組織神学者C・ホッジがいる.彼はベイコン流の自然と聖書の間の類比を使った.つまり,科学者が自然の諸事実を査定し,分類し,それらに働いている諸法則を帰納するように,神学者は聖書内の諸事実を組織化し,その諸事実を含む原則と一般的真理を確証していく,とした.このような形での客観性,中立性を標榜した神学方法論は,当時の常識的実在論の影響を受けたものであり,現代において宣教学から提起された文化脈化(コンテキスチュアリゼーション)という観点から再検討が迫られている.<復> ホッジの科学観は実証主義的であるが,実証主義そのものが現代の科学哲学によって批判にさらされている.現代では,科学は実証主義が説くように客観的に,中立に営まれるものではなく,あらかじめある理論的枠組(パラダイム)があって,そこから出発すると見られている.そしてパラダイムは前理論的な宗教的モチーフによっても左右される可能性があり,ここにキリスト教の認識論との接点が出てくる.<復> 福音主義の立場から,近代の科学的世界観というパラダイムと取り組むためには,まず何よりも宗教的モチーフとして神の創造のモチーフを回復することが必要である.そして旧新約聖書全体を通してキリスト教の世界観がどのようなものであるかを見なければならない.<復> 聖書に啓示された根本の宗教的モチーフは,超越的な神による世界の創造,人間の全的堕落,イエス・キリストによる世界大の贖罪である.つまり創造の良きものはキリストにおいて回復されるのである.ここにおいて初めて,科学が前提としている「法則」の存在論的身分が明らかになる.<復> 科学とは,法則を探求する理論的営みのことである.従って科学をキリスト教的に意味付けするためには「法則」と「理論的営み」の両方について,聖書的モチーフに基づいた実在理解がどう与えられるかを見なければならない.<復> 聖書は神による万物の創造を啓示として与えているが,法則はこれら被造物に与えられた秩序である.もちろん日常生活においてこれらの法則は直観的に意識されているだけで,理論的に顕在化されていない.日常生活の中では実在は直観的に一挙に把握されているが,人間の精神の働きはそこからさらに理論的な把握へと進められていく.神によって与えられた法則は,厳密に成り立つ自然法則と規範的な自然法とに分れる.自然法則の人間の側の理論的認識と顕在化のプロセスが自然科学であり,自然法の顕在化のプロセスは社会科学である.<復> このような実在の法則性への信頼なしに,すなわち超越的な創造主なる神の啓示への信頼なしに科学方法論の基礎付けを十分に与えることはできない.実際,現代科学哲学の認識原理として与えられる科学的実在論(科学理論は文字通りにとられるべきで,理論の対象が観察されなくても理論はそのまま真実の実在を表現している,とする立場)や反実在論(直接に観察可能な量のみが実在であり,科学理論は実在そのものを表現してはいない,とする立場)はこの点において,法則の超越的性格を十分に基礎付けることができていない.<復> 近代の実在理解では一次性質(質量・大きさ・形・数等)と二次性質(色・香り・味わい・感触等)を分け,一次性質のみを真実在と見なし,近代科学では二次性質を捨象した.しかし聖書は決してそのような区別をしていない.自然を神格化することを禁じ,呪術の対象にすることを戒めているが,同時に,天体も海山も動植物も人間も,皆等しく被造物であり人間の仲間であると見ている.聖書の自然把握は大変豊かであり,自然の擬人化,人間の擬自然化すら行われている(詩篇19:1‐6,雅歌2:1,マタイ6:26‐29,ヨハネ15:1,2).人間を神の像として特別な被造物と見なすと同時に,自然と人間の間にある共通性を理解することは,聖書に固有な実在理解として注目されねばならない.環境破壊の問題や,人間を機械の部品のように扱う生命操作の問題が大きな課題となってきた現代において,われわれは聖書の持つ豊かな実在理解と,それを可能ならしめている創造主なる神の与える規範性とを回復していく必要があるのである.→進化論,理性と信仰,天文学とキリスト教,自然神学,創造の教理.<復>〔参考文献〕稲垣久和『進化論を斬る』いのちのことば社,1981;稲垣久和「創造論とパラダイム論」(「福音主義神学」第20号所収)日本福音主義神学会,1989;R・ホーイカース他『OU科学史』1—3巻,創元社,1983.(稲垣久和)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社