《じっくり解説》キリスト教倫理とは?

キリスト教倫理とは?

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キリスト教倫理…

[英語]Christian Ethics.イエス・キリストの福音によって罪から解放された人間に付与されている道徳的義務の総称.聖書に記されている究極の原理から導き出された様々のレベルにおける倫理的規範に基づく,行為の善悪の規定の総体.<復> あらゆる倫理理論は,各自の世界観や人間観を支える根本原理から得られた倫理的規範に基づいて,種々の道徳的義務を確立し,様々な形で行為の善悪を規定している.キリスト教倫理は預言者たちやイエス・キリストを通して語られた啓示の光,誤りない神のことばである聖書を通して認識された根本原理から倫理的規範を引き出し,それに従って人間の道徳義務を確立し,行為の善悪を規定するものである.<復> キリスト教と倫理は不可分の関係にあるが,キリスト教は福音であって倫理ではないという主張に示されるように,この両者はしばしば相対立するものと見なされてきた.福音と倫理を対立させる一方の見解は律法主義であり,もう一方の見解は放埒主義である.キリスト教倫理がこの二つの見解のいずれかに傾く危険性は,すでに新約聖書のパウロの手紙の中にも指摘されている.律法主義は,倫理を福音にあずかるための前提,予備的条件と見なし,神の前における完全な義を獲得するための不可欠の手段と考えており,信仰による義認を否定する.放埒主義は,福音によって与えられた自由をあらゆる倫理的規範からの解放という無制約的自由へと歪曲する.両者は全く相反するものでありながら,人間が神の前に自分の力によって自らを正当化しようとする同一の根源から発している.福音は真の道徳的義務への解放をその内に含んでいる.従ってキリスト教倫理は福音としてのキリスト教の不可欠の構成要素である.<復> 個々の人間に向けられた神の道徳的要求は,神の個別的な意志であり,決して一般化され得ない.このような神の道徳的要求をキリスト教倫理と名付けるならば,各人によって認識され,かつ服従において成就される神の個別的な意志を意味することになろう.そしてキリスト教倫理の認識は,いかにして私は自分に対する神の御心を知ることができるのかという実践的な課題にゆだねられる.<復> 1.神の個別的な意志は,すべての信仰者,ひいてはすべての人間に対する神の一般的な意志と無関係ではない.神の一般的な意志は神の個別的な意志を知るための不可欠の手段である.一般にキリスト教倫理と言われるものは,神の個別的な意志を知るための恵みの手段としての神の一般的な意志を指している.<復> 神の個別的な意志を認識するための手段としての倫理的規範のうちで,最も具体的な助けを与えるものが道徳規範である.それは様々に種類分けされた行為に関する神の一般的な意志を表示する.道徳規範は,神の個別的な意志に服従しようとして,可能な多くの選択肢を限定していくための不可欠の手段である.すなわち,行為の選択肢の中からあらかじめ排除される可能性を明示し,その時々の状況において神の個別的な意志になり得る可能性を具体的に特定する.<復> (1) 道徳規範は十戒(十のことば)あるいはイエス・キリストやパウロの道徳的勧告のような形で,聖書の中に数多く記されている.けれども聖書の倫理的テキストのすべてを道徳規範として受け取るべきではない.また聖書の中に道徳規範が包括的に秩序付けられて提示されているわけではない.そこから,ある一定の原理に従って聖書の道徳規範を体系化しようとするキリスト教倫理学の課題が生れる.この困難な企図を遂行するために,すでに存在している哲学的倫理理論の体系から体系化の原理を借用する試みがしばしばなされた.キリストの道徳規範を体系化する唯一絶対の原理が存在するかどうかは疑問であるが,神,十戒,創造の秩序の諸領域,神の国,教会論など聖書から取られた原理に基づいて道徳規範の体系化がなされるべきであり,事実そのような道徳規範体系が数多く存在する.<復> (2) 聖書の道徳規範と現代のこの世の多くの道徳規範とを対比した場合,聖書の道徳規範に普遍妥当性という性質が認められる.道徳規範の普遍性の形式は,道徳規範を支える神が定めた秩序の中にある規則性に支えられている.この秩序が人間の意志によって定められた制度的秩序と見なされるならば,この秩序は歴史的可変性を免れないことになる.従ってこの秩序の中に存在する規則性は絶えず変化し,道徳規範は普遍妥当性を持ち得ない.<復> 聖書の道徳規範は社会・文化・歴史・個人・状況等に依存する相対的なものではなく,無条件にすべての人間を拘束すべきものである.聖書の道徳規範は永遠不変であり,すべての人間にとって唯一の絶対的規範である.道徳規範の普遍妥当性は神の創造に基づく人間の本性とその関係的秩序に根差している.各自の独自で自由な信仰の歩みも,神によって定められた関係的秩序の中で営まれる.自由に選択された行為がこの秩序の中に存在する恒常的な規則性と触れ合う場合には,この行為はこの規則性と一致しなければならない.それゆえ人間は聖書の道徳規範に無条件に服従する義務を与えられている.<復> 道徳規範が普遍妥当的であるということは,教会の中のあらゆる規則が普遍妥当的でなければならないことを意味するものではない.教会はそれぞれの時代に,必ずしも普遍妥当性を持たない規則をも定めなければならない.しかしそのような規則が道徳規範と混同されるならば,道徳規範全体に対する不信感を助長し,信仰者の生き方も社会的現実に対する適合性を欠くことになる.<復> (3) 道徳規範が人間の本性とその関係的秩序に根差しているならば,聖書の道徳規範とその他の道徳規範との間に,ある範囲内において類似点が存在することも了解できる.堕落した人間は創造の秩序の規則性を正しく認識する十分な能力を欠いているにしても,やはりこの秩序の中で生きており,それと全く相反する行為の形態を取ることはできない.世界中至る所に見出される「黄金律」から容易に引き出される自分自身や他人に対する義務についての道徳規範に関しては,両者の間に共通の内容を認めることができる.<復> 2.道徳規範は行為の善悪を普遍性の形式において規定しているが,あらゆる種類の行為の善悪が普遍性の形式によって規定されるわけではない.人間は道徳規範の普遍性の形式によっては明示されない行為の自由な選択に常に直面している.このような状況における神の個別的な意志を認識するための助けを与えるものが,道徳的性質に関する倫理的規範である.このような倫理的規範は,道徳規範によっては対応できない行為に対する指針を提供している.行為者の中に形成される道徳的性質は一般に徳と呼ばれている.本来,哲学的倫理学の用語である徳ということばは,旧新約聖書においてほとんど見出すことができないが,キリスト教倫理においても使用されている.<復> 聖書では,「神は私に何をすることを求めておられるのか」という問と,「神は私がどのような人になることを求めておられるのか」という問とは一つに結び付いている.善き行為は善き性質の反映であり,善き性質は善き行為を通して明らかにされる.道徳的性質が道徳的行為の反復によって形成されると考えるならば,ルターが非難したように,道徳的性質は人間の自己義認の手段になる.聖書によるならば,本来の道徳的性質は人間のわざによって形成されるのではなく,あくまでも神の恵みによって与えられるものである.真の道徳的性質はキリストによって形造られるのであり,また聖霊の実である.「御霊の実は,愛,喜び,平安,寛容,親切,善意,誠実,柔和,自制です」(ガラテヤ5:22,23).しかしキリストにあって聖霊により形成される道徳的性質それ自体が,イエス・キリストに対する信仰による,神の前における完全な義を獲得するための手段となることはあり得ない.道徳的性質に関する倫理的規範は,行為の価値評価の内面的次元を指し示す.行為は道徳規範に外面的に一致するというだけではなく,その行為を遂行する人間の道徳的性質から生れてこなければならない.<復> 旧新約聖書の至る所に,道徳的な性質としての諸々の徳(コロサイ3:12)と不道徳な性質としての諸々の悪徳(マタイ15:18,19,ローマ1:29‐31)とが記されている.道徳規範と同じように,諸々の徳も聖書の中に体系的に列挙されているわけではない.様々な徳と神の性質やキリストの品性との関係,また主要な徳と派生的な徳との関係をどのように厳密に規定するかという問題を考察するのは,キリスト教の徳論の課題である.同様に,悪徳はどのような意味で聖書における徳と対立するのか,主要な悪徳と派生的な悪徳との関係をどのように規定するのかという問題もキリスト教の徳論の課題の中に含まれる.<復> 3.行為を善と悪という全く正反対の価値へと分化させる規準を規定する原理は,道徳原則と呼ばれる.聖書の中の最も包括的で究極的な道徳原則は愛の戒めである.愛の戒め以外にも道徳原則は存在する.正義の原則は個人倫理と社会倫理という倫理の対象領域の区別に対応して,個々の人間に対する愛が不特定多数の人間や社会制度へのかかわりへと必然的に拡大していくことから生ずる原則であり,愛の道徳原則に比べるならば,二次的,派生的な原則である.<復> 愛の道徳原則は神への愛の戒めと隣人愛の戒めに分割される.イエス・キリストは「心を尽くし,精神を尽くし,力を尽くして,あなたの神,主を愛しなさい」という申命記のことば(6:5)によって,神への愛の戒めを定式化した.この定式は,人間が唯一のまことの神に応答するように定められており,(自分の内面のすべてを尽し,またあらゆる行為を通して)この神のために,またこの神に向かって生きるべきことを命じている.また新約聖書においては,神への愛の戒めとキリストに対する愛の戒めとの間に明確な区別を設けていない.<復> さらにイエス・キリストは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」というレビ記のことば(19:18)によって,隣人愛の戒めを定式化した.この定式は自己愛という罪の現実を克服して,自分に与えられている隣人の様々の具体的必要に応えるべきことを命じている.<復> 神への愛は隣人愛と不可分の関係にありながら,隣人愛に優先する根源性を持っている.しかし隣人愛が神への愛に還元されることはない.両者は相互に独立を保ちながら,相互に関連している.隣人愛は神への愛から生れるが,神への愛は隣人愛の中に自らを確証し,自らを具体化する.<復> 愛の原則は個別的な行為,道徳規範,徳を統合する原理である.愛の原則は神を愛することと隣人を愛することを,行為の直接的,間接的意図とするように,個々の行為を方向付ける.また食物に関するパウロの勧告から明らかなように,道徳規範によって指令されない自分の行為の選択は,愛に基づいてなされなければならない(ローマ14:15).<復> 愛の原則は道徳規範と対立するものではない.愛の原則は道徳規範の内実を規定する.道徳規範は神への愛と隣人愛の具体化として,その内実が特定される.愛の戒めは道徳規範を根底から支え,道徳規範相互の内容の上での整合性を保証している.この世の倫理思想の道徳規範と同じことを命じていると思われる聖書の道徳規範も,愛の原則によって支えられることによって,その内実が異なるものになる.<復> また愛は徳の内実も規定する(Ⅰコリント13章).諸々の徳は自分の人格的完成という視点からではなく,神や隣人という人格的他者に対する方向付けという視点から規定されている.また愛は諸々の徳を統一する(コロサイ3:14).熟慮,識別力,知識などの知的徳と同情心,慈愛,柔和,寛容などの情動的徳は愛によって一つに統一されている.<復> 4.愛の道徳原則というキリスト教倫理の究極の倫理的規範を支えるものは,イエス・キリストを通して明らかにされた神の性質と神の救いのわざである.キリスト教の神の性質は神によって規定されている.イエス・キリストは愛の原則を神の国の支配の現実によって基礎付けている.パウロも人間の救いを実現したイエス・キリストの人格とわざによって,愛の原則を根拠付けている.イエス・キリストによる救いの中に,神の性質の究極の姿が啓示されており,また,それが愛であるならば,人間は愛よりも高い道徳原則を持つことはできない.イエス・キリストにある神の愛は,神の性質である愛を,神と隣人に対して,その行為において反映させることを要求している.それゆえに聖書の愛の原則は,神や救いなどのキリスト教の教理を根底として,初めて成立するものである.→労働の倫理,生命倫理,性倫理,社会倫理,状況倫理,決疑論,善,悪.<復>〔参考文献〕C・F・ヴィスロフ『キリスト教倫理』いのちのことば社,1980;J・マーレイ『キリスト者の倫理』聖書図書刊行会,1969.(多井一雄)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社