《じっくり解説》選びとは?

選びとは?

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選び…

聖書は神の主権的な選びと予定のいろいろの面を表すために豊かな語彙を用いている.選びには五つのタイプがあるが,これは相互に区別する必要がある.(1)「選ばれた御使いたち」については1回だけ言及されている(Ⅰテモテ5:21.参照Ⅰコリント6:3,Ⅱペテロ2:4,ユダ6節).(2)奉仕や職務への選びは,神がダビデをイスラエルの王として主権的に選ばれ(Ⅰサムエル16:7‐12),また主イエスが使徒たちを選ばれた例(ルカ6:13,ヨハネ6:70,15:16,使徒9:15)で明らかである.(3)主がアブラハムの子孫を選んで神の民イスラエルとされたことは聖書に繰り返し出てくる主題である(申命4:37,7:6,7,10:15,Ⅰ列王3:8,イザヤ44:1,2,45:4,65:9,15,22,アモス3:2,使徒13:17,ローマ9:1‐5).イスラエルの選びは神の主権的選びに始まり,契約の愛を表し,イエス・キリストにおいて頂点に達する救済史の目標に役立つ.(4)メシヤの選びは,選びの第4番目の型である.イザヤは主のしもべを「わたしが選んだ者」と呼んでいる(イザヤ42:1.参照マタイ12:18).共観福音書ではルカだけが主イエスを選ばれた者(ルカ9:35,23:35)と記している.ペテロは主を選ばれた石(Ⅰペテロ2:4,6)と呼んでいるが,これはギリシヤ語訳旧約聖書のイザヤ28:16からの引用である.これらの言及はキリストのユニークな仲保者としての職務と彼に対する父の心の喜びを示している.(5)最後の型は救いへの選びである.<復> 新約聖書で最も一般的に選びに言及されているのはイエス・キリストにおいて,ある人々が神によって永遠に選ばれているということである.この主題はエペソ1:3‐11やローマ8:28‐11:36において包括的に取り扱われている.改革派予定論の優れた弁護者であったジャン・カルヴァンは選びの全教理がエペソ1章に要約されているのを見た.すべての改革派信仰告白に神の選びの教理が述べられているが,アルミニウス派との論争から生れたドルト信条は最も詳細である.選びは神の永遠の聖定であり,救拯論的役割を持っている.「ある者たちが,時いたって,神から信仰の賜物を受け,他の者たちはそれを受けないという事実は,神の永遠の聖定からくる」(1:6).従って選びは次のように定義される.「選びは神の不変のご計画であって,それによって神は,世の基がおかれる前に,最初の罪のない状態から自分の違反によって堕落して罪と滅びに陥った全人類の中から,ご自身のみ旨の全く自由によしとされるところに従い,ただ恵みだけから,ある定まった数の人々を,彼らが他の人たちよりもより良いからでもよりふさわしいからでもなく,同じ悲惨の中にあるのに,キリストにあって救いへと選ばれたのである」(1:7).<復> 二重予定は典型的な改革派教理である.ドルト信条は選びと遺棄とを区別する.それは,「選びのこの永遠で無償の恵みが,聖書によって,とりわけ最も鮮明に照らし出され,私たちに一層明らかにされるのは,次のような聖書の明確な証言においてである.聖書の証言によれば,すべての人が選ばれたわけではなく,ある人たちは選ばれず神の永遠の選びにおいて見過されたのである.この人たちを,神は,全く自由で最も正しく責められることなく変ることのないみ旨のよしとするところに従い,彼ら自身の罪過によって陥った普遍的悲惨の中に遺棄することを定められた.すなわち,神は,彼らに救いの信仰と悔い改めの恵みを与えず,ご自身の正しい裁きの下で彼らが自分の道をたどるままにしておき,最後には,彼らの不信仰のためばかりでなく,彼らの他のすべての罪のためにも彼らを断罪し永遠に罰するように定められたのである.このように定められた目的は神の義が宣言されるためであった.これが遺棄の聖定である」(1:15).このように予定は選びと遺棄を含むのであるが,この遺棄には主権的な見過しと正しい断罪の両面がある.<復> 選びには注意すべき六つのおもな特色がある.<復> (1) 選びは神の主権的で,永遠の聖定である.選民は,みこころにより御計画のままをみな実現される方の目的に従ってあらかじめ定められていたのである(エペソ1:11).神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストにあって選ばれた(同1:4).神の主権的聖定は勝手気ままなものでなく,神は,ただみこころのままに,愛をもってあらかじめ定めておられたのである(同1:5).このような視座は上に引用したドルト信条の定義にもよく反映している.<復> (2) 人類は堕落しているということが,神の選びの聖定の前提である.選びは神の恵み深い救済計画を含んでいる.選びは人間のわざや神が人間のわざを予知したことに基づくものではない(ローマ9:11).選民は御前で堅く,傷のない者になるようにと選ばれ,イエス・キリストによって御自分の子にしようと神に予定されたのである(エペソ1:4,5).ここから選民は,この御子のうちにあって,御子の血による贖い,すなわち罪の赦しを受けるに至るのである(同1:7).ローマ人への手紙においても同じ見方が見られる.なぜなら,神は,あらかじめ知っておられる人々を御子のかたちと同じ姿になるように予定されたからである(ローマ8:29).選びの前提は人類が堕落しているということである.ここから神の予定は召命,義認,栄光化を伴う(同8:30).予定の対象が堕落した人間であるというこの前提は堕落後予定説の見方で,これがドルト信条の見解である(1:6,7,15).<復> (3) 選びはキリストにおける選びである.選びは罪と咎とからの救いと救いの恵みの賜物を受けることを必然的結果として伴う.キリストにおける選びは,エペソ1:4,5とローマ8:29よりすでに引用されたことばから明らかである.キリストは選びの聖定を実現する単なる手段ではない.選びは,キリストにおける,またキリストを通しての選びである.この点はドルト信条(1:7)によく表れている.すなわち,「神は…ある定まった数の人々を…キリストにあって救いへと選ばれたのである.このキリストを,神はまた永遠から,すべての選民の仲保者にして頭また彼らの救いの基たるべく任命された.さらに,選ばれた者たちがキリストによって救われるために,神は彼らをキリストに委ね,み言葉とみ霊によってキリストとの交わりに有効に召命し,引き寄せることをも聖定された」.このように神の選びはキリストにおいてである.キリストは選びの基でありまた救いの基である.カルヴァンはキリストをわれわれの選びの鏡であると言う(『キリスト教綱要』3:24:5).<復> (4) 選びは選ばれた者たちの救いとその目的のための手段をも含む.すでにこのことはキリストにおける選びについて繰り返し言及されたところから明らかであるが,さらに具体的に説明される必要がある.神は選民を御前に聖く,傷のない者,イエス・キリストによって御自分の子にしようと選ばれた(エペソ1:4,5).選ばれた者たちは,神があらかじめ知っておられる人々である.「神はあらかじめ定めた人々を…召し…義と認め…栄光をお与えになる」(ローマ8:29,30).神は選民を,御霊による聖めと真理による信仰によって救うようにと選ばれた(Ⅱテサロニケ2:13).ここから福音の説教が神の選びの実現のために不可欠である(ローマ10:14‐17,使徒18:9‐11).選民の救いは時間の以前に聖定的起源を持ち,手段を用いて歴史の中に実現され,永遠の栄光において頂点に達する.このことはドルト信条の中にそのまま繰り返されている(1:7).すなわち,「神は,選ばれた者たちに,キリストを信ずる真の信仰を賜物として与え,彼らを義とし,聖化し,み子との交りの中に彼らを力強く保護した後,ついに栄光化するように定められた.これは,神のあわれみが顕され,神の輝かしい恵みの豊かさがほめたたえられるためである」.選びのこの特色は,もし人が選ばれていれば,その人が信じようが信じまいが救われるというような反対論に対する反論になる.これはまた選びは人を放縦な生活に導くという反対論も排する.不信仰や不注意な生活は聖書的な選びの教理と矛盾するからである.<復> (5) 選びの対象は特定の個人である.パウロは選びに関連して「私たちを」とか「私たちは」ということばを繰り返し用いている(エペソ1:4,5,11).また神は,あらかじめ知っておられる「人々を」,あらかじめ定めた「人々を」(ローマ8:29,30)と言う.ローマ9章では,救いへの個人的な選びがイスラエルの選びの内に働いていることを示している.イスラエルから出る者がみな,イスラエルなのではなく(同9:6‐8),また,神の選びの計画に従って,イサクとイシュマエル,ヤコブとエサウは区別されたのである,とパウロは言う(同9:10‐13).このことはまたヨハネの福音書の表現が意味しているところである(ヨハネ6:37‐40,10:14‐16,26‐29,17:2,6,9,24).それでドルト信条は,「神は…ある定まった数の人々を…選ばれた」(1:7)と述べ,「聖書の証言によれば,すべての人が選ばれたわけではなく,ある人たちは選ばれず神の永遠の選びにおいて見過されたのである」(1:15)と言う.ウェストミンスター信仰告白はこのことをもっと明確に表現している.「このように予定されたり,あらかじめ定められているこれらのみ使や人間は,個別的また不変的に指定されており,またその数もきわめて確実で限定されているので,増し加えることも,減らされることもできない」(3:4).このような選びの教理は聖書的教理であるとともに,信仰者にとって慰めと確信を与える(ローマ8:31‐39).この選びの自覚と確信は信仰者を謙遜にし熱心にし豊かに慰めるのであって,信仰生活に怠惰になったり,肉的な安心感に陥ることはない.<復> (6) 最後に,選びの究極的目標は神の栄光と賛美である.救いへの選びは,選ばれた者に特権,祝福,確かさ,慰めを与える.と同時に聖書は一切は「恵みの栄光が,ほめたたえられるためである」(エペソ1:6)ということを明言している.選民は「神の栄光をほめたたえる者となるため」(同1:12)に選ばれ,予定されたのである.神の御計画の目標は「時がついに満ちて,この時のためのみこころが実行に移され,天にあるものも地にあるものも,いっさいのものが,キリストにあって一つに集められること」(エペソ1:10.参照Ⅰペテロ1:1,2:9,マタイ13:27‐30,24:31)である.パウロは選びについての長い議論を終るに当って頌栄をもって結論としている(ローマ11:33‐36).この賛美はまた改革派諸信仰告白の中にこだましている.ドルト信条は,これらすべてのことが聖定されたのは,「神のあわれみが顕され,神の輝かしい恵みの豊かさがほめたたえられるためである」(1:7)と選びの聖定の目的を述べている.またウェストミンスター信仰告白は,選びの聖定の目的を「すべては神の栄光ある恵みの賛美に至らせるためである」(3:5)と述べ,最後に「予定というこの高度に神秘的な教理は…神への賛美と崇敬と称賛の,また謙遜と熱心と豊かな慰めの材料を,すべて真実に福音に従うものたちに提供するであろう」(3:8)と言って神の永遠の聖定と予定の教理を結んでいる.<復> 選びについて重要な問題はわれわれがいかにして自分の選びを確信するか,という問題である.これについてブリンガーは第2スイス信条の第10章「神の予定と聖徒の選びについて」の中で次のように教える.「われわれは選ばれているかどうかということと,神が永遠の始めに何を定めたもうたかを,キリスト以外に求める人々に同意しないのである.われわれは福音の宣教を聞いて信じ疑うことなく,キリストにあって選ばれていることを確信せねばならぬ.…キリストは鏡であり,われわれはキリストによってわれわれの予定を考える.もしわれわれが,キリストと共に交りを持ち,真の信仰によってキリストがわれわれのものとされ,またわれわれがキリストのものとなるならば,われわれは生命の書に記されていることを確信し証しすることができるのである」.なおカルヴァンの『キリスト教綱要』3:24:5を参照されたい.→予知・予定論,救い,決定論.<復>〔参考文献〕F・H・クルースター『カルヴァンの予定論』聖恵授産所出版部,1984;Berkouwer, G. C., Divine Election, Eerdmans, 1960 ; Jewett, P. K., Election and Predestination, Eerdmans, 1985.(矢内昭二)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社