《じっくり解説》経済とキリスト教とは?

経済とキリスト教とは?

経済とキリスト教…

1.聖書における経済.<復> 経済に関して,「人はパンだけで生きるのではなく,神の口から出る一つ一つのことばによる」「あなたがたは,神にも仕え,また富にも仕えるということはできません」(マタイ4:4,6:24)というみことばが有名である.他方で,「落ち着いた生活をすることを志し,自分の仕事に身を入れ,自分の手で働きなさい」(Ⅰテサロニケ4:11)というパウロの教えがある.それゆえ,神に仕えることを第一にした上で,仕事に励むということが聖書の基本的な立場であると考えられる.<復> 2.歴史における教会と経済.<復> 初代教会は迫害と殉教の中にあったが,コンスタンティーヌス体制後のカトリック教会は国家宗教化しその領地も拡大していった.同時に修道院の発展によって開拓地も拡大していく.修道院の経済力,道徳・倫理・文化面での影響が全中世に及んだ.そして近世を迎える.近代になると世俗君主が商工市民階級に支えられながら民族主義国家を形成するようになる.君主は自然法によって自らの主権性を根拠づけていったが,市民階級もまた自然法と世俗の職業への召命概念([ラテン語]Vocatio,[英語]Calling,[ドイツ語]Beruf)の適用によって神学的に根拠づけることになる.人間が神の似姿に創造されたということと,神が創造した世界で職業を通して神の栄光を求め神の意志に従うということが相まって,「働くこと」「労働すること」に「価値」が認められるようになった.この「価値」概念こそ封建的身分秩序を支えていた「徳」という概念に対抗する商工市民階級の理念的武器であった.「労働価値」概念によって市民階級が封建階層にかわって社会全体の担い手であると主張することができたのであった.「生命・自由・財産」が人間の不可侵の「所有権」であると主張することができたのも,「財産」(Property)が「人間に固有なもの」(Proper‐ty)として位置付けられたからこそであった.市民階級にとっては政府や国家が必要なのはこの所有権を保護するためであり,「契約」も財産を保護するのに必要であった.<復> さて近代の「召命」概念は「二王国論」と「万人祭司」主義から出発したが,さらに「選びの予定」の神学と結び付くことによってプロテスタント諸国に固有な職業理念を生み出すことになった.人間が救われるかどうかは神の選びの意志によるのであって,神の主権性の前では人間は無である.人間は「信仰」によって神に選ばれているかどうかを→判断/・・←し→確証/・・←を得る以外にない.そして「召命」観によって選びの予定と信仰的確証が結び付けられ,「召命」観によって職業が遂行されるようになったのである.ここから世俗の職業が客観的法則性と主観的実存性の統合される場として理解されるようになった.<復> 3.プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神.<復> このようにして世俗の職業は「世俗」の職業でありながら超世俗的なエートス(倫理)に従って営まれることになる.規則と規律が極限まで追究される.合理的に計画され実行される.すべてのプロジェクト(Project)が神のプロジェクトとして,全存在を賭けて遂行されるようになる.<復> その結果,それが経済活動であれば利益すなわち〈利潤〉が与えられるが,その利潤は快楽のために消費されることは許されない.神の意志に従う信仰者の生活とエートスは快楽主義的ではなくむしろ禁欲主義的である.生活そのものが世俗内献身の道であるから,得られた利潤は文化目的に使用しないで,次のプロジェクトのために使用されることになる.利潤は資本として貯蓄され蓄積されて,次に→投資/・・←に向けられる.このようにして,血液循環に相当する近代に固有な経済循環過程が形成されるようになる.そして経済循環が同時に価値法則化の過程になる.<復> 生活のすべてが経済循環=価値法則化のために使用されるようになる.時間が業績と結び付けられ,貨幣で評価されるようになり,人生が金(かね)で判定されるようになる.「時は金なり」という言葉が金言になる.勤勉と節約が美徳の核となる.仕事とはBusiness(忙しいこと),Industry(勤勉)であるということになり,そのIndustry(勤勉)がIndustry(工業・産業)として定義されることになる.資本蓄積と投資が勤勉と節約(貯蓄)によって保証されることになって資本主義のエンジンがフルに回転することになる.<復> 選びの予定の神学が万物の予定調和という理神論に座を譲り,さらに自然法が力学的法則概念になることを通して近代科学主義が確立することになる.宗教的禁欲主義は自然主義的快楽主義にかわり,功利主義,唯物主義が時代精神になる.<復> 4.企業主義と市場主義.<復> 中世以来の〈普遍〉論争,諸物の前に普遍が存在するのか,普遍なるものは一切現実性を持たず,後から現実に存在する個物から得られる単なる抽象概念にすぎないのかという論争が近代の論理学を発展させ,近代的〈関数〉概念が中世の実体概念にかわって中心を占めるようになった.それとともに力学的モデル,力学的アナロジーが近代の全学問の方法を規定することになる.<復> 経済世界も作用—反作用という力学的アナロジーによって「市場」が根拠づけられ,需要—供給の均衡によって経済空間と経済時間の予定調和が根拠づけられることになる.経済主体の貸借関係,損益関係すべてが市場原理に結び付けられるようになる.<復> それだけでなく,近代的生産様式もまた市場原理に結び付けられる.生産様式を規定する→価値/・・←計算が市場原理を支える→価格/・・←計算に結び合される.近代生産は法的に自由な人格を労働力として雇用し,資本を生産手段として,自然を資源・エネルギー化して商品を生産する.この関係は生産関数として表現される.商品(生産物)=F(資本,労働力,資源・エネルギー).この生産関数が損益計算に組み込まれる時に,収益—費用関係が,利潤=収益−費用として成立することになる.<復> 経済主体が信仰的召命によって生産活動を営む時,利潤とは単なる結果現象にすぎないものである.神の福祉,公共善を最大にすることが目的であって,利潤は収益—費用計算を正しくするための,また貯蓄したものを投資するための計算手段として必要なものであるにすぎない.公共善(福祉)=収益−費用=利潤である.<復> しかし,経済主体が利潤を自己目的とする「企業家」entrepreneurになる時,単なる結果現象にすぎないはずの利潤が体系全体を動かす目的原因となって,利潤=収益−費用という近代的利潤原理が成立することになる.<復> しかもこの利潤原理に無限原理が結び付けられるようになる.〈more and more〉が原理に高められ,利潤最大化(極大化)追求が経済の中心原理に高められる.<復> 利潤↑=収益↑−↓費用.利潤を最大化しようとすると収益を高めるか費用を低めるかする以外にない.収益は生産物の数量と単位価格の積として,費用は資本・労働力・資源コストとして現れるが,利潤を最大にしようとすればするほど収益と費用の乖離(かいり)も大きくなる.<復> 一方では大規模生産様式下での大量生産—大量流通—大量消費経済の出現である.それに伴う巨大な商品集合世界,人工的技術文明が運命となる.他方では自然の資源・エネルギーへの変換と人間存在の労働力・技術力への変換が生じ,自然は人間の欲望手段にされ,その人間は商品生産の手段に格下げされ,使い捨てられる機械の部品にされる.自然の解体と人間疎外が無限に進行することになる.家庭は商品使用による欲求充足の場になり,国家も租税国家として大衆の欲求充足のための政治的経営体に格下げされるようになる.さらには地球それ自体が資源・エネルギーを企業に供給する基地にされ,生産物商品を販売する市場にされる.そして,ついには近代科学が開発した核エネルギーが商品生産に使用されることにより,生産力は破壊力に転化し,地球を破滅させるようになる.生殖欲と科学技術力によって,小さな惑星にとっては過剰に繁殖した人口の食糧を生産するために遺伝子工学が発達し,遺伝子操作による最適種創出を試みるようになって,地球それ自体を変えるようになる.<復> 5.国際秩序政策.<復> 17世紀から始まった「近代」という時代は第1次世界大戦で終焉することになった.そして大恐慌,第2次世界大戦を経て新しい国際秩序が形成されるようになった.第1次世界大戦後,国際秩序を再建するために国際連盟が結成され,第2次世界大戦後の国際連合に引き継がれた.それとともに,国際通貨基金や自由・多角・無差別貿易を原則とする通商協定が結成されることになった.<復> しかし国際連合は大国のエゴで十分に機能しているとは言えないのである.さらに資本主義と社会主義の対立,先進工業諸国と低発展諸国家群間の南北対立等が国際秩序に種々な問題を引き起している.21世紀にはこれら諸対立を超えた国際平和秩序を形成することがより重要となろう.正義と公正の国際秩序が必要になっている.そのために大国のエゴをコントロールすることが求められる.<復> それとともに企業主義,利潤第一主義,more and more主義が克服される必要がある.もともと近世以前経済は「共同体」の中に埋め込まれていた.それが近代になって自律したのである.しかもその自律が絶対化し,有限なものが無限化し,手段が目的化し,その結果,経済の意味と根拠を失うことになってしまったのである.それゆえ,経済を共同体に埋め込み直すことが必要になってきている.具体的に言うと,企業を自然の生態系と調和させること,企業を人格共同体としての生活共同体に従属させることが必要である.<復> そのためにまず放棄されなければならないのが利潤無限化主義である.無限化が放棄され,宇宙船地球号が閉じられた有限の生態系であるという自覚が地球学の第一原理にならなければならない.Small is Beautifulというのが地球の基本理念にならねばならない.そして,利潤が公共善や福祉の後にくるようにしなければならない.利潤が自己目的であることをやめ,計算手段に制限されなければならない.その上で機能性・生産性も確保されるようにしなければならない.<復> 6.召命と人格.<復> このようにして,近代経済の根拠が根源的にとらえ直されねばならなくなってきた.経済と社会の根底に共同体と人格がこなければならないということが明らかになってきている.近代以前の「共同体」はなぜ解体せざるを得なかったのであろうか.近代以前の「共同体」には「自由」がなかった.近代世界が第一原理を「自由」に求めたのは,近代以前の「共同体」に対する反省からであった.しかし,近代の「自由」概念には「正義」や「公正」が欠けていた.これが社会主義を引き起す原因となった.ところが社会主義には反対に「自由」が欠けていた.このようにして,今日,自由と正義をどう調和させるかということが中心課題になってきた.真の意味での「共同体」とは自由と正義が同時に実現している場のことである.<復> しかし自由と正義は一般的には矛盾した関係にある.この矛盾関係が相補的関係として統合されるのは「人格」の次元においてのみである.キリスト教神学は「人格」を神の三位一体の神格性に対応させて根拠づけた.「人格」が人格とされるのは神格性との対応においてである.「人格」は「個体」主義と異なって関係性・次元性を重視し,「集団」主義,「階級主義」と異なって人格の代替・還元不可能,その固有名詞性を重視する.この意味で「人格」は「人格共同性」であり,「共同体」は「共同人格性」である.「和」と「分」を基本原理とする日本型共同体に欠けているのが,この「人格」概念である.この「人格」概念からする時,日本の明治以来の近代化,富国強兵政策による高度産業国家の建設と物質的豊かさの達成にもかかわらず,依然として真の共同体ではなく,疎外された物神崇拝体系でしかないことを知るのである.そして,その矛盾に無知であるという意味で罪の支配下にあるのである.<復> 世俗の職業に召命概念が適用された時から近代世界が始まった.近代の終焉期を迎えて,新たな召命概念が求められている.聖職階級それ自体に召命の客観的根拠がないように,世俗の職業それ自体にも客観的召命の根拠はない.真の召命は,自己神化に陥る必然性を持つこの世界の中で,キリストの「人格共同体」を建設する愛の闘いを遂行することの中にのみあるのである.→マルクス主義とキリスト教.(東條隆進)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社