《じっくり解説》救いとは?

救いとは?

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救い…

1.旧約聖書における救い.<復> ヘブル語イェシューアーの意味は,特に悪や困難から生ずる危険から助け出すこと,救い出すこと,解放することである.<復> (1) 多くの場合に,悪者,襲う者,敵などに対する勝利や,彼らからの救いを意味したが,それは根本的には,肉体的な死の危険からの救いであった.ある時には苦しみから(詩篇91:15,イザヤ33:2),悪者から(詩篇119:123,140:7),敵や憎む者から(Ⅰサムエル2:1,詩篇3:7,8,9:14),また襲う者や迫害者から(Ⅰサムエル14:45,詩篇119:166)の救いであった.神はある時には貧しい者を救われた(詩篇149:4).食糧を与えることによって救われた(詩篇78:22‐29).また一般的な民ばかりでなく,王をも救われた(詩篇20:6).また個人ばかりでなく,イスラエル全体を救われ(詩篇98:2,3),周りの国々から救われた(出エジプト14:13,Ⅱ歴代20:14‐17).これらの救いはいずれも,神の戒めを守り,従うことにより,神によって与えられるものであった.<復> (2) しかしながら,以上のようなその時点における一時的な救いだけでなく,ある時には,終末的な救いが意味されていた.すなわち,終末の時にメシヤによってイスラエル全体が救われることが預言されたのである(イザヤ12:1‐3,25:9,26:1,49:8,62:1).そして,イスラエルが地の果てにまで救いをもたらす存在となることも預言されたのである(イザヤ49:6,52:10).<復> (3) 旧約聖書においては,個人の魂の救いが無視されていたわけではない.アダムとエバが神の前に罪を犯して以来,人間は神の前に堕落し,肉体的にも霊的にも,死ぬべき存在となってしまった(創世2:17).堕落以降,生れてくるすべての人間は,罪の性質を持って生れてくるものとなったのである(詩篇51:5,エペソ2:1).しかしながら,神はこのような人類に,旧約聖書の初めから,メシヤ(救い主)による救いの終末を与え続けられた.神はまず,やがて女の子孫(メシヤ)がサタンの頭を踏み砕くことを約束された(創世3:15).神はまた,律法の中において,いけにえ(犠牲)の血を流すことにより罪が赦されることを示された(ヘブル9:22,レビ17:11).旧約時代の人々は,神を信じ,罪を悔い改め,いけにえの動物の血を流すことにより,自分の罪が赦されることを知っていた.またそれとともに,動物のいけにえが不十分なものであることも理解していた.それゆえに彼らは,神が約束された完全ないけにえであるメシヤの到来を待ち望んでいたのである.すなわち,旧約時代の人々は,来るべきメシヤを信じ,待ち望みながら,そのメシヤの予表であるいけにえの動物の血を流すことによって,罪が赦され,神のさばきから救われたのである.<復> 神は旧約聖書全般にわたって,人類の罪の贖い主であるこのメシヤの来臨を預言された.ある時には,直接的な預言によって(創世22:18とガラテヤ3:16;申命18:15,イザヤ53章等),ある時には,メシヤの予型(タイプ),予表,象徴等を通してである(例:過越の祭における小羊—Ⅰコリント5:7,8;幕屋—ヘブル9,10章;旧約時代のさばきつかさ,祭司,王,預言者;民数21:6‐9の青銅の蛇—参照ヨハネ3:14,15).またある時には,受肉以前のメシヤが顕現されたこともあった(創世16:7‐14,士師6:11‐24等).<復> 旧約時代の人々がメシヤについていかに深く理解していたかは,新約の説明によって明白である.預言者たちは,彼らの内におられるキリストの御霊の働きによって,メシヤの苦難と,それに続く栄光とを前もってあかしされていた.彼らにわからなかったのは,メシヤが来臨される時だけだったのであり,彼らは,それがだれを,またどのような時を指しているのかを熱心に尋ね調べたのであった(Ⅰペテロ1:10,11).アブラハムはすでに,メシヤの来る日を信じて喜んでいた(ヨハネ8:56).モーセも,後の預言者たちも,キリストが苦しみを受けることと,死者の中からよみがえることを明確に理解していた(使徒26:22,23).預言者たちは,キリストの名を信じることによって,罪の赦しが得られることを知っていた(使徒10:43).イザヤ53章には,メシヤが人類の罪を背負って苦しみを受けられることが,明確に預言されている.それゆえ,旧約の聖徒たちが神による救いについて賛美している時には,このような霊的な救いの意味も含めて賛美していると理解され得る(例:申命32:15,Ⅰ歴代16:23,詩篇62:1,2等).彼らは,神が救いの角であり(Ⅱサムエル22:3),救いの盾を下さると告白した(同22:36).神による永遠の救いを賛美した(イザヤ51:6‐8).知恵と知識とが救いの富であることを知っていた(同33:6).神による救いと義とは,密接に結び付いていた(同56:1).それゆえに,救いを宣べ伝える者の幸いについて語った(同52:7).<復> 以上を要約するなら,旧約聖書においては,「救い」ということばが,敵や困難や危険から助け出すという一般的な意味でも多く使われているが,最も大切な意味は,あくまでも,メシヤを信ずることによる罪の赦しと,来るべき神のさばきからの救いであり,人々は,いけにえの動物の血を流しながら,やがて来るべき完全なメシヤの来臨を待ち望んでいたのであり,そのメシヤに対する信仰によって救いを得たのである.<復> 2.新約聖書における救い.<復> ギリシヤ語ソーテーリアの意味は,やはり様々な状況における危険からの救いであり,それは根本的には,肉体的な死からの救いであった.ある時には病気から(マタイ9:22欄外注,マルコ5:34欄外注,10:52等),ある時には嵐から(マタイ14:30),またある時には十字架上における死から(マタイ27:40‐49,ヨハネ12:27)の救いであり,それらは神とイエスによってもたらされた.いったん死んでしまった者も,イエスによってよみがえらせられ,救われた(ルカ8:50欄外注).<復> しかし,新約聖書においても,最も大切な意味は,霊的な死からの救いである.すなわち,旧約聖書において預言され,旧約時代の人々が待望していたメシヤがすでに来臨され,そのメシヤの贖いの死と,彼に対する信仰とによって,人類が,罪によってもたらされる神のさばきから救われることが,新約聖書の中には一層明白に表されている.このメシヤがダビデの家に生れることは,預言者たちによって預言されていた(ルカ1:69,70,使徒13:23).ユダヤ人たちがそのメシヤを殺したことも,実は預言の成就であった(使徒13:26‐29).このメシヤこそ,罪からの救いをもたらすお方である(マタイ1:21,ルカ1:77,Ⅰテモテ1:15,Ⅱテモテ2:10,黙示録7:10).人の子(メシヤ)は,失われた人々を捜して救うために来られたのであり,そのよい例が,ザアカイの救い(ルカ19:9,10)や,罪深い女の救い(ルカ7:44‐50)に見られる.人は,このキリスト(イエス)を主と告白し,心の中で神がイエスをよみがえらせて下さったと信ずることによって救われる(ローマ10:9).なぜなら,人は心に信じて義と認められ,口で告白して救われるからである(同10:10).このキリストを信じた者には,魂の救いが与えられる(Ⅰペテロ1:9).今こそ恵みの時であり,救いの日である(Ⅱコリント6:2).イエスの名を除いては,人類を救い得る名は世界中で誰にも与えられていない(使徒4:12).この方こそ救いの創始者であり(ヘブル2:10),今は大祭司として,神に近付く人々を救って下さる方である(同7:25).誰でも,自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い,このイエスと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うことになる(マルコ8:35等).この救いの福音を聞き,それを信ずる者は,心の中に約束の聖霊をもって証印を押される(エペソ1:13).この救いの知識を得るのは,聖書を読むことによってであり,聖書はわれわれに知恵を与えて,キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる(Ⅱテモテ3:15,ヤコブ1:21).われわれはこの福音を恥とすべきではない.なぜなら,福音は信じるすべての人にとって,救いを得させる神の力であり(ローマ1:16),神は御心によって,宣教のことばの愚かさを通して,信じる者を救おうと定められたからである(Ⅰコリント1:21).パウロを初めとして使徒たちは,この救いの道を人々に宣べ伝えた(使徒16:17).使徒たちが苦しみを体験しながら伝道したことが,人々の慰めと救いにつながることになった(Ⅱコリント1:6).<復> われわれは今,キリストを信ずることにより,罪が赦され,救われることができるが,その救いの最終的な実現は,キリストの再臨と神のさばきの時に明らかにされる(ヘブル9:28,Ⅰペテロ1:5).今はその最終的な救いの時にさらに近付いているのだから,われわれは眠りからさめ,やみのわざを打ち捨てて,光の武具を着けるべきである(ローマ13:11,12).そして,昼の者としてふさわしく,救いの望みをかぶととしてかぶって,慎み深い生活を送るべきである(Ⅰテサロニケ5:8,エペソ6:17).<復> しかしながら,このような救いのみわざの背後には,神の選びがある(Ⅰテサロニケ5:9,Ⅱテサロニケ2:13).神が人々を救い,聖なる招きをもって召されたのは,御自身の計画と恵みとによるのである(Ⅱテモテ1:9).選ばれた者は,信仰によって救いの相続者とされたのであり(ヘブル1:14),福音にふさわしい生活を送ることが救いのしるしとなるのである(ピリピ1:27,28).<復> 神はこの福音宣教のために奇しい御計画を持っておられた.すなわち,キリストがユダヤ人の間に来臨され,まずユダヤ人に福音を宣べ伝え,イエスの死と復活の後にも,使徒たちがまずユダヤ人に福音を宣べ伝えたにもかかわらず,彼らの多くはこの福音を拒否してしまった(ヨハネ1:11).そのために,使徒たちはむしろ積極的に異邦人に福音を宣べ伝えるようになった.それによって,救いが異邦人にも及んだ(使徒13:44‐48,ローマ11:11).しかしそれは,実は全世界に救いをもたらす神の御計画だったのである.その結果,ユダヤ人は異邦人をねたむようになり(ローマ11:11),ユダヤ人の幾人かが救われるのである(同11:14).しかし神は,決して御自分の民を退けてしまわれたのではない(同11:1).イスラエル人の一部がかたくなになったのは,異邦人の完成のなる時までであり,最終的にはイスラエルもみな救われるのである(同11:25‐27).このようにして,人類の堕罪以降,神によって与えられ続けてきた,メシヤによる人類の救いの御計画が,完全に実現されるのである.<復> 3.結論.<復> 旧・新約聖書の両方において,「救い」とは,この地上における肉体的な救いとともに,来るべき神のさばきからの霊的な救いをも意味しており,後者のほうがより大きな意味を持つ.アダムとエバの堕落以来,神はメシヤによる人類の救いの御計画を示し続けてこられた.旧約時代の人々は,動物の血を流しながら,この来るべきメシヤを信ずることによって救われた.また新約時代のわれわれは,もうすでに来られたイエス・キリストを信ずることによって,罪を赦され,来るべき神のさばきから救われるのである.従って,どちらの時代の人々にとっても,救いはキリストによるのであり,聖書はメシヤによる救いの道を人類に明確に啓示している書物なのである.神は,このキリストを通して全人類を救う御計画を持っておられ,先に救われた者は,世の光,地の塩として,その時代の人々に,メシヤによる救いを宣べ伝えていく責任を負っているのである.→救い主,贖罪・讀罪論,罪の赦し,救済史,救いの秩序.<復>〔参考文献〕宇田進「″今日における救い″とコンテクスチュアリゼーション」(宇田進編『ポスト・ローザンヌ』〔共立モノグラフNo.2〕)共立基督教研究所(いのちのことば社発売),1987;The New Bible Dictionary, IVF, 1970 ; Evangelical Dictionary of Theology, Baker, 1984.(小山田格)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社