《じっくり解説》預言,預言者とは?

預言,預言者とは?

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預言,預言者…

聖書において預言,または預言者という場合には,旧約聖書を背景として考えるのが普通である.もちろん,旧約聖書以外の古代オリエントの諸文献にも預言,預言者は登場している.しかし,旧約聖書が提示する預言,または預言者は,それら古代オリエントにおける宗教的指導者としての一般概念とは,必ずしも同じでないこと,むしろ彼らとは異なっていることを,聖書全体は教えている.<復> 1.預言(者)の語彙と性格.<復> 「預言者」を意味するヘブル語で最も適していて一般的なものは「ナービー」(複数は「ネビーイーム」)であり,申命18:15,18等に用いられている.ゲゼーニウスや,ギロオメなどによれば,その語には「ブツブツ吹き出す」という動作を表す意味があり,預言者は,与え託されたメッセージをそのまま押えておくことができず,押し上げられるように語らなければならない性格を持っている,という説である.スコットなどによれば,アラビヤ語の「ナバア」(「話す」の意味)に通じるので「スピーカー」という性格であると主張する.さらに,ミークによれば,アッカド語の「ナーブー」と関連があるとして,「宣告者」という性格があるとも言われる.またオールブライトによれば,「ナブー」はセム語系では受動態の要素があり,「呼び出された者」「召された者」の性格を示すとも言われる.そのほかには,アッシリヤの神ネボとの関連で,ネボに仕える「神人」の意味を持つと,セイスなどは主張する.もちろんこれらすべての説が,預言者の正しい性格を完全に示しているとは考えられないが,ある程度の示唆は与えている.<復> これら語彙的な面からの預言者理解だけでなく,聖書的な預言者理解を明確にすべきである.まず聖書的には,預言者は神の代言者であることを把握しなければならない(申命18:15,18.参照出エジプト14:15,16,エレミヤ1:5,6).神から預かった使信を自分勝手に,周囲の事情や都合により変えたりすることなく,忠実にすべてを語ることが,神の代言者として最も基本的に大切なことである.それゆえに,予言者,すなわち予告者という性格は,聖書的理解としては第二義的である.預言者は神に命じられ,語れと言われることを忠実に語ることが第一義的使命であり,そうする時,その語ったことばは,歴史を支配し,時間を超えて主権者である神が必要と定められた時が来れば実現し,成就するのである.その第二義的な性格は,先見者,または予見者という訳語の適する表現(ヘブル語「ローエ」や「ホーゼ」)で理解することができる(イザヤ29:10,30:10,Ⅱ歴代16:7,10).その他,預言者の性格を示す表現としては,「主の使い」(マラキ2:7),「羊飼い」(詩篇23:1),「神の人」(Ⅰサムエル2:27,Ⅱ列王4:42)などがある.<復> 2.預言(者)の歴史的経過.<復> 伝統的な理解としては,申命18:15,18におけるモーセに対する神の呼びかけに「預言者」の基本概念の起源を見るべきである.もちろん批評的な理解では,旧約聖書の預言者の起源は,オリエントの諸宗教の場合のように,祭司(職)と同じようにカナン侵入後に宗教的指導者として起ったと理解されている.旧約聖書の記述によれば,預言者(たち)の活動はイスラエルの民のカナン征服後に見ることができる.サムエルを初め他の士師たちも,実質的には預言者としての役割を果した.ヨシュアを含めて「前預言者」と呼ばれる理由もその点にある.ある士師たちがそうであったように,当時の預言者にはカリスマ的な要素があり,奇蹟などにかかわる賜物を持っていた.幻を見ることも含まれていた.エリヤとエリシャの時代を一区切りとして預言者のカリスマ的な要素は,次第にことばの預言者という性格に移行し,神のことばを預かり語る「代言者」としての第一義的な性格の預言者たちの働きをイスラエルの王国時代に見ることができるようになった.また,エリシャが預言者としての活動を始め,エリヤの後継者となったのは,ヨルダン川の東側でエリヤが神によって召された後,新しい預言者運動の指導者としてヨルダン川を一人で西のカナンの地に渡るという経験をしてからであり,それはちょうど,預言者の先駆者であったモーセがヨルダン川の東側で召されて後に,ヨシュアが(前預言者として)後継者とされ一人でヨルダン川を東から西のカナンの地に渡った経験と同じであった.「預言者のともがら」と呼ばれる集団ができてきたのもその頃であって(Ⅱ列王2章),預言者職は王国時代の社会の職制の中にその位置を(神殿に奉仕する祭司職と対照的に)占めるようになった.こうして預言者たちは神のことばの代言者として職責を果し,ある者は記述として託されたことばを残したので,旧約聖書中で預言書として個人名の付けられているものは,それらの「筆記預言者」とも呼ばれる人々によると考えられている.<復> 3.預言者意識と神学.<復> 預言者は,神の代言者であるから自分は特別な使命のために召されたという意識を強く持っていた.それは単なる自主的な使命感ではなく,預言者自身は受動態であり,神によって召し出されたという預言者意識である.それゆえこの宗教経験は極めて人格的な職業意識と言い得るのであり,個々の個性を喪失するような特殊な異常心理的現象や体験ではない.イザヤはイザヤとして,エレミヤはエレミヤとして,それぞれ他の預言者も,個々の性格をその記述に残しつつ,神の代言者として用いられた.しかし近代の批評学者たちのある者は,預言者の外観的現象としての動作や行動の異常的な一面に注目し,預言者は異常的恍惚狂信的心理状態にあると理解する.またその場合に語ることばも断片的,絶叫的なものであってあまり理論的ではないと評価する場合さえある.一部の現象面が異常的と見えることのゆえに,聖書に登場し,神の代言者としての召命的自覚をもって語る預言者をそのように理解し,評価することは慎まなければならない.預言者は,神の霊の導きのもとで託されたことばを語るのであって,その語ることばは権威ある神のことばであり,啓示なのである.それゆえに,啓示神学として預言者は,語るすべてのことはモーセ律法に根拠を持つものと考えていた.預言者は「律法(トーラー)」の正しい主張者であった.ただある場合には,正義が行われず,悪政が行われるような時代には,神は預言者を召して,その民が神の民として律法(トーラー)に従って歩むようにと代言者として語らせられたのである.換言すれば,預言者たちはイスラエルの民を常に律法(トーラー)の正しい精神に導いて,当時の社会悪や,道徳的または倫理的な悪を激しく責め,神の審判を主張したのである.それゆえ,ある時代の預言者,前8—7世紀の預言者たち(アモスやミカなど)は,倫理預言者と呼ばれるような性格を持っていたが,彼らは単なる社会正義の主張者ではなかった.彼らが社会正義を求め,警告を与えたのは,律法(トーラー)が元来持っていて機能すべきことが機能しなくなり,形式主義,律法主義になってしまっていることを責めたのであり,律法そのものや,儀式そのものに反対したのではなかった.このことは,神学的な面からは,預言者主義と祭司主義との対比においてもしばしば論じられてきた.一見すると預言者たちは,儀式や祭儀を重要視し律法を強調する祭司主義に反対するようであるが,そうではなく,彼らが責めたのは,儀式や祭儀の本当の意義を忘れた形式主義に陥っている偽りの権威主義的な祭司主義に反対したのである.しかし,最近では,祭司主義と預言者主義を対立的な関係で見るよりも,両者を調和的に考えるべきであるとの神学的理解が反省として出てきている.旧約における預言者が啓示として神から託されたことばを語る場合,その内容は,その時代の必要を知っておられる主権者であり,歴史の主である神のメッセージとして,そのおのおのの時代に効力または意義を持っていることは当然であるが,同時にその内容も,究極的には契約の歴史的一部分としてやがて新約において成就されるメシヤの来臨を指すメシヤ預言的展望または視点で理解されるべきである.もちろん,すでに述べたように,預言者(たち)自身は,自分(たち)が語ることがメシヤ預言としてやがて成就するかどうかを意識して語ったというよりも,むしろ彼(ら)は,まず第一義的に,神より預かったことばを,代言者としてその時代の歴史的現実の中ですべてを率直に語ることに忠実だったのである.だからこそ,それは歴史を支配しておられる神のことばの啓示として超自然的性格を持つゆえに,やがて時が来るに従って新約の時代にキリスト・イエスにおいて成就したのである.またその預言の一部は,さらにこの世界の終末に向かって成就するのである.それゆえに,預言の解釈には,特別啓示としての旧約預言の超自然性を認めることが極めて大切である.<復> また,旧約聖書においても,本当に神より語りかけられたのでもなく,ことばを預かったのでもないのに,自分勝手に人の喜ぶようなことばかりを語り,真実を語らなかった偽預言者たちの存在したことは否定できない.彼ら偽預言者たちは,主の御名を使ってさえ偽りを預言した(エレミヤ23:15‐40).神のことばを語らなかった彼らの預言は成就しなかった.偽預言者については,モーセを通して警告が与えられている(申命13:1‐5).新約聖書においても,偽預言者は人を惑わす者として警告されている(マタイ15,16,22,23章,24:11,24,Ⅱペテロ2:1).<復> 4.新約聖書と預言.<復> 既述のように,聖書神学的視点から啓示として考えると,旧約における預言は,新約において成就したのである.特に,キリストの誕生,その生涯と,救い主としての贖罪死と復活,昇天に関する預言の成就は完全であった.バプテスマのヨハネは,新約時代において最も預言者らしい働きをした(マラキ4:5,6,マタイ11:9‐14,マルコ1:2‐8,ルカ1:76,77).キリスト御自身も,旧約聖書は御自分についての預言であるとの総合的な理解を明確に持っておられた(ルカ24:27,44).パウロも同じような理解を持っていた(ローマ16:25,26).旧約の預言者のようではないが,預言者職としての位置は,教会に仕える他の職務と並んで新約聖書においても維持されていた(使徒13:1,Ⅰコリント12:28,エペソ2:20,3:5,4:11,黙示録18:20,24等).それゆえ,新約における預言者の職責,または働きは,教会の交わりの中で他の奉仕者と協力することであった.その点では,今日の教会においても,「預言者的である」ということは,終末への聖書の啓示的展望をわきまえながら,各自が置かれている教会の中で,または生活の場所で,クリスチャンとして福音の証人としての奉仕と生活に励むことである.→律法,啓示論,神のことば.<復>〔参考文献〕浅野順一『イスラエル予言者の神学』創文社,1950;E・J・ヤング『旧約預言者の神学』聖恵授産所出版部,1989;鍋谷堯爾「預言書について」『新聖書注解・旧約4』いのちのことば社,1974;A・ネエル『予言者運動の本質』創文社,1971;関根正雄『預言者—イスラエル宗教文化史』岩波書店,1952;Scott, R.B.Y., The Relevance of the Prophets, Macmillan, 1959 ; Rowley, H. H. (ed.), Studies in Old Testament Prophecy, T.&T. Clark, 1946 ; Fohrer, G., Studien zur alttestamentlichen Prophetie (1949—65), To¨pelmann, 1967 ; Heschel, A.J., The Prophets, Harper & Row, 1962 ; Lindblom, J., Prophecy in Ancient Israel, Basil Blackwell, 1962.(服部嘉明)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社