《じっくり解説》死とは?

死とは?

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死…

1.旧約聖書における「死」.<復> (1) 語法.ヘブル語で死を表す基本語は,動詞の「ムース」で,「死ぬ」「殺す」と訳され,使用度数は849回である.その派生名詞「マーウェス」は,158回用いられている.合せて1007回中,747回が,五書と歴史書に集中している.おもに自然死,変死など肉体の死を指すが,時として,擬人化されている(詩篇49:14,ヨブ12:2,エレミヤ9:21).死の比喩的表現には,「眠り」(詩篇13:3),「休み」(ダニエル12:13),「息絶える」(創世25:8),「ちりに帰る」(詩篇104:29),「影のように飛び去る」(ヨブ14:2)などがある.<復> (2) 起源.旧約聖書は,神が人類の始祖に対して,禁断の実の警告をしたが(創世2:17),彼らが不従順であったため,死を宣告されたと述べている(同3:19).ゆえに,死は自然的・生理的な現象ではなく,罪を犯したために科せられた刑罰である.死は罪に起因する.この死の刑罰的性格は,モーセの祈り(詩篇90:7‐9,11)や,ヒゼキヤの祈り(イザヤ38:17,18)において明らかに認められる.<復> (3) 意義.この死とは,肉体の死はもとより,霊的死をも意味する.アダムとエバが神との交わりを失い(創世3:8),神の臨在から追放された(同3:23,24)からである.その結果,人間は神の意志に背き,その魂は神から離れるに至った.こうして,人間は死に値するものとなった.まさに,ヘブル人の言うように,人間は「死の子たち」([ヘブル語]ベネー・マーウェス)(参照Ⅰサムエル20:31欄外注,詩篇79:11,102:20)と呼ばれるにふさわしい.<復> (4) 性格.旧約聖書で死が刑罰的性格を帯びていることは,死が誰もが避けて通れない,普遍的経験であること(Ⅱサムエル14:14)を示している.人は「すべての人が死ぬように死に」(民数16:29),「死を見ない者」(詩篇89:48)とはなり得ない.死は「世のすべての人の行く道」(Ⅰ列王2:2)であって,死を支配できる者は誰もいない(伝道者8:8).創世5章のアダムの歴史の記録において,「こうして彼は死んだ」の句の反復(8回)は,人間にとって死は必然的なものであることを教えている.エノク(創世5:24,ヘブル11:5)とエリヤ(Ⅱ列王2:11)が,共に死を経験しないで天に移されたことは,さらにまされるもののあることを暗示している.死が誰にとっても避けられない事実は,人間に様々な感情や理解を起させている.死は,恐怖(詩篇6:1‐5,55:4),苦しみ(Ⅰサムエル15:32),悲しみ(Ⅱ列王20:3)をもたらす.死は人生のはかなさ(詩篇144:4),その刑罰的性格(詩篇90:7‐11)を思わせる.人は誰も「愚か者の死」(Ⅱサムエル3:33)や変死(エゼキエル28:8)を望まない.「正しい人が死ぬように死ぬ」(民数23:10)ことを願う.短命は神によるのろい,長寿は神の祝福と見なされた(申命30:19,20,箴言3:2).死が神と神の民との交わり,礼拝,契約の祝福から断たれることを意味したからである.<復> (5) 神学的意義.いのちと死の主である神は,その主権と支配を生ばかりでなく死の全領域にも及ぼされる.神は死を免れさせ(詩篇68:20),死を定め(ヨブ14:5),敬虔な者を死を経ずに天に移すこともおできになる(創世5:24,Ⅱ列王2:11).死者を生き返らせ(Ⅰ列王17:22,Ⅱ列王4:34,35,13:21),その力はよみにも及ぶ(Ⅰサムエル2:6).神は死の主であられるので,死を完全に滅ぼし,死者を生き返らせることによって,死に対する勝利をもたらされる(イザヤ25:8,26:19,エゼキエル37:11,12,ダニエル12:2,ホセア6:2,13:14).この死に対する勝利の預言は,「キリストは死を滅ぼし,福音によって,いのちと不滅を明らかに示された」(Ⅱテモテ1:10)ことにおいて成就した.<復> 2.新約聖書における「死」.<復> (1) 語法.ギリシヤ語で死を表す基本語は,名詞の「サナトス」で,70人訳では[ヘブル語]「マーウェス」と[ヘブル語]「ムース」,または[ヘブル語]「デベル」(疫病)の訳語に当てている.使用度数は120回で,パウロ書簡とヨハネの黙示録に多く用いられている.また基本語の動詞[ギリシャ語]「アポスネースコー」は113回用いられ,同じくパウロ書簡に,次いでヨハネの福音書に集中している.この両語は,自然死,変死を問わず,肉体の死のほか,道徳的死,霊的死をも意味する.同義語には,[ギリシャ語]「スネートス」(死ぬべき),[ギリシャ語]「スネースコー」(死ぬ),[ギリシャ語]「テリュータオー」(死ぬ)などがある.死の比喩的表現としては,「眠り」(ヨハネ11:11),「幕屋を脱ぎ捨てる」(Ⅱペテロ1:14),「息が絶える」(使徒5:10),「世を去る」(ピリピ1:23)などが用いられている.<復> (2) 起源.新約聖書も,死を自然的・生理的現象としてではなく,その原因を罪の結果,つまり刑罰として述べている.パウロは,死の刑罰的性格を「罪から来る報酬」である,と断言している(ローマ6:23).その罪はアダムに起因し,刑罰として死が,普遍的に全人類に及んだ(ローマ5:12,Ⅰコリント15:21,22).ペテロも,死を罪に対する神のさばきとして述べている(Ⅰペテロ4:6).<復> (3) 意義.アダムによって罪が世に入った結果,死を免れる人間は一人もいない.すべての人は肉体の死に定められ(ヘブル9:27),死の恐怖につながれ,奴隷となって(同2:15),死の支配の下にある(ローマ5:17).新約聖書は,刑罰的性格を表す肉体の死とともに,霊的死にも言及している.むしろ霊的死こそ,新約聖書の死の概念の主題である.霊的死は,肉体の死と同じようにアダムの罪に由来する.アダムは神に背き,いのちの根源を断たれたので,霊的に死んだ者となった.こうして,霊的死も全人類に及んだのである.生れながらの人間は,すべて神のいのちにあずかっていないので,霊的に死んだ者である.霊的死とは,神のいのちにあずかっていないので,罪の中に生きていることである(ローマ6:1,2).キリストは「(霊的)死人たちに彼らの中の(肉体的)死人たちを葬らせなさい」(マタイ8:22),「だが…弟は,死んでいたのが生き返って来たのだ」(ルカ15:32),「死からいのちに」(ヨハネ5:24)と,しばしば霊的死に言及しておられる.パウロも,ユダヤ人,異邦人の別なくキリスト者がかつて霊的に死んでいた事実を挙げ,すべての人間は霊的に死んでいることを示唆している(エペソ2:1,5).「肉の思いは死である」(ローマ8:6)も,霊的死を表している.ヨハネもまた「愛さない者は,死のうちにとどまっているのです」(Ⅰヨハネ3:14),「あなたは,生きているとされているが,実は死んでいる」(黙示録3:1)と記し,霊的死に言及している.霊的死の末路は,永遠の死である.この死は,この世でキリストを信じなかった者に臨む,審判の日における永遠の刑罰である(マタイ25:46).彼らは,悔い改めないために,すでにさばかれ(ヨハネ3:18),神の怒りがその上にとどまり続ける(同3:36).永遠の死は,神からの永遠の分離を意味し,「第2の死」(黙示録2:11,20:14,21:8)と呼ばれ,「火の池」(同20:14,21:8),「まっ暗なやみ」(Ⅱペテロ2:17),「怒りの酒ぶね」(黙示録19:15)などの比喩的表現で表されている.<復> (4) 神学的意義.新約聖書における死は,福音の中心的使信であるイエス・キリストの死と復活(Ⅰコリント15:1‐8)とに深くかかわっている.イエスの死が,すべての人間の罪の贖いのためであり,イエスが復活によって死に打ち勝ち,主を信じる者に永遠のいのちを与えられるからである.この歴史的出来事は,四福音書においてそれぞれ予告され(マタイ16:21‐23,マルコ8:31‐33,ルカ9:21,22,ヨハネ2:19‐22),成就した(マタイ28章,マルコ16章,ルカ24章,ヨハネ20,21章).福音書に記録されているイエスによる死人のよみがえりの奇蹟的出来事は,主の死に対する勝利と復活の力の表れであって,最後の復活のしるしである(マタイ9:18,19,23‐26,ルカ7:11‐17,ヨハネ11:1‐44).この歴史的出来事は,使徒的宣教の中心となり(使徒2:24‐36,3:15),書簡とヨハネの黙示録は,その歴史的事実とともに神学的意義の説き明かしである(ローマ1:4,4:25,Ⅰコリント15:4‐8,ヘブル13:20,Ⅰペテロ3:21,22,黙示録1:5).キリストは,「死者の中から最初に生まれた方」(コロサイ1:18)となり,その死によって,死と,悪魔という死の力を持つ者を滅ぼされたので(Ⅱテモテ1:10,ヘブル2:14),死はもはやキリストを支配しない(ローマ6:9).キリストは死なれたが,死に打ち勝って復活され,いつまでも生きておられ,「死とハデスとのかぎ」を持っておられる(黙示録1:18).キリストの死と復活の目的は,すべて御自身を信じる者が永遠のいのちを与えられ,主のものとされ,キリストがその人の主となられるためである(ヨハネ3:36,ローマ14:9).このいのちにあずかった者は,さばきに遭うことがなく,死からいのちに移されている(ヨハネ5:24).パウロ的表現によれば,永遠のいのちを持つことは,キリストの死と復活にあずかることである(ローマ6:1‐11,Ⅱコリント4:10‐12,コロサイ2:12).キリスト者は,罪と死の原理から解放され(ローマ8:2),死のとげを取り除かれたので(Ⅰコリント15:55,56),いのちの御霊の原理によって歩む(ローマ8:2).従って,キリストの死と復活にあずかった者は,罪と律法の世界に対して死んだ者として,キリスト・イエスにあって生きる(ローマ6:11,ガラテヤ2:19,20,6:14).従って,キリストの死と復活にあずかった者にとって,肉体の死には,もはや罪に対する刑罰的様相はない(ローマ8:1,2,14:8).死のとげが取り除かれたので(Ⅰコリント15:55,56),死といえどもその人を神から引き離すことはできない(ローマ8:38,39).キリスト者にとって肉体の死—第1の死—は,永遠のいのちへの凱旋門である.贖われた者の魂は,キリストとの交わりにあずかり,からだの復活を持ち望む.彼らはキリストの再臨において,復活し(Ⅰコリント15:23,Ⅰテサロニケ4:16),不死のからだを着せられる(Ⅰコリント15:53,54).ゆえに,キリスト者には第2の死は何の力もない(黙示録20:6).キリスト者が死を恐れることなく,それさえ希求するのは,ここにその理由がある(ピリピ1:21‐23).しかし,罪に定められた者は,ハデスに下り,終りの日に復活し(ヨハネ5:29,黙示録20:13),さばきを受けて,第2の死に遭う(黙示録20:14,21:8).<復> 最後の審判において,死とハデスは,火の池に投げ込まれ(黙示録20:14),最後の敵である死は,キリストによって,完全に,究極的に滅ぼされる(Ⅰコリント15:26).こうして栄光と祝福に満ちた新天新地が出現する(黙示録21章).→いのち,永遠のいのち,復活,罪・罪論,死後の状態,終末論,再臨,さばき.<復>〔参考文献〕並木浩一「旧約聖書の死生観」,大貫隆「新約聖書における死の意味」(村上伸編著『死と生を考える』)ヨルダン社,1988;柏井宣夫「旧約における死と葬儀」,松永希久夫「新約における死と葬儀」(日本基督教団信仰職制委員会編『死と葬儀』)日本基督教団出版局,1974;Baker Encyclopedia of the Bible, Vol.1, Baker, 1988.(樋口信平)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社