《じっくり解説》ピューリタンとは?

ピューリタンとは?

ピューリタン…

[英語]Puritan.「清教徒」と訳される.しばしば,時代を超えて様々な人々に対し用いられることがあるが,本来は16—17世紀のイギリスのプロテスタントの中で改革的志向を特に強く持って行動した人々を指す歴史的用語である.とは言え,もう少し具体的にそれがどういう人々を指し,どの範囲まで包括するのかという言葉の正確な定義になると,学者間でも見解は一致していない.<復> Puritanという語が初めて造り出されたのはエリザベス1世の治世の初期1564年頃で,最初は中世の異端的分派に付けられたカタリ派(清い人々)という名称に相当する非難・軽蔑を含んだ呼び名として反対者が用いたものと考えられている.ところで,ピューリタンそのものの起源についてはいろいろの説がある.宗教改革以前のウィクリフやロラード派にまでさかのぼって考える人もあれば,宗教改革期の聖書翻訳者ティンダルを最初のピューリタンと見なす人もあり,またエドワード朝のジョン・フーパーからピューリタンの歴史を始める人もある.しかし,より一般的な考えでは,次のメアリ女王のプロテスタント迫害を逃れて大陸へ亡命した人たちの中で,特にカルヴァンの指導するジュネーブに滞在した者たちが,エリザベス女王の即位(1558年)とともに帰国し,聖書に基づきジュネーブの模範に倣った礼拝様式と教会組織を打ち建てようとして,エリザベスの宗教体制に反対した,それがピューリタンの始まりだとされる.だとすれば,まずその最初の歴史を見ることが,ピューリタンがどのようなものであるかを知る最良の手掛かりとなろう.<復> エリザベス体制に対する最初の反対の火の手は,「聖職服」の問題を巡って上がった.エリザベスは1559年「礼拝様式統一法」によって聖職者にコープやサープリスと呼ばれる聖職服の着用を義務付けたが,かつての亡命者を中心とする改革的な人々にとっては,それはローマ・カトリック教皇主義の制服にほかならず,とうてい容認できるものではなかった.そこで多くの者がこの義務に従わず,さらに1563年の聖職者会議を通して,この聖職服着用の問題を含んだ改革案を提出したが,わずか1票差で否決された.しかしこれでも改革派の反対は収まらず,さらに拡大し,それに伴って女王に協力する体制側からの抑圧も強化される結果となり,反対派の中心であったオックスフォード大学のトマス・サンプスンとローレンス・ハンフリも職務を剥奪されてしまう.このようにして体制とそれに抵抗するピューリタンという形が成立するが,それはさらに聖職服を強制する主教と国王の権限に対する根本的な問を生み出し,このようにして1560年代の聖職服論争は1570年代には大陸亡命経験のない第2世代によって体制そのものを問題にする主教制批判へと発展させられることになる.<復> ここで登場するのがケンブリッジ大学のトマス・カートライトで,1570年彼は新約聖書「使徒の働き」の講義の中で,聖書に基づいて主教制を厳しく批判し,それに代るものとして長老制を主張した.これはエリザベス体制の根本を揺がす主張であり,またその与えた影響が大きいことを見た体制側はカートライトを大学から追放するという措置をとった.しかしこれで事態は収拾されるどころか,逆に体制批判派は1572年「議会への勧告」という文書を出して,教会に残っている教皇主義的悪弊を除去し,主教制を廃して長老主義に基づく教会改革を行うよう議会に訴えるという挙に出た.この動きも,著者と目されたジョン・フィールドとトマス・ウィルコックスが逮捕され,彼らを弁護したカートライトも亡命に追い込まれるという形で押え込まれることになる.このように国教会の組織を長老主義的に改変しようとする企てに失敗したピューリタンたちは,一挙に全国規模で改革をはかることを断念し,国教会の教区制の枠組みの中でクラシスと呼ばれる長老主義の組織を作るというほうへ向かう.しかしこのクラシス運動も1590年代には弾圧によって崩壊させられる.<復> そこでピューリタンたちは,政治的運動に挫折した結果,ウィリアム・パーキンズに代表される非政治的説教運動のほうへ転向していくとしばしば見られているが,それは必ずしも正しいとは言えない.組織的運動としては挫折しても,教皇主義的礼拝様式に対する抵抗や主教制に対する批判はずっと継続していく.それは次のジェイムズ1世の時の「千人請願」(1603年)と「ハンプトン・コート会議」(1604年)において舞台の表に出,ジェイムズと次のチャールズ1世により厳しく弾圧されるが,内戦の勃発により議会の手で主教制が廃され(1643年),ウェストミンスター会議(1643—49年)の審議を経て新しい礼拝様式と長老主義体制が実施に移されるという経過をたどるのである.他方,説教運動と言われる説教と牧会によって生の改革を目指す方向はずっと古くからあったものなのである.<復> 説教と説教職の重視ということは宗教改革の基本的方向であったが,国民全部を包括する国教制のもとでの説教者の致命的不足はエリザベスでさえ認識して,登位後間もなくその対策として教会で日曜日ごとに公定の『説教集』を用いることを命じたほどであった.それゆえ亡命から帰国した者たちが説教職の改革ということに強い関心を持つのは当然であり,その点では,主教職を受け入れて体制の中枢に加わった者もそうでない者も共通していた.また大学で改革的な教師たちの教育を受けた学識と熱意のある聖職者も各地に増えていた.このような状況の中で1560年代の中頃から各地に“Prophesyings”(聖書釈義集会)と呼ばれる聖職者の聖書研究と相互研修のための集会が生れる.これは聖職者の自発的集会であったが,主教主導のものや主教の援助を受けているものもあって,反体制的運動と結び付く可能性がありはしても,本来は聖職者の説教と牧会の水準を高めることを目指す純粋に宗教的な集会であった.それゆえ亡命経験者で体制教会の最高責任者カンタベリ大主教となっていたグリンダルもこれを評価し,これを禁止せよとの女王の命令(1576年)に従わずに職務執行停止に追い込まれることになったのである.説教研修会に参加し,説教を磨き,牧会に専念して信徒たちの生の改革をはかった熱心な聖職者たちは,反体制のためではなく,正しい説教と牧会を求める熱心のゆえにピューリタンと呼ばれるべきであって,その活動はパーキンズ以後の説教運動と直結していると考えられる.<復> さらに,最近の研究で強調されているのは,一般信徒であるピューリタン,特に貴族やジェントルマンのではなく,庶民層のピューリタンの重要な役割である.彼らは「敬虔な人々」と呼ばれ,上述のような敬虔なピューリタン牧師たちの説教活動によって生み出されてくるのではあるが,単に受身的に牧師たちに従属しているのではなく,逆に優れた説教を求める彼らの要求に応えて説教者が整えられていくという関係にあった.彼らは国教制度に反抗する意図を持っていなかったが,教区内のあまり信仰的でない多くの人々とは一線を画し,同じく敬虔な人々と親密な関係を結び,良い説教を聞くために自分の属する教区を越えて他教区に赴いたり,非教区的ピューリタン集会に参加したりして,教区社会を越えて信仰によって結ばれた共同社会を形成するようになる.<復> 以上のように見てくると,ピューリタンというのは,体制に激しい抵抗運動を展開した人々から,体制に服従しながら徹底した生の内的改革を追求した人々まで,その形態と程度は様々であり,明確な境界線を引くことはほとんど不可能ではあるが,国教会の現状に満足せず,より良い教会を求める改革的態度と行動において目立っていた特に信仰熱心な教職信徒のグループを広く指すと言ってよいであろう.このような人々はエリザベス,ジェイムズ,チャールズの三時代を通じて,様々の圧迫や状況の変化に対応していろいろの変容を受けながら存続し,内戦に発展する政治的状況では議会側の中核となり,革命を達成してクロムウェルの共和制の樹立(1649年)に至るが,王政復古(1660年)によって政治的力を失い,内部的にも分裂を深め,一部は国教会に組み込まれ,他は長老派・組合派(会衆派)・バプテストその他の各教派に分化していって,まとまった歴史的実体としてのピューリタンは姿を消すことになる.一方アメリカのニューイングランドにおいては,1620年ジェイムズ1世の時代に,国教会から分離した組合派教会の中からメイフラワー号に乗ってプリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズに始まり,チャールズ1世の1630年には非分離組合派のマサチューセッツへの移住によって,ピューリタンたちは初めて自らの理想に従って教会と社会を建設することになる.それが実現した時,彼らはもはや言葉の本来の意味ではピューリタンと呼べないとも言えるが,非分離派はもちろん分離派も含めて,なお母国の国教会との関係が意識され,新しい教会と社会の建設の理想が生きていた間は彼らをピューリタンと呼ぶことが許されるであろう.そしてピューリタンという歴史的集団がなくなっても,ピューリタンを動かしていた精神は存続し,福音主義キリスト者の信仰と生活のバック・ボーンとなってきたというだけでなく,英米国民の生活文化のあらゆる面に計り知れない影響を及ぼしてきたのである.<復> ではこのピューリタンの精神とはどういうものか,その特色の幾つかを挙げ考えてみよう.まずその一番根本にあるのは,宗教改革,特に改革派の信仰精神を継承しながら「より徹底した宗教改革」を求める精神である.これは宗教改革そのものに含まれている精神であるが,特にイングランド教会の改革が不徹底でなお多くのローマ・カトリック教皇主義的要素を残しているので,それの徹底的排除を求めるという形を取る.そしてその改革推進の方向は次のような特色を持っている.まず第1は聖書を教理・礼拝・教会組織・信仰生活のすべてに厳密に適用しようとする徹底した聖書主義である.国教会の体制派は,聖書主義に立ちながら,礼拝様式・教会組織に関しては必ずしも聖書に明確な規定がないのでそれぞれの国の伝統に従って教会が定めてよいとしたのに対し,ピューリタンの多くは聖書に規定されていない仕方で神を礼拝することは偶像礼拝に通じることであり,教会組織の原則は聖書に明示されているとして,特に国教会の礼拝儀式と組織について攻撃を加えた.ただしその具体的内容については意見は一致していなかった.第2は説教と牧会により生の改革を目指すということである.つまり,説教のできない聖職者が大多数であるような国教会の状態の中で,儀式にあずかることによってではなく,みことばによって真の回心と生の改革に至らせるように説教と牧会を確立しようとしたのである.第3は,経験と実践の重視である.大多数の人々が習慣的・表面的な信仰生活に安住していた中で,ピューリタンは,みことばは自分の経験と実践において確証されなければならないとして,厳しい自己検討を行い,清い聖なる生の実現に励んだのである.第4は,家庭の浄化である.国教徒は教区に縛られているが,説教者の欠如や不信仰な人々の存在によって教区が敬虔な信仰形成の場でない状態の中で,ピューリタンは家庭を礼拝と信仰教育の場としたのである.第5は,生全体と社会全体の改革への志向である.ピューリタンの個人的内面的変革の強調はそれだけにとどまるものではなく,生の全体全領域の改革,さらに国家社会全体の変革を強く求めるものであった.このようなピューリタンの精神には今日顧みるべき多くの点があると言わなければならない.<復>〔参考文献〕大木英夫『ピューリタン』中央公論社,1968;今関恒夫『ピューリタニズムと近代市民社会』みすず書房,1989;Toon, P., Puritans and Calvinism, Reiner Publications, 1973 ; Ryken, L., Worldly Saints, Zondervan, 1986.(村川 満)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社