《じっくり解説》主の祈りとは?

主の祈りとは?

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主の祈り…

1.主の祈りの文脈.<復> 主の祈りは,マタイの福音書(6:9‐13),ルカの福音書(11:2‐4)それぞれにおいて,特徴ある文脈で提示されている.マタイの福音書では,山上の説教の中で,祈りについての教え(6:5‐8)の後,「だから,こう祈りなさい」(6:9)と,一定の形式・内容を持つ祈りとして示す.山上の説教において,イエスは,シナイにおけるモーセとの対比で,新しい律法の授与者として描かれている.これは,主の祈りがモーセの十戒(十のことば),さらにイスラエルの民の荒野での経験と密接な関係があり,切り離し得ないことを意味する.例えば,主の祈りの第1祈願,「御名があがめられますように」とは,十戒の第3戒,「あなたは,あなたの神,主の御名を,みだりに唱えてはならない」とかかわり,第1戒,第2戒で否定形で述べられている他の神々の礼拝や偶像礼拝の禁止(出エジプト20:3‐6,申命5:7‐10)を内包し,礼拝の真髄を肯定的な表現で表している.また,第4祈願,「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」については,荒野でのマナを巡るイスラエルの民の経験(出エジプト16:4以下)との関連が見られる.このように,主の祈りが山上の説教の文脈に位置している事実は,主の祈りと,シナイ契約を頂点とするイスラエルの民の荒野の旅の経験との結び付きを指し示している.<復> 他方,ルカの福音書では,主の祈りは福音書の流れの中で比較的後期の,エルサレムへの途上の場面に含まれている.直接のきっかけは,バプテスマのヨハネの弟子たちの祈りとの対比で,イエスの弟子たちが,「私たちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と求めた時,それに答えて教えられたのであり,祈りについての教えがそれに続く(11:5‐13).これは,イエスが祈っておられる姿を弟子たちが見,また祈りについて教えておられるのを聞く中からの問である.それゆえ,主の祈りは,イエス御自身の祈り,また祈りについての教えから切り離してはならず,さらにはイエスの存在,行動と教え全体からも不可分なのである.<復> 2.主の祈りの構造.<復> 主の祈りの一つ一つの表現,その意味を理解する上で,全体の構造を知ることは大切である.<復> マタイの福音書の場合は七つの祈願,ルカの福音書の場合は五つの祈願を含み,それぞれ美しい構造を示す.マタイのものを,ルカが要約縮小したとか,逆にルカのものを,マタイが拡大したと見るよりも,それぞれ独自なものとして受け止めるべきであろう.<復> マタイの福音書の場合は,「天にいます私たちの父よ」の呼びかけに続き,神御自身に関する三つの祈願,人間の基本的な必要にかかわる四つの祈願が続き,相互に対応する.ルカの福音書の場合は,呼びかけが「父よ」と短く簡潔であり,第3の祈願を含まない.日ごとの糧についての祈りも,「きょうも」ではなく,「毎日」である.また「負いめ」を「罪」と明言し,赦しを求めている.主の祈りは,その内容・思想の上からも美しい構造を示している.<復> 3.主の祈りの意味.<復> (1)「天にいます私たちの父よ」.祈るよう勧められているのは,父なる神に対してである.マタイ6:5以下では,「隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」(6:6),「あなたがたの父なる神は,あなたがたがお願いする先に,あなたがたに必要なものを知っておられる」(6:8)と印象深く教えている.<復> (2)「御名があがめられますように」.神御自身がその御名を聖とすると約束しておられる(参照イザヤ29:23,48:11,52:5,6等).その約束の成就を祈るのである.<復> (3)「御国が来ますように」.主イエスは,「時が満ち,神の国は近くなった」(マルコ1:15)との宣言をもって公の宣教活動を開始し,御自身が父なる神から遣わされたのも,神の国の福音を宣べ伝えるためであると明言される(ルカ4:43).イエスが語り,様々なみわざをなさる時,その人格と宣教を通し,神が王として統治しておられる事実が明らかにされていく.イエスの出現と宣教は,人間の救いのための神の最終的な行為であり,神は人間の歴史の中に御自身を現され,罪と死に対して勝利を得られる.その意味で神の国はすでに現実となっている.しかし同時に,神の国は未来のものであり,それが来るように祈れと教えられている.最後の解放と勝利が実現するのは,イエスの再臨の時である.イエスの弟子・教会は,この大いなる望みを目指し,望みと忍耐をもって歩む旅の途上で,主の祈りを祈ることを教えられている.<復> 時代を貫いて,イエスの弟子・教会は,イエスの死,復活,昇天,高挙により,子として下さる聖霊を受け,「アバ,父よ」と神を礼拝する民として,聖霊に導かれて生き,歩む.イエスの権威に服し,聖霊の導きを受けつつ,イエスにあってすでに来ている神の国の側面と,やがて必ず終末において現実となる神の国の完成を指し示す役割を,教会はゆだねられている.<復> (4)「みこころが…行なわれますように」.神のみこころと祈りの深い関係について教えているものとして,主の祈りとともに,ゲツセマネの祈りの記事(文字通り,主の祈り)に注目する必要がある(マタイ26:36‐46).ここでは,イエス御自身が,「わが父よ.できますならば,この杯をわたしから過ぎ去らせてください.しかし,わたしの願うようにではなく,あなたのみこころのように,なさってください」,また「わが父よ.どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら,どうぞみこころのとおりをなさってください」と祈っておられる姿を見る.イエスは弟子たちに,父なる神のみこころが行われるようにと祈ることを教えられただけでなく,自らそのように祈られたのである.祈りにおいてばかりでなく,イエスの地上での歩み全体が,父なる神のみこころを行うためであった(ヨハネ6:38).ゲツセマネの祈りは,父なる神のみこころをなし続ける歩みの中で祈られたものである.また父なる神のみこころを行う歩み・生涯は,父なる神のみこころが行われるようにとの祈りを通して実現される事実を教えられる.イエスは弟子たちを,父なる神のみこころを行うために召された(マタイ12:49,50).父なる神のみこころを行う者として,イエスの弟子・教会は,その使命を果すため,主の祈りを祈るよう教えられている.<復> 神のみこころの内容は二つに分けることができる.一つは,いつでも誰にでも当てはまるもの.他はそれぞれに対する個人的な父なる神のみこころ・計画である.例えば,ヨハネの黙示録4:11,「主よ.われらの神よ.あなたは,栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です.あなたは万物を創造し,あなたのみこころゆえに,万物は存在し,また創造されたのですから」に注目したい.万物は,もともと神のみこころゆえに存在する.この基盤に立ち,創造者なる神のみこころがなるようにと祈るのである.また,もともと神の御前に良きものであった世界が,人間の罪のため本来の姿からずれてしまった現実の中で,イエス・キリストにある神の救いの御計画が進められていく.この救いの御計画が完成するように祈ることが許されている.<復> さらに「地でも行なわれますように」.すなわち今ここで父なる神のみこころがなりますようにと,個人個人に直接関係するみこころを求め,これの実現のために祈ることをも教えられている.例えば,ダビデ王が,彼個人に対する父なる神のみこころを知り,これを実行したように(使徒13:22).初代教会の人々も,それぞれに対する父なる神のみこころを知らされ(Ⅰテサロニケ4:3‐6),その実現のために祈り励むことを勧められている.それは,生活と生涯において具体的に表されるべきものである.例えば,「いつも喜んでいなさい.絶えず祈りなさい.すべての事について,感謝しなさい.これが,キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16‐18)と,一人一人に対する神のみこころが教えられている.<復> (5)「私たちの日ごとの糧を…お与えください」.神御自身に直接かかわる事柄について祈ることと同時に,日ごとに必要とする糧が祈りの課題とされている.ここにイエスの深い御配慮を見る.イエスの地上での行為と教え全体において,いつも人々の実際的な必要が大切にされている.「何を食べるか,何を飲むか,何を着るか,などと言って心配するのはやめなさい」(マタイ6:31)とのイエスのことばは,そうした必要を無視も軽視もしていない.続いて「しかし,あなたがたの天の父は,それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」(同6:32)とあるように,人の必要に対する父なる神の御配慮を強調しておられる.問題は,必要のみを求めて,必要を備えて下さるお方を認めなかったり,忘れてしまったりすることである.<復> 日ごとの糧は,基本的には手のわざ,仕事を通して与えられる.パウロはテサロニケの教会の人々に,「ところが,あなたがたの中には,何も仕事をせず,おせっかいばかりして,締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています.こういう人たちには,主イエス・キリストによって,命じ,また勧めます.静かに仕事をし,自分で得たパンを食べなさい」(Ⅱテサロニケ3:11,12)と注意を与えている.自分で働き,自分で得たものが,実は主からの恵みとして与えられていることを悟る道を,主の祈りは指し示す.<復> また「私たちの日ごとの糧を」と,自分の必要のためばかりでなく,他の人々の必要のためにも祈ることを,主の祈りは教えている.この祈りの広がりが,自己中心のわなから私たちを解き放つ.さらに「日ごとの糧」は,直接食べ物だけに限らず,私たちが生きていくために不可欠なもの一切を含む.<復> (6)「私たちの負いめをお赦しください.私たちも,私たちに負いめのある人たちを赦しました」.日ごとの糧だけでなく,罪の赦しなくしては,人は生きることができない.イエスが十字架での身代りの死を身に受けて下さったからこそ,私たちは罪の赦しを祈り求めることができる(ローマ4:25).主の祈りにおいて,神による罪の赦しと,他の人々を赦すこととが堅く結ばれている.罪の赦しの恵みは,罪赦された者として他の人々を赦す恵みへと広がっていく.<復> (7)「私たちを試みに会わせないで,悪からお救いください」.イエスは,弟子・教会と同じ立場に立ち,様々な試練に遭われ(ヘブル4:15),勝利された(マタイ4:1‐11).<復> 試みに遭わないとは,何の困難もなく歩みをなすことではなく,様々な戦いに直面する中でも,自ら試みに勝利された方の深い配慮のもとに戦い,生きることを意味する(Ⅰコリント10:13,Ⅱテモテ4:7).<復> 4.教会の歴史における主の祈り.<復> 主の祈りは,すでに初代教会において重要な位置を占めており(ディダケー8章2,3節),いつの時代,どの地域においても,教会の祈りとして重んじられてきた.例えば,宗教改革時代において,主の祈りは,父なる神への恵みの応答として,キリスト者・教会の生活の中核を占めるものと受け止められている(カルヴァン『キリスト教綱要』3:20:34‐49).現代においても,地理的,教派的隔たりなど種々様々の隔たりを超えて,豊かに広がり深まり行く,聖なる公同の教会の中に生かされている聖徒の交わりを,主の祈りを共に祈り理解することにより体験する.→祈り.<復>〔参考文献〕中村獅雄『主の祈』教文館,1942;The New International Dictionary of New Testament Theology, Vol.Ⅱ, Paternoster, 1976.(宮村武夫)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社