《じっくり解説》義とは?

義とは?

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義…

ヘブル語ではツェデク/ツェダーカー,ギリシヤ語ではディカイオシュネー,英語ではRighteousness/Justiceであり,「正義」とも訳されるので,「正義」の項目も参照のこと.本項目では次の順序で扱う.<復> 1.旧約聖書における義.<復> (1) 義の語源的意味.義を表すヘブル語ツェデクは男性形,ツェダーカーは女性形で,その意味には違いがない.ともに100回以上用いられているが,その訳語としては,「義」のほかに「正義」「勝利」があり,「救い」との関連が強く見られる(例イザヤ45:24,25,46:12,13).ツェデクの本来的な意味については,「真っすぐな」と「堅い」の両論があるが,N・H・スネイスは「真っすぐである」が本来の意味であろうとしている.すなわち,「規範となるべきもの」「正しい規準」という意味である.このような用例として,レビ19:36や申命25:15を挙げることができる.またダニエル8:14では動詞が受動形で用いられており,その訳として「聖所はその権利を取り戻す」(新改訳),「聖所は…その正しい状態に復する」(口語訳),「聖所はあるべき状態に戻る」(新共同訳)となっているのも,ツェデクが「本来あるべきもの,規範として確立されたもの」という意味を持っていることを示唆してくれる.この本来の意味に「堅固さ」が加わるのは,その基準が人からのものではなく,神からのものだからである.<復> (2) 神の義.「基準としての義」が完全であり不動のものであるためには,それは神からの義でなければならない.そしてこの神の義,神からの基準は,神の性質と切り離しては考えられない.神の義なる性質についての最初の言及は,申命32:4で,「主は…正しい方」とあるが,創世18:19で神がアブラハムを通して「主の道を守らせ,正義と公正とを行なわせ」ようとしておられることの中にも,神の義なる性質を見ることができよう.用語は異なるが,神の正しさを主張し告白している箇所として,ヨブ34:10,詩篇92:15を挙げることができる.<復> さて神の義は神の聖と密接な関係を持っていることが,イザヤ5:16で示される.すなわち「…聖なる神は正義によって,みずから聖なることを示される」とある.神の聖とは本来「分離」の意味が強く,それは神御自身の超越的な属性を表すが,同時に神以外のものを「神へと分離し」「神の所有物,神の聖なる性質にあずかるもの」とする働きを具体的に行うことを意味する.従って神の義と神の聖とが結合しているということは,神の規範的なことばと行為が神の分離のわざと結び付いている,と言えよう.歴史において現された神の聖の内容は,分離のわざであり,特に族長アブラハムの召し,イスラエルの民の出エジプトの出来事は象徴的である.貧しい者,乏しい者,助けのない者,弱い者に対する神の助けと救いと守りのさばきが強調され,それがツェデク/ツェダーカーに含まれるようになった背後には,神のこの分離のわざとしての救いの行為が常に覚えられていた,と言えよう(参照出エジプト19:5,6).<復> (3) 人の義.イザヤは「天よ.上から,したたらせよ.雲よ.正義を降らせよ.地よ.開いて救いを実らせよ.正義も共に芽生えさせよ.わたしは主,わたしがこれを創造した」(45:8)と記しているが,これは義にして聖なる神が世界に対して求めておられる事柄である.タルムードのマッコース23b—24aには「613の戒めがモーセに与えられたが,ダビデはそれらを11に要約した.すなわち詩篇15篇である.ところがイザヤの時にそれらは六つにまとめられた.すなわちイザヤ33:15である.ミカはそれらを三つにまとめた.ミカ6:8である.するとイザヤが再び来て二つにまとめた.イザヤ56:1である.それから最後にハバククが一つに要約したのが2:4のことばである」という解説がある.<復> このように,旧約聖書は正義と公正を求めることがイスラエル人の義務であり,神の祝福を得る道であることを強調している.また人の義には神の救いとあわれみ(出エジプト34:6)に促されて,慈善,仁愛,もてなし,情けを行うという意味が含まれている(詩篇112:9,ダニエル4:27)が,このことは新約聖書においてさらにはっきりしてくる.<復> 以上,旧約聖書における義は,神の完全な規範を第一に意味するが,しかしそれは人間に対する単なる厳格な要求ではなく,不完全で罪ある人間が聖なる神により頼み,神の意志が確立されるようにと祈り,神に近付くことを目的とするものであって,まさに「神へと分離される」ことが義の目的であり,「正しい人はその信仰によって生きる」ことが信仰者たちの実際でもあった.<復> 2.新約聖書における義.<復> (1) 義の語源的意味.義を意味するギリシヤ語はディカイオシュネーであるが,動詞はディカイオオー,形容詞はディカイオスである.聖書外の本来の意味は法廷的,裁判的なものであり,悪人を断罪し正義を樹立することを意味した.<復> しかし,新約聖書における用法は,断罪,刑罰ということではなく,「義と宣言する」こと,すなわち「救い」の意味を強調している.このように「裁判的」な意味と「救い」という意味の二つが常に関係を持ちつつ,しかも「義」「正しさ」の面を強調している点に注目すべきである.また,新約聖書中の「義」が,旧約聖書中の「義」の意味と密接な関係を持っていること,旧約聖書のギリシヤ語訳である70人訳聖書がツェデク/ツェダーカーの訳語の大部分にディカイオシュネー系統のことばを用いていることも見落すことができない.従って新約聖書中の「義」も本質的に旧約聖書中の「義」と同じであって,それは神の基準を示すとともに,あくまでも聖なる神の前にへりくだりと信仰を促すものであり,特に信仰によって神の義を満たし神のものとされる具体的な手段であるイエス・キリストの贖罪へと目を向けさせるものである(ガラテヤ3:23‐26).<復> (2) 神の義.神御自身の属性としての絶対的な義及び具体的に示された神からの規範と言うことができよう.それは旧約時代の律法であり,新約時代はイエス・キリストにおいて示され,与えられたものである(ヘブル1:1,2).旧約時代には神の義と聖は悔い改めと信仰のしるしであるいけにえによって満たされたが,新約の時代にはイエス・キリストの十字架によって最終的に完全に満たされたのである(ローマ1:17).そのしるしとして神はキリストを死からよみがえらせたのである(同3:26).神の義は不義を見過すことができない.しかも神の聖は罪人を御自分のほうへと分離し,神の民としないではおかない.この「さばき」と「救い」の両方を決定的に成就したのが,イエス・キリストの十字架であった.「しかし,今は,律法とは別に,しかも律法と預言者によってあかしされて,神の義が示されました」(ローマ3:21).イエス・キリストが来られたのは神の義を完全に成就するためであった(マタイ5:17).しかもキリストが満たした神の義は,私たち罪人を義とするためのものであった(Ⅰコリント1:30).キリストの死は神の前での罪人の不義に対するさばきであり,復活はキリストへの信仰によって神の聖なる民とされる者に対する保証である(ローマ4:25).<復> 今や神の義は,キリストを信じる信仰による救いという形で全世界に最終的に与えられた,というのが新約聖書の一貫する主張である(ローマ3:21‐26).<復> (3) 人の義.以上の考察から,キリストのわざを正しく理解し,その贖罪を信じ受け入れることが,神の基準を満たし,神の民としての生活を始める基礎であることがわかる.それは人の努力や功績ではなく,あくまでもキリストを通しての神の承認であり,生れながらに神の前に罪人である私たちが神の前に正しいと認められる恵みである.それと同時に,神の恵みはキリストにある者を聖化へと導く.神の民としての聖別である.それはツェダーカーに慈善,仁愛,情けの意味が含まれ,マタイ6:1にも善行の意味の「義」が見られるが,キリストにある者にはさらに,神からの恵み,聖霊の実としての良きわざが与えられる(ガラテヤ5:22,23).このように,神の義はキリストを信じる者の全生活を支配し,神の民としてふさわしい者にする恵みである(テトス3:1‐8を特に参照のこと).<復> 「神はわたしたちの罪のために,罪を知らないかたを罪とされた.それは,わたしたちが,彼にあって神の義となるためなのである」(Ⅱコリント5:21口語訳).<復> 3.教会の歴史における義.<復> 「原義」「義認」についてはそれぞれの項目を参照のこと.ここでは「義認の教理」の歴史的推移を簡単に紹介し,「罪」「贖罪」「義認」「聖化」などの関係を見る.<復> (1) 宗教改革以前.信仰によって義とされる,ということについては初期の教会教父たちも語ってはいたが,信仰と義認との関係についての明確な理解がなかったし,また再生と聖化を厳格に区別していなかった.再生は洗礼によって与えられるものでそれは罪の赦しを含んでいる,というのが一般的な見解であった.アウグスティーヌスは罪人の救いにおいて神の恵みが自由に,主権的に,効果的に働くのであって,決して人の功績によるのではないことを認めたが,法廷的な行為である義認と道徳的過程である聖化との区別を明確に理解していなかった.この義認と聖化の混同は中世になってトマス・アクィナスに受け継がれ,ローマ・カトリック教会の教義となった.すなわち,罪人に恵みが注入され,罪人は正しいものとされる,そしてこの注入された恵みに部分的に支えられて,罪が赦免される,というものである.このように義認の教理の中に聖化の教理を組み入れることは,罪人が部分的に自分の良いわざによって義とされるという考えを増加させる.トリエントの公会議は「罪人が義の恵みを受けるためには協力が要求され,自分の意志を働かせる準備をする必要のあることを認めないものは,呪われよ」「与えられた義が良き業によって神の前に保たれ増加することを認めず,良き業を単に与えられた義の結果と考える者は呪われよ」と宣言するに至ったのである.<復> (2) 宗教改革以後.義認の教理は宗教改革の重要な実質的な原理であった.宗教改革者たちは,義認と聖化との混同の誤りを正し,義認の法廷的な性格を強調し,それを神の自由な恵みの行為と考えた.そして義認は神の前に罪人の罪を赦し,正しい者と認めることであるが,罪人の内部を変化させるものではない点を強調した.これによって,再生者に注入された恵みと良きわざが義認の根拠となるというローマ教会の考えを否定し,義認がキリストの義の転嫁にのみ基づくとしたのである.また義認がキリストへの信仰によって価なく,ただちに与えられるものであって,罪の償いに依拠するものではないことも明らかにした.<復> それ以後の歴史においても,キリストの義の転嫁の解釈や,義認の理解において,神学的な論争がなされてきた.義認と聖化の関係と区別を明確に理解することは旧約聖書以来の課題であり,イエスにおける普遍的,決定的な義認と聖化の啓示は宗教改革者たちによって正しく理解され,提示されたのであるが,キリストの義に基づく人の義の行為は,現代における倫理的問題として,今後も真剣に考えられなければならない課題である.→神の属性,義認,原義,正義.<復>〔参考文献〕『新聖書・キリスト教辞典』いのちのことば社,1985;N・H・スネイス『旧約宗教の特質』日本基督教団出版局,1964;Berkhof, L., Systematic Theology, Banner of Truth,1949.(富井悠夫)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社