《じっくり解説》からだの神学とは?

からだの神学とは?

からだの神学…

からだ,肉体を表す語は旧約では[ヘブル語]バーサール(からだ,肉),新約では[ギリシャ語]ソーマ(からだ),[ギリシャ語]サルクス(肉,肉体)である.<復> 1.肉体.<復> 聖書には,人間のからだばかりでなく動物のからだについても言及されている(創世15:11,士師14:8,9,ダニエル7:11,ヘブル13:11,ヤコブ3:3).植物のからだについても一箇所だけ言及がある(Ⅰコリント15:37,38).天上のからだ,地上のからだについてもやはり一箇所Ⅰコリント15:40に言及がある.天使については,肉体を持っているとする明確な言及はないが,人間としばしば見間違われており,外見は人と似ていたようである(創世18:2,16,エゼキエル9:2,ダニエル10:5,6,10,18,12:6,7,黙示録20:1).<復> (1) 地に属するからだ.聖書に最もよく出てくるからだは人間のからだである.からだを肉体以上のもの,人格全体として考えるのが一般的となっているが,[ギリシャ語]ソーマとは人間の肉体そのもののことであるとする説(R・H・ガンドリ)がある.もう一つの肉体を表すことばは[ギリシャ語]サルクスである.[ギリシャ語]サルクスは人間の肉体(ヨハネ3:6,ガラテヤ2:20,4:13,ピリピ1:22,24),またはキリストの肉体(ローマ8:3,コロサイ1:22)を指す.[ギリシャ語]ソーマは[ギリシャ語]サルクス同様,情欲に従うもの(ローマ6:12)であり,死ぬべきもの(ローマ6:12,8:11.参照Ⅱコリント4:11)であるが,幾つかの点で異なっている.(a)からだは変えられるものであり,聖霊が住まわれるところである(ローマ8:11,Ⅰコリント6:19).しかし肉の中には善は何も住まない(ローマ7:18).(b)からだは主のため,主の栄光を現すためのものである(Ⅰコリント6:13,20)が,肉は神を喜ばすことはできない(ローマ8:8).(c)からだは罪の道具というよりは義の道具である(ローマ6:12,13)が,肉は罪の働く手段となり(ガラテヤ5:13),神に反抗するものである(ローマ8:7,ガラテヤ5:16,17).(d)からだは贖いと復活を待ち望む(ローマ8:23,Ⅰコリント15:35‐49)が,肉は復活することができず(Ⅰコリント15:50),死に定められている.<復> からだと肉の本質的相違は,からだは変えられるが,肉は変えられないということである.からだは罪と義どちらの道具ともなり得るが,肉は罪の道具とだけなり,義の道具とはなり得ない.[ギリシャ語]サルクスは神から離れた人間,[ギリシャ語]ソーマは神に向けられて造られた人間を指すものと見てよい.<復> 人間はからだと魂(霊),物質的本質と非物質的本質の二構成要素からなる複合的統一体である.からだだけでもなければ魂または霊だけでもなく,両者の複合体である.両方とも贖いを求めており,永遠に生きる.<復> (2) 復活のからだ.人が死ぬと非物質的本質と物質的本質の分離が起る.死の時,肉体は腐敗が始まるが存在し続ける.キリスト者にとってはからだは主の再臨を待って眠っているのである(Ⅰコリント15:6,18,Ⅰテサロニケ4:13‐16).キリスト者の魂はただちに主のみもとに行く(Ⅱコリント5:6‐8).<復> パウロはⅠコリント15:35‐49で復活のからだについて語っている.そこではそれは復活前のからだである「血肉のからだ」と対比されている.「血肉のからだ」とは地上的存在としての死ぬべき肉体を指す.復活のからだは「御霊のからだ」(Ⅰコリント15:44)とここでは表現されている.これはからだの構成が御霊であるというのではなく,御霊によって支配される物質的からだのことを指している.それは不死で,天的な実在である(同15:50‐53).復活のからだとは,キリストの復活を多くの人が見ていることから(Ⅰコリント15:5‐8),観察できる物体であることは確かであろう.キリストの復活のからだは福音書,使徒の働きにおいても弟子たちの前に示されている(マタイ28:9,10,マルコ16:9,12,14‐18,ルカ24:13‐52,ヨハネ20:14‐21:25,使徒1:1‐11).キリストの復活のからだは復活前のからだと,息をする(ヨハネ20:22),食べる(ルカ24:42,43)などの点で共通しているが,すぐにはわからない(ルカ24:16‐31,ヨハネ20:14,21:4),戸や壁を通り抜ける(ヨハネ20:19,26,ルカ24:36),長距離を迅速に移動できる(マタイ28:7‐10)などの点で異なっている.以上から次のように結論できよう.復活前と復活後のからだは,朽ちるもの—朽ちないもの,卑しいもの—栄光あるもの,弱いもの—強いもの,血肉のからだ—御霊のからだ(Ⅰコリント15:42‐44)と対比されているが,両方とも肉体的,物質的であることに変りはない.<復> 2.キリストのからだ.<復> (1) 肉体.新約はキリストの肉のからだを死との関係において特に語っている(マタイ27:58,59,マルコ15:43‐45,ルカ23:52,24:3,23,ヨハネ19:38,40,20:12,コロサイ1:22,ヘブル10:10).これは主が確かに肉体の死を遂げられたことを証言するものである.主はまた空腹感を覚え,食べ,飲み,疲れを覚えられた.主は地上にある間,他の人間と同じように弱さを持っておられた.<復> (2) 聖餐.最後の晩餐の時,イエスはパンを裂き,言われた.「これはわたしのからだです」(マタイ26:26,マルコ14:22,ルカ22:19,Ⅰコリント11:24).過越の食事が主の聖餐の制定となり,パンを裂くことはイエスが全人類のために身代りの死を遂げられることの象徴となった.パウロはコリントのキリスト者に「ふさわしくないままでパンを食べ,主の杯を飲む者があれば,主のからだと血に対して罪を犯すことになり」(Ⅰコリント11:27),また,「みからだをわきまえないで,飲み食いするならば,その飲み食いが自分をさばくことになる」(同11:29)と警告している.従って,主の聖餐を汚す者は罪の贖いとしてのイエスの肉体的死に対して罪を犯すものであり,コリント人の中には肉体的さばきを受けていた者が多くいた(同11:30).<復> (3) 教会.[ギリシャ語]ソーマは神学的にはキリストのからだまたは教会を指す(ローマ12:5,Ⅰコリント10:16,17,12:12‐27,エペソ1:23,2:16,4:4,12,16,5:23,30,コロサイ1:18,24,2:19,3:15).これは「からだ」の比喩的表現である.キリストはこのからだのかしらである(エペソ1:22,4:15,5:23,コロサイ1:18,2:19).信徒は聖霊によってキリストに結合され,一つのからだとなる(エペソ4:4‐13).からだの部分としての信徒一人一人とその相互の関係は,信徒相互の関係,信徒とキリストの関係において,キリストのからだにおける統一性と多様性の関係として表現されている(Ⅰコリント12:12‐30).教会としてのキリストのからだは一地方教会という状況の中で多様な霊的賜物を持ちながら一つに機能する(ローマ12:4‐8,Ⅰコリント12:12‐30).<復> 特にキリストがみからだなる教会のかしらであることは「キリストにある」([ギリシャ語]エン・クリストー)という概念によってよく表現されている(ローマ12:5).さらにキリストがかしらであるとは神学的に契約的かしらであることを意味する.神は御自身の民を契約の民として選び出し(Ⅰペテロ2:9),「キリストにあって」永遠の祝福にあずかる者として下さった(エペソ1:3‐5).彼らは終りの日にキリストとともによみがえらされる人々である(ヨハネ6:39,エペソ2:6,コロサイ3:1).<復> キリストのみからだなる教会には聖霊の交わりが与えられている.ペンテコステにおける聖霊の降臨は,御父と御子の約束(ヨハネ14:18,使徒1:4)の実現である.御霊の交わりにより,主は,教会を罪と死から解放し,愛による聖なる交わりを創造し(ガラテヤ5:22),栄光の前味(まえあじ)とともに苦難をも与えられる(ローマ8:14‐17).教会における御霊の賜物は分裂ではなく一致である.御霊は神をたたえ,聖徒を整え,世へのあかし(宣教)へと教会を向けさせる.<復> 以上見てきたように,「からだ」という語の意味するものは肉体,物質的からだである.また比喩的用法においても肉体としてのからだに類比されている.そして人間は単なる肉体的からだ以上のもの,物質的本質と非物質的本質を同時に持つ人格的複合体である.<復> 3.からだと現代.<復> 現代は個人主義の時代である.キリストから離れた人間の自己は自己高揚と病的自己否定の間を乱高下する.こうして自己をのみ見詰めることによって神と他者との関係における断絶が生じてくる.キリストによる再生にあずかった個人はこの断絶から解放され,キリストのからだの部分として機能していく.「負うべき自分自身の重荷」(ガラテヤ6:5)を積極的に負うことによって,神の前における自らの責任を果していくと同時に,同じからだの弱い部分,負い切れないで倒れそうになっている部分の「重荷を負い合い」「キリストの律法を全う」(同6:2)するようになるのである.教会が身体・精神障害者,社会的弱者と言われている人々を積極的に受け入れることによって,「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が,かえってなくてはならないもの」(Ⅰコリント12:22)となっている社会的モデルとしてこの世に自らを提示していきたいものである.<復> さらに,国際化時代における日本の教会の役割を考える時に,世界的レベルのキリストのからだを認識しなければならない.日本の福音主義キリスト教会は戦後,大挙して福音宣教を開始した西側宣教団に多く依存してきた.戦後半世紀を経過した今,日本の教会は世界的キリストのからだの「比較的弱い部分」を積極的に担い,世界福音主義共同体の中で積極的にその責務を果さなければならない.宣教師を大量に派遣し,現地教会にしもべとして仕えていかなければならないのである.従来,日本の教会は自己閉鎖的で,エネルギーと関心を自国内,自教団内,自教会内のみに注いできた.これは日本人の仲間意識,甘えの精神構造の現れと見ることができよう.こうした体質を改め,聖書的キリストのからだとしての意識転換を計り,これを世界的レベルにまで拡大していくことこそ,21世紀における日本教会の使命ということができよう.→人間論,教会・教会論,肉.<復>〔参考文献〕Clowney, E. P., “Toward a Biblical Doctrine of the Church,” Westminster Theological Journal, Nov., pp.22—81, 1968 ; Gundry, R. H., So~ma in Biblical Theology, Zondervan, 1987 ; Hoehner, H. W., “Biblical View of the Body,” Evangelical Dictionary of Theology, Baker, 1984 ; McDonald, H. D., The Christian View of Man, Marshall Morgan & Scott, 1981 ; Hoekema, A., Created in God’s Image, Eerdmans, 1986.(山口勝政)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社