神道とキリスト教とは?
神道とキリスト教…
1.神道の分類と基本概念.<復> 「神道」という言葉が文献上初めて登場するのは『日本書記』(720年)である.用明天皇(585—587年在位)即位前紀に「天皇信仏法尊神道」,また孝徳天皇(645—654年在位)即位前紀に「天皇…尊仏法軽神道」と出てくる.いずれも仏教との対比で使用されていることから,当時の人たちは,外来の宗教文化に遭遇して初めて,先祖からの神祇祭祀を自覚的に「神道」なる言葉で表現したものと考えられる.従って神道を,仏教や儒教が伝来する以前から日本列島に存在していた神々の祭祀の総称,と定義するのがよいだろう.<復> 今,神道を便宜的に次の5領域に分類する.すなわち,民間神道(民俗神道),神社神道,皇室神道(宮中祭祀),学派神道(神道説),教派神道の五つである.<復> 民間神道は各地の民俗として行われているイエやムラの祭で,その原型は古いものでは,採集狩猟生活をしていた縄文時代の生産儀礼までさかのぼる.<復> 神社神道は宗教施設としての神社を中心に営まれる宗教である.その一部には採集狩猟生活時代の名残をもとどめているが,大部分は弥生時代以降の農耕儀礼として発達した祭が中心である.神社の祭神の多くは,土着の氏神・産土神・鎮守神などであるが,中には記紀神話の人格化された神々もある.<復> 皇室神道は,もともと天皇家の宗教である.古代王権国家成立の時期に,地方豪族の神祭祀をも包摂して記紀神話の神々の体系(パンテオン)を構成し,国家的性格を持たせ宮中祭祀として展開していった.<復> 学派神道は,神道における理論化の試みであり,各時代に仏教や儒教の影響を受けながら様々なタイプの神道家を輩出した.それらは教団を形成するには至らなかったが,復古神道のように国家の動向に多大な影響を与えたものもある.<復> 教派神道は,幕末維新期に誕生した創唱宗教や山岳信仰などを国家神道下で再編したものの総称である.<復> 採集狩猟時代や稲作農耕時代の生活様式は8世紀に編纂された古事記・日本書紀の中にも見出せる.例えばホヲリノミコト(山幸彦)とホデリノミコト(海幸彦)の話や,スサノヲノミコトが高天原に来て田のあぜを切り取って水を干すなどの悪業を働いた,という神話の形で表現されている.大和朝廷は全国を統一する過程において,地方の土着の神々や豪族の祖先神などをも包摂しながら自らの支配権を確立し,そしてそれを政治・祭祀・軍事の機能を持つ天津(あまつ)神,また生産者・土地の主の機能を持つ国津(くにつ)神として,神々の体系に分類していったのである.そのことは,律令国家の政治制度の中に太政官以外に,中国には見られない神祇官という官職を置き,天神地祇の祭を統轄したことにも現れている(「律令神道」と呼ばれる一種の国家神道).<復> 神道は朝廷でも民衆の世界でも,仏教と習合しているのが普通であったが,明治維新の神仏分離により,仏教色を排除した神道一色の宮中祭祀というものが始まった.これらの祭祀は宮中三殿で執り行われている.宮中三殿とはアマテラス(天照大神)を祭る賢所,歴代天皇の祖霊を祭る皇霊殿,天神地祇八百万神を祭る神殿の三つである.祭祀は大祭と小祭の二つに分けられ,大祭には元始祭,紀元節祭,新嘗祭など13の祭祀があり,天皇自ら神主として祭を執り行う.このうち天皇即位の後に行う新嘗祭は,特に大嘗祭と呼ばれる.<復> 神社神道は自然発生的な民族宗教であるから,キリスト教のような意味での正典も教理もない.強いて言えば『古事記』『日本書紀』『延喜式』などの神道古典が神典であり,そこから神の概念,罪の概念,儀礼方式などを抽出することができる程度である.<復> 神道の神や罪の概念は,本居宣長の次の定義以上には出ない.「何にまれ,尋常(よのつね)ならず,すぐれたる徳のありて,可畏(かしこ)きものをカミとは云うなり」(『古事記伝』巻三).また罪については「凡て都美(つみ)は…諸(もろもろ)の凶事を云.其は必しも悪行のみを云に非ず.穢(けがれ)又禍(わざわい)など,心と為るには非で,自然(おのずから)にある事にても,凡て厭(いと)い悪むべき凶事をば,皆都美と云なり」(同,巻三十).<復> 天津神・国津神に対応して天津罪・国津罪が数えられているが,これらもキリスト教で言う罪とは違い,安定した宇宙(コスモス)の均衡の破壊,というほどの意味である.イザナキが黄泉国から逃げ帰り,その死穢をきよめるための禊祓(みそぎはらえ)をした『古事記』の話は有名であるが,罪穢(つみけがれ)の禊祓は神道祭祀の中心である.<復> また宇宙論についても,天津神のいる高天原,日本国土としての葦原中津国(あしはらのなかつくに),死者の行く所とされる地下の黄泉国(よみのくに)(または海のかなたの常世国〔とこよのくに〕)といった程度の,古代神話に共通の概念しかない.救済の教義については全くないと言ってよい.しかしそれに飽き足らないで,仏教や儒教やキリスト教の高度な形而上学を借りて神道を理論化しようとした人々も,以下のように存在した.<復> 2.学派神道とキリスト教.<復> 伊勢神道は,鎌倉時代に伊勢神宮の外宮の神職の家柄である度会(わたらい)氏が唱えた.そこでは『日本書紀』にその名が見える″渾沌(こんとん)″を万物の根元の神と呼び,諸神諸仏も人間もすべてこの神に帰着するとして,神道の主体性を保とうとした.<復> 吉田神道は室町時代に吉田(卜部)兼倶(1435—1511年)によって大成された.彼によれば,宇宙の根本神格である虚無太元尊神は『日本書紀』の冒頭に出現する国常立尊のことで,森羅万象はこの神に起因すると言う.世の中に存在するすべての道(法則・規範)はことごとくこの根本神格からの派生であり,これを1本の樹にたとえれば,枝葉に当るものが儒教,花や実に当るものが仏教,幹や根に相当するものが神道である,とした.吉田神道は,江戸時代になると幕府の命により,仏教の支配を受けない神社の大半を支配した.<復> 江戸時代前期には,儒教の一派である朱子学の影響のもとに,吉川惟足(1616—94年)による吉川神道や山崎闇斎(1618—82年)による垂加神道が唱えられた.また後期には本居宣長(1730—1801年)が仏教や儒教と習合したそれまでの諸神道説を批判し,古典の克明な研究を通じて理解される古神道の精神に復古すべきことを主張した.彼は皇室の祖先神としての天照大神を重視し,その子孫としての天皇を崇拝することを説いた.宣長の後継者平田篤胤(1776—1843年)の神道は,キリスト教の影響を強く受けている.<復> 3.平田神道とキリスト教.<復> 平田篤胤は当時禁書となっていたキリスト教書をひそかに中国から入手して読み,それを彼の思想に取り入れた.『本教外篇』(上・下)という彼が31歳の時の著作は,上巻がM・リッチの『畸人十篇』の意訳及びG・アレーニの『三山論学紀』の改訳,下巻はD・パントーハの『七克』の翻訳である.そこには全能の創造神,三位一体,原罪,死後審判などのキリスト教教理が紹介されている.例えば,「天地の運行,万物の化生,みな天帝の全能に係らざるは無し.然れども善悪の事を論ずるに至りては,此を委曲に本教の古伝に考うるに,天帝に混帰すべからず.天神は至善なり,人は上帝に生ぜらる」とある.ここでこの世の悪について,その責任を人間に帰しているところは,彼の師の宣長が禍津日神という神に帰しているのと比べて,一歩前進していると言えよう.<復> また『霊の真柱(たまのみはしら)』や『古史伝』では,キリスト教教理をさらに深く神道理論と関係付けている.その特徴は,第1に主宰神としての天之御中主神の登場,第2に死後審判の思想の出現,第3に宇宙支配の構造にある.<復> まず,天之御中主神に宇宙すべてを支配する主宰神としての位置を与えている.『古事記』の冒頭の部分の「高天原」をより一般的な「天御虚空」と改ざんし,「天地未生之時,於天御虚空所成坐神之御名者,天之御中主神,次高皇産霊神,次神皇産霊神」(あめつちいまだならざりしとき,あまつみそらになりませるかみの御名は,あめのみなかぬしのかみ,次にたかみむすびのかみ,次にかむみむすびのかみ)(『霊の真柱』)とし,天之御中主神,高皇産霊神,神皇産霊神をもって三位一体神になぞらえる.<復> このような神として天之御中主神が登場したことは,それまで神道ではあまり明確でなかった宇宙全体の支配構造の見通しをよくしたと言えよう.また,天孫降臨以前にこの国土を支配していた大国主命は,それを天皇の祖神たちに譲った後は幽世(死後の世界)に行き,そこで死後の人間に対して審判を行う役割を与えられる.ただその賞罰の基準は,顕世(現世)で「産霊大神の命(おおせ)賜える性(まごころ)」に背くか否かであり,それは結局は,天皇の支配に対する服従があるかどうかということに帰着するのである.<復> さらに,アダムとエバの話を「皇国(みくに)の古伝の訛(よこなま)りと聞えたり」(『霊の真柱』)とするなど,皇国中心主義を露呈している.<復> 結局のところ篤胤の思想は,神道の肉付けをするためにキリスト教を利用しただけであって,そこにキリスト教的な価値を何一つ見出すことはできない.<復> しかしながら篤胤の没後,平田派復古神道の尊皇主義を信奉する者は,諸藩の下級武士・神職・地主・在郷商人等の各層の間で急激に増加し,門人は千人以上に達した.<復> 4.国家神道.<復> 国家神道とは,現人神としての天皇崇拝と神社参拝を強制する国家宗教のことで,明治維新(1868年)から太平洋戦争敗戦(1945年)までの約80年間にわたり,日本人のみならず植民地化した朝鮮や台湾の人々の精神生活を縛った.朝鮮では神社参拝強制を拒否したキリスト者500人が投獄され,50人が殉教したと言われる.<復> 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第3条)と定めた大日本帝国憲法(1889年発布)下では,信教の自由は「臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」(第28条)という条件付きで存在しているにすぎなかった.仏教・キリスト教・教派神道13派までは公認されたものの,それ以外の宗教団体は,不敬罪や治安維持法で取締りの対象となったのである.<復> 敗戦とともに連合国最高指令部は,いわゆる「神道指令」を発し(1945年12月15日),国家と神社宗教の完全な分離を命じた.翌年元旦,天皇は「人間宣言」をし,これら一連の民主的精神は,日本国憲法における無条件の信教の自由へと受け継がれた.<復> 戦後20年たって,靖国神社を国営化するための「靖国神社法案」が国会提出された(1969年)頃から,憲法の定めた信教の自由は再び骨抜きにされる危険が出てきている.<復> 神社神道は現在でも戦前と同様,教義上,天皇を現人神(生き神)としている.その意味で,特定の宗教団体の生き神を日本国の象徴と規定している現在の憲法が,宗教構造という観点から見れば大きな矛盾を抱えていることに注意しなければならない.→日本の宗教,諸宗教とキリスト教,天皇制とキリスト者,日本の祭とキリスト者,冠婚葬祭とキリスト者,政教分離.<復>〔参考文献 〕村上重良『国家神道』岩波新書,1970;海老沢有道『南蛮学統の研究』創文社,1958;大林太良『日本神話の構造』弘文堂,1975.(稲垣久和)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社