《じっくり解説》善とは?

善とは?

善…

1.用語.<復> [ヘブル語]トーブは「快適である」「喜ばしい」などの意味で,おもに人間の五感を喜ばせることと,そこから来る審美的または道徳的満足を指す.それゆえに善はしばしば「好ましきもの」と密接に結び付いており,「人の娘たちが,いかにも美しいのを見て」(創世6:2)とか,「良いいちじくは(食べるのに)非常に良く」(エレミヤ24:3)というように使われている.人間にとって良い(good)ものは,しばしば生活必需品や,社会的立場を誇示するものであるため,経済的な価値を生み,従ってこれらのものは品物や財産(goods)となった.約束の地が「良い地,乳と蜜の流れる地」(出エジプト3:8)であるのはその意味なのである.<復> 70人訳聖書では,[ヘブル語]トーブを[ギリシャ語]アガソスまたは[ギリシャ語]カロスに当てはめ,物質的または道徳的な資質としての善を意味するものとしている.新約聖書では,名詞としての「善」とともに,二つの形容詞「正しい」と「良い」とを互換的に使用している(参照ローマ7:12‐21).<復> 「良い」ということばが理解されるのは,あるものが優れていることをほめる際に使われる時である.「良い本」とか「良い食べ物」と言う時に使う「良い」は,倫理的な意味を持っていない.ところが,誰かが「あの人は良い人だ」と言う時には,倫理的な意味を持つ.後者のように倫理的な「良い」には,行動や品性や動機などが含まれているからである.<復> 2.善の用法.<復> 善は聖書では様々な意味に使用されており,次に挙げるように多くのニュアンスを持っている.(1)ある目的を果すために有用である(エペソ4:29),(2)好ましい(創世39:6),(3)益となる(Ⅰコリント12:7),(4)ふさわしい(士師10:15),(5)豊かな(ヨシュア1:7),(6)気前がいい(マタイ20:15),(7)健全である(マタイ12:33),(8)あらゆる点で優れている(箴言31:10),(9)道徳的に正しい(申命6:18),(10)公正(イザヤ1:17).「善悪のわきまえのない」という表現(申命1:39)は,全然知識を持っていない,または見分ける能力を持たないことを指すヘブル的な言い方であると推察される.<復> 3.定義.<復> 何が良いのかという問は,善とは何かという定義の問題となってくる.この問に対する解答は,答える人の哲学的または宗教的な立場によって異なる.一般的には自分にとって快適なものを善,不快なものを悪というように考えがちである.<復> (1) 哲学の善.哲学者の間でも,定義については「善とは欲望の満足である」(B・ラッセル)から「善は定義できない」(G・E・ムーア)まで見解が分れている.哲学的には,善の概念は倫理学と価値論において扱われている.前者では,道徳的に賞賛に値する性格,行動または動機を善とし,後者では,他者に依存せずそれ自体に価値を持つ固有の善と,ある目的のための手段として価値を持つ道具的もしくは外在的な善を言う.ここから,客観的対主観的,一時的対永遠的,物質的対霊的,及び目的対手段としての善,などの区別が生れてきた.ソークラテース,プラトーン,アリストテレースなどは,このような善の多面性を明白にし,統合しようと試みたのであるが,彼らの思想は,アウグスティーヌスやトマス・アクィナスに大きな影響を与え,キリスト教信仰と関係付ける論議がなされた.両者は,物質的善と霊的善とを結び付けることにより善の中に段階を設け,神を最高善(Summum bonum)とし,神より低いすべての善の源とした.倫理的な悪は人が低い善(非倫理的)それ自体を欲する時に存在するようになる.しかし低い善への願望が,神を愛する手段である時には,祝福(倫理的な善)になる,とした.両者の神中心的な考えは,善の概念の統合に重要な第一歩を踏み出したのであるが,精神的なものを善とし,物質的なものを悪とするギリシヤ思想に依存したために,物質的な快楽,特に性的欲望などに善を見出すことができなかった.また最高善を得るための人間の努力という概念は,後にルターなど宗教改革者たちによって批判された.<復> (2) 聖書の善.神の絶対的な善は,「尊い(直訳「良い」)先生」とイエスに呼びかけた青年に対して,イエスが「尊い方(直訳「良い方」)は,神おひとりのほかには,だれもありません」(マルコ10:17,18)と言われたことばによって断定的に宣言されている.プラトーンもアリストテレースも,「善」を思想の中心に置き,最高善について語ったが,両者とも善の基盤としての生ける,人格的な神へとは至らなかった.ここに,前述した哲学者たちの善の非人格的な概念と,聖書の善なる神の人格性とが,相違することが語られているのを見る.神が善であるなら,神と人間の基準との関係はどうなのであろうか.ギリシヤ人にとってのジレンマは,事物が善なのは,神々がそう宣言したからなのか,それとも善という客観的な基準に人があずかるからなのか,であった.聖書はこの問に対して,神が基準である,と答える.キリスト教の立場は,道徳は快楽に基づいた主観的なもの,というエピキュリアン(快楽主義者)よりは,客観的な基準を主張したプラトーンの主張により近いものであった.<復> 4.善の意味.<復> キリスト者にとっては,善の意味は,聖書に示されている神の中に,完全かつ絶対的に見出される.神が善であり,善をもって行動され,またすべての善の源であることは,聖書全体にわたって,人間による神への賛美と賞賛とをもって明白にされている.聖書で言う善は,抽象的な概念や,世俗的な人間の理想などではない.道徳的及び霊的な善の概念は,異教文化の場合とは異なり,神学的な意味を持っている.最も深遠で絶対的な意味での善は神にのみ帰せられる.キリスト教の場合は,生ける真の神との人格的な関係が親密であるゆえに,抽象的なギリシヤ的な立場よりもっと内容的には明白である.「善を抽象的概念でのみとらえると現実の生活とのかかわりを失うのである」(ボーンヘファー).聖書は善が神の本質と御心との関係から定義されるべきことを教えている.善とは,神の栄光を現し,御心を成就し,本質にかなったものなのである(参照ローマ12:2).善に関するキリスト者の理解の独自性は,万物を創造し,被造世界と契約を結ばれた三位一体の神を啓示した聖書によって形成されたことにある.創世1章において,創造のみわざのそれぞれの区切りに,後奏曲のように「神は見て,それをよしとされた」と繰り返されているが,これこそが神のみわざの秩序ある姿なのである.神による最初の被造物はみな非常に良かった,とあるが,それらは本来的に善であったというのではなく,善である神が造られたからなのである.御自分の民を取り扱われる神のわざも,贖いの計画,族長への約束,エジプトからの救出などは,すべて「良い」と言われている.善は何よりもまず神御自身であり,神のなすわざを意味している.<復> 5.善の問題.<復> 人類の堕罪後,聖書は,「善を行なう者はいない.ひとりもいない」(詩篇14:3),「私は,私のうち,すなわち,私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています」(ローマ7:18)と告白する.にもかかわらず,預言者は次のように語る.「主はあなたに告げられた.人よ.何が良いこと([ヘブル語]トーブ)なのか.主は何をあなたに求めておられるのか.それは,ただ公義を行ない,誠実を愛し,へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)と.特に預言者アモスは,3回繰り返した礼拝への招きのことば「主を求めて生きよ」の3番目で,神と善とを同一視して,主を善に言い替えている(アモス5:4,6,14).神を求めるとは,善を求めることなのである.預言者においては,悪を憎み善を行うことが,公正を求め,圧迫を矯正し,孤児ややもめたちを守り,弁護することと同じことと見なされている(イザヤ1:12‐17).<復> 堕罪後,誰も善を行う人がいないのに,善を行えという預言者の勧めと調和させることは容易ではない.善を行い得る者が誰もいないのに,道徳的な勧めをすることは,無意味となるのであろうか.それでは善を行う者の上に祝福がある,という聖書の中の神の約束が偽りとなるかもしれないのである.これに対しては,神が一般恩恵をもってある種の善を行わせる,ということで,部分的な解決を見ることができる(マタイ5:45,7:11).それは「すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られた」(ヘブル9:11)キリストの贖いのわざのゆえにそうできるのである.<復> 善が人間と結び付く時には,神との交わりのうちに生き,神の御心に従って行動する者を良き人と言った.このような人は,「善を選び」(イザヤ7:15),「善を行なう者は神から出た者である」(Ⅲヨハネ11節)が,それは神の助けによってのみ可能となる.なぜなら生れながらの人間には,「善を行なう人は…ひとりもいない」からである(ローマ3:12).イエスが言われたように,人は良い実を結ぶ前に良き者とされていなければならない(マタイ12:33‐35).使徒パウロによると,キリスト者は「良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られた」(エペソ2:10)のであり,「善をもって悪に打ち勝つ」(ローマ12:21)ことができるのである.他者に対して善を行う者には,神は永遠のいのち(ヨハネ5:29)や勝利をお与えになる.<復> もう一つの困惑を覚える問題は,善なる神と悪との関係である.神は罪人を物理的な悪でもって罰せられることがあるかもしれない.しかし神は御自身の真実のために,個人に対しても共同体に対しても,悪をも善に変えられることがある(創世50:20,エレミヤ32:40).時には神は御自身の民の忠誠を試すために,悪を一つの手段として用いられることもある(申命8:16).ローマ8:28の約束は,キリスト者によってしばしば軽率に引用されるが,ここで言われている「益」([ギリシャ語]アガソス)とは,個人的な富や健康を指すのではなく,御子の姿に似る,ということなのである.神の善とは目先の慰めではなく,人類のための長期にわたる幸福という面から見られるべきである.神の善という面を考える時,神の比類のない優れた知識と知恵とを心に留める必要がある.われわれは,自分自身の幸福についても,最善かつ誤りのない判断を下せるとは限らない.人間としての有限性のゆえに,しばしば不完全なデータに基づいてなすことが多い.しかし神は,同じ事柄を全く違った形で判断されるのであり,何がわれわれにとって一番良いのかを知っておられるのである.究極において善なる神は,計画をもって良き結果をもたらし,悪(サタン)に対して終末的な勝利を得られるのである.→神の属性,悪.<復>〔参考文献〕Douglas, J. D. (ed.), New Bible Dictionary (2nd ed.), IVP, Tyndale, 1982 ; Elwell, W. A. (ed.), Evangelical Dictionary of Theology, Baker, 1984 ; Erickson, M. J., Christian Theology, Baker, 1983.(伊藤淑美)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社