《じっくり解説》キリスト者の社会的責任とは?

キリスト者の社会的責任とは?

スポンサーリンク

キリスト者の社会的責任…

初代教会以降,キリスト者は責任をもって社会に参与することに常に疑念を抱いてきた.現代に生きる者も例外ではない.根本的な問題は,キリスト者は現に定着している社会秩序に責任を負えるか,ということであり,また,もし責任を負えなければこれを放置できるか,ということである.<復> 聖書はこの問に必ずしも明確に答えていない.この世と教会を「両方とも育つままにしておきなさい」(マタイ13:30)は,聖書的姿勢を代表するみことばである.これを表面的に解すると,極端な分離主義者か極端な妥協または日和見主義者が出てくる.パウロは再臨に賭けて日常生活に背を向けた者を戒める(Ⅱテサロニケ3:6‐15)一方,放縦に走った者には「すべてのことが私には許されたことです.しかし,すべてが益になるわけではありません」(Ⅰコリント6:12)と諭し,この世と教会のかかわりをより深い社会倫理的次元でとらえる必要をいろいろに示した.<復> さて,ここで,3点においてキリスト者が一般に社会的参与をためらう理由について見ておきたい.第1に,様々な感情がある.例えば,この世のことに深入りするのは危険ではないかという感情である.「キリスト者が社会に関心を抱きすぎるのは健全でない,とにかく他にもっと大切なことがあるのだから」.この背後には,恐れや疑念を抱かないで普通の牧会や教会生活をしたいという願いがある.少し突っ込むと,社会とその問題に関する無知が見られる.感謝すべきことに,地上生涯の中でイエスは,そうしたためらいに全く無縁であった.イエスは個人にも群衆にも,常に,「さあ,わたしは来ました.聖書のある巻に,わたしについてしるされているとおり,神よ,あなたのみこころを行なうために」(ヘブル10:7)という態度を持して相対された.しかも,神のみこころ(後述する「世俗化」のこと)のゆえに,「カイザルのものはカイザルに返しなさい.そして神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)で明らかなように,この世と神の国の構造(後述する「世俗化」を指す)を裏の裏まで知悉していて,前述したように「両方とも育つままにしておきなさい」と仰せられたのである.第2に,キリスト者にはみこころを行動に移せないきらいがある.これは上述した無知の当然の結果であるのかもしれないし,もともと「行ないのない信仰は,死んでいる」(ヤコブ2:26.参照マタイ13:19‐22)と言われる不信仰の帰結であるのかもしれない.しかし,多くの場合は「神が語られた」とは,また,「神が働かれた」とはどういうことなのかを,聖書から十分に学んでいない結果であると思われる.この二つの理解ができ,正しく関係付けられる時,一方で「神のことばはますます育ち」(使徒6:7私訳),他方で「主のことばもますます育ち」(使徒12:24私訳),共にみこころをなすに至るであろうことは言うまでもない.ちなみに前者は使徒など教役者の活動の発展を指し,後者は,行動が優先される(コロサイ3:17の「あなたがたの→すること/・・・・←は,ことばによると行ないによるとを問わず…」参照)一般信徒のあかしの拡散を指す.第3に,キリスト者には社会的参与の目的がなかなか理解しにくいことである.恐らく,三つのうちこれがためらいの最大の理由ではないかと思われる.目的とは,ほかでもない,「人間のため」ということである.これが意味するところは,「安息日は人間のために設けられたのです.人間が安息日のために造られたのではありません」(マルコ2:27)で明らかである.宗教的責任を理由に「人間のため」の責任を回避できないことは,良きサマリヤ人のたとえで明白であろう.<復> ところで,先にみこころを行動に移す必要について述べたが,その関係で聖書の特徴がよく現れている事柄を二つ見ておきたい.まず「そのように,わたしの口から出るわたしのことばも,むなしく,わたしのところに帰っては来ない」(イザヤ55:11)は,創世1章の「と仰せられた.するとそのようになった」を初めとして,みこころが地に落ちることはない(マタイ5:18)ことを直截に述べたみことばである.キリスト者はこの点を銘記しなければならない.この点に深く結び付いているのは,みことばを行動に移す際,聖書の例からすると,その行動には必ず苦難の要素が伴うということである.信仰の核心には,神が私たちに語り,苦難を通して私たちを救われたという確信がある.ヘブル11章の信仰の英雄も,この点で例外ではない.キリスト者の行動にこの側面が伴わない時,それはキリスト教的とは言えない.他方,この点が納得されている時,キリスト者はいかなる困難・嘲笑・迫害にもめげず,みことばを行う者となるのである.<復> みこころを行動に移すに当っては,さらにもう一つの視点が重要である.責任をもって社会に参与する際,恐らくこの視点ほど重要なものはないのではないか.すなわち,聖書によれば,ある事柄がみこころであっても,ただちにそれをすべての人が実践すべきであるという結論は得られないということである.例えば,サウル王はある日サムエルを待って全焼のいけにえをささげようとしたが,サムエルが来ないので自らの手でそれをささげ,神にさばかれた(Ⅰサムエル13:13,14).ウザの例もある.神の箱を牛車で運ぶ途中,引っ繰り返りそうになった箱を祭司でもないウザが手を出して支えようとし,彼もその善意にもかかわらずさばかれた(Ⅱサムエル6章).聖書ではこうした決りは,神礼拝に関する手続きにおいて最も明白である.これは礼拝がかつて最高度に整備された社会制度であったからで,比類なく霊的な事柄にこうした側面があったとすれば,他の事柄においては一層入念にこの側面の意味が探られなければならないのである.礼拝はまず,時代とともに形式上大いなる変化を遂げた.創世4:26に「人々は主の御名によって祈ることを始めた」とある聖書に出てくる最初の礼拝は,創世8:20で「祭壇の上で全焼のいけにえをささげ」という礼拝に変貌し,アブラハムの時代以降は幾つかの特定の土地の祭壇で礼拝が守られ,出エジプト後は幕屋での礼拝に発展した.ソロモン王の時代以降はさらに神殿礼拝になるが,この一切はイエスにより改廃され,「霊とまことによる礼拝」をする時代が来た.しかし,礼拝にいかなる形式もなくなったのではなく,「霊」に対応する「みことばの説教」と「まこと」に対応する「礼典」は今日まで「真の教会のしるし」と見なされている.<復> さて,この礼拝の全体を誰が司ったかをここで見てみたい.当初は家長であり,家長はより公的な礼拝が始まろうとしていた出エジプト前夜に,公的礼拝制定後も私的礼拝としての家庭礼拝を司る責任を付与され,この責任は新約聖書の教会の長老・監督・執事等の資格審査基準にされた(Ⅰテモテ3:1以下等).メルキゼデクがアブラハムを祝してからは,イスラエルの公的礼拝を司る任には家長以外の者が当る道が開け,モーセは祭司・レビ人を立てる一方,自らを預言者とし,さらに,しゅうとイテロの助言も入れて,族長らをまとめ,将来民の中から王が出される備えをした(ヘブル1:1).以後,祭司集団,預言者学校,王制支配が独自の発展を遂げるが,それはみこころでなかった.みこころは,これら職制の間に截然とした区別を設けるだけでなく,その相互間に神の社会性(→本辞典「社会倫理」の項)のうちに見出されるような調和を保つことにより,この三者がいずれも神をあかしすることであった.旧約の礼拝は神のこのような意図に添い得なかったため廃絶され,礼拝の全要素が神につながる,新約的というより全聖書的な礼拝に変えられなければならなかったのである.また,教会はそのようなものになる時,「両方とも育つままにしておきなさい」というイエスの御旨に添うものになるのである.<復> 今述べたことが責任をもって社会に参与することにどうかかわるかは,礼拝の職制のうちにもいわゆる「世俗化」を構成する「分化」「非統合」「統合」の3要素が見て取れることに注目すると理解できるようになる.世俗化という語は1648年のウェストファリア条約で,教会財産を君主らの手にゆだねることを指して,初めて使用された.これで中世以来懸案の政教分離に,ある決着が得られたが,事はその後世界各国でそれなりの法制化を見た.現代社会で世俗化はこれとは別の意味も持つ.M・ヴェーバーが現代資本主義と官僚機構を特徴付ける合理性と数理偏重の結果として指摘する世界の「魔力からの解放」がそれである.これは社会から,いかなる意味でもよくないと言える「神がかった」要素を取り除く上で,極めて重要な指摘である.しかしこれは,一つには社会における宗教(神)の必要感を払拭し,二つには教会の使命まで世俗的次元で考える結果,をはぐくんだ.「世俗化」がここまで来ると「世俗主義」に陥ることが明らかとなったのである.恐らく今ここで見逃せないのは,近世以来の現実である「分化」と,ヴェーバーの説く「非統合」とは,礼拝の発達のうちに見出される分化及び非統合の流れと軌を一にしているという点であろう.神は自ら歴史の主として「世俗化」を導こうとしておられ,全体としてプロテスタントはこの神の意図に応えてきたのである.しかし,ヴェーバー以後の状況は神の意図するところではなく,「世俗化」と区別された「世俗主義」として断罪されなければならなくなった.これを神学的倫理の問題の一つとしたのは,ドイツのF・ゴーガルテンとD・ボーンヘファーであり,イギリスのD・ライオンである.<復> キリスト者としての社会的責任の負い方に関係してこの「世俗化」の神学的理解で重要なことは,第1に,前述した「神のことば」と「主のことば」の並行する成長をそれが可能にすることである.第2に,キリスト教的行動には苦難という要素が伴うということと関連して,ヴェーバーにおいては必ずしも明白でない「非統合」の概念が本来はどの分野においても「自制」を求めており,それゆえにこそ「統合」,すなわち,あらゆる現実を,「分化」と「非統合」の後,なお聖書の「神」なる,創造と歴史と魂の主に,堅く結び付けることができるということである.また,この概念のゆえに,たといみこころであってもただちにそれをすべての人が実践すべきであるとは言えない—それゆえ,社会参与にためらいを感じる—という袋小路を越えて,賜物と能力を持つ人が適所を得て,この世で,「毒麦」と一緒になってでも,主のわざを行うという道が開かれるのである.<復> 以上で,例えば福音派のローザンヌ会議Ⅰがキリスト者の社会的責任を1974年に重視し始めてから,R・J・サイダー編『福音主義者と開発援助』(1981),D・エディントン『キリスト者と第3世界』(1982),R・J・サイダー編『80年代のライフスタイル』(1982),B・ニコルズ編『ことばと行ないにおいて』(1985),V・サムエル,C・サグデン共編『人間の必要に応える教会』(1988)等の論考,また,ローザンヌ会議Ⅱの直前シカゴで開催されたエバンジェリカル・アファメイションズ1989におけるO・ギネスの「福音主義者と教会・国家・市民宗教」のような主張がなされるようになったわけが理解されよう.今後福音派は,この理解の上に立って〈責任をもって〉社会に参与すべきであろう.→社会倫理,社会的福音,世俗主義・世俗的ヒューマニズム.(有賀 寿)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社