《じっくり解説》神のことばとは?

神のことばとは?

スポンサーリンク

神のことば…

1.旧約聖書.<復> 神の啓示は,「神のことば」([ヘブル語]デバル・ヤハウェ,デバル・エローヒーム)として与えられた.<復> (1) 預言者と神のことば.預言者はしばしば「主は仰せられた」「主の御告げ」等の定型句を用いて神のことばを告げた.また「主のことばが…にあった」という句も重要である.これらの句は,預言者は直接神のことばを聞いたことを示している.神が預言者の口に触れる(イザヤ6:7,エレミヤ1:9),預言者が神のことばを食べる(エレミヤ15:16,エゼキエル2:8‐3:3)等の描写は,預言者と神のことばとの極めて密接な関係を示すものである.<復> 預言者のことばは一般的な教訓としてではなく,具体的な情況の中で語られる.シリヤ(アラム)と北王国イスラエルがユダに攻めてきた時,イザヤはアハズ王に忠告するが,神はその時,預言者に王と会見する場所を指定し(イザヤ7:3),敵の企ては成功しないことを告げられた(同7:7‐9).預言者はイスラエルの罪を指摘し,それに対する神の刑罰があることを語る(例アモス3:11).その厳しさのゆえに「この国は彼のすべてのことばを受け入れることはできません」(アモス7:10)と言われるほどである.さばきと同時に預言者は救いについて語る.アッシリヤの王セナケリブがエルサレムに侵入しようとした時,イザヤは「わたしはこの町を守って,これを救おう」との神のことばを告げた(イザヤ37:33‐35).また,バビロン捕囚の民について「慰めよ.慰めよ.わたしの民を」(同40:1)と語る.<復> (2) 創造と摂理における力ある神のことば.創造は神の力あることばによった.「主のことばによって,天は造られた.天の万象もすべて,御口のいぶきによって」(詩篇33:6.参照創世1:3,詩篇148:5).神の摂理のみわざにおいても同じ力あることばが働く.「主は地に命令を送られる.そのことばはすみやかに走る…主が,みことばを送って,これらを溶かし…」(詩篇147:15‐18).神のことばは,従って歴史形成力として働く.「雨や雪が天から降ってもとに戻らず,必ず地を潤し,それに物を生えさせ,芽を出させ,種蒔く者には種を与え,食べる者にはパンを与える.そのように,わたしの口から出るわたしのことばも,むなしく,わたしのところに帰っては来ない.必ず,わたしの望む事を成し遂げ,わたしの言い送った事を成功させる」(イザヤ55:10,11).神のことばが一度語られるならば,語られたことはすでに成ったと言うべきである(イザヤ40:6‐8).<復> これらの点に関連し,ことばと事柄との不可分性(例えば祝福のことばは取り消すことができないというように,ことばに魔術的な力があるとする考え)が論じられるが(参照G・フォン・ラート『旧約聖書神学』Ⅱ,6章,日本基督教団出版局),むしろ神御自身の性質との関係のほうを重視すべきであろう.<復> (3) 神のことばとしての律法.神がイスラエルと契約を結ばれた時,律法が与えられた.その中心に位置する十戒は「十のことば」と言われる(出エジプト34:28,申命4:13,10:4).また申命記は神の戒め全体を「ことば」と呼び,「あなたがたのいのちである」と述べている(申命32:47.参照8:3).律法がイスラエルにとって恵みとして与えられたものであるという点についても,申命記は,「まことに,みことばは,あなたのごく身近にあり,あなたの口にあり,あなたの心にあって,あなたはこれを行なうことができる」(30:14.参照申命30:11‐13,ローマ10:8)と述べる.有名な詩篇119篇は,「みことば」を「おきて」「戒め」「定め」等と同義語として用いている.「みことばは…足のともしび」であり(105節),「蜜よりも…口に甘く」(103節),「とこしえから,天において定まっている」(89節).「みことばの戸が開くと,光が差し込み,わきまえのない者に悟りを与える」(130節).「みことばは…生かす」働きをする(50節).<復> 2.新約聖書.<復> (1) 旧約聖書のことば.ヘブル語のダーバール(デバルの基本形)に当るギリシヤ語は,ロゴスまたはレーマである.<復> 「神のことばが…に下った」という句は,新約ではルカ3:2にのみ見られる.創造と摂理におけるみことばの働きについては,ヘブル1:3,11:3,Ⅰペテロ1:24,25(イザヤ40:6‐9の引用),Ⅱペテロ3:5に見られる.旧約のことばの引用は,著者名が記されることもあるが(ルカ3:4,ヨハネ12:38等),神のことばとして引用されることもある(マルコ7:13,ヨハネ10:34,ローマ9:6,ヘブル1:5等).Ⅱペテロ1:21は,旧約のことばは神のことばであると教えている.<復> (2) イエスのことば.主イエスのことばは,預言者が神のことばを語る時に用いられた定型句によって記されることはない.しかし,イエスが預言者以上の者であることを示すものとして,そのことばに伴う無比なる権威が強調される(マタイ7:29,マルコ1:22等).「まことに,あなたがたに告げます」との独得の句で主イエスのことばが記されるのも,その権威性を示している(マタイ5:18以下等).主イエスのことばを聞いて行う人は岩の上に家を建てる人である(マタイ7:24‐27).主イエスのことばは決して滅びない(マルコ13:31,ルカ21:33).ヨハネ5:24では主イエスのことばは永遠のいのちと結び付いている.主イエスの語ることばは「神のことば」である(ルカ5:1,ヨハネ3:34,14:24,17:14,17).マルコ2:2,4:33においては主イエスの教えは「みことば」そのものである.主イエスの奇蹟におけることばの権威も特に注目されている(マタイ8:8,16等).<復> (3) 使徒宣教.種蒔きのたとえでは,宣教のことばを「御国のことば」(マタイ13:19),「みことば」(マルコ4:14)としている.使徒の教えは,「神のことば」であり(使徒6:2,Ⅰコリント14:36等),「主のことば」である(使徒8:25,Ⅰテサロニケ1:8).それは「御恵みのことば」(使徒14:3)であり,「和解のことば」(Ⅱコリント5:19)である.「十字架のことば」は人には愚かに思えるが,神の力である(Ⅰコリント1:18).伝道のわざが拡大する様は「神のことば」が広まることと言われる(使徒6:7,12:24,19:20).パウロは宣教のことばをイエス・キリストと同一視している(Ⅰコリント1:23,コロサイ3:16).ヘブル4:12では,「神のことば」は両刃の剣にたとえられてその力がたたえられる.<復> (4) 神の御子のタイトルとしての「ことば」.ヨハネ1:1‐18において,神のひとり子(18節),すなわち三位一体の神の第二位格が「ことば」として示されている.御子の受肉を「ことばは人となって,私たちの間に住まわれた」(14節)と述べる.「ことば」は永遠の先在者であり(「初めに,ことばがあった.ことばは神とともにあった.ことばは神であった」〔1節〕),創造者であり(3節),恵みとまことの源泉である(14節).<復> 歴史的人格となられた,神の御子イエス・キリストを,その先在の状態においてこのように「ことば」と言い表すのは,ヨハネ独自のものである.背景として幾つかのことが考えられる.<復> (a) ストア哲学.ヘレニズム時代の哲学の学派であるストア哲学において,「ロゴス」は万物の基本原理を指す用語となった.新約時代の通俗宗教思想はストア哲学であったから,ヨハネの福音書にもその影響が何らかの形で及んだと考えることは可能である.ストア哲学に直接学んだのではなく,ヘレニズムユダヤ教を介してであろう.しかし,この時代の代表的ユダヤ人哲学者であるフィローンのロゴス思想との関係については,フィローンのロゴス思想が多岐にわたるために,この影響を確定するのは困難なようである.<復> (b) グノーシス主義.ヘルメス文書,マンダ教文書,ナグ・ハマディ文書等に比較的多くロゴスへの言及が見られるが,それらはむしろキリスト教的グノーシスにおけるヨハネの福音書愛好を示すものであろう.ヨハネがこれらから影響を受けたとは言えない.<復> (c) 旧約,ユダヤ文書との関係.旧約における,神のことばの創造的な働きへの言及や,神の啓示,律法を「ことば」と同一視する例などの影響は大きい.また,「知恵」についての箴言8,9章の言及に基づき,これを発展させた外典「ソロモンの知恵」において,神,知恵,ことばが同義語とされた.すなわちここで「ことば」は人格化された.「あなたは言によってすべてを造り,知恵によって人を形づくられました」(9章1,2節).「あなたの全能の言葉は天の王座から…」(18章15節).さらに偽典「ソロモンの詩篇」になると,ことばは永遠の存在者であり,創造の手段であり,世界の中で力強く働くものであり,光であり命であり,神の御旨を啓示するものである.また,ことばの住い(幕屋)は人であり,その真理は愛である,と述べられる.この書の性格,年代は論議されており,ヨハネの影響も否定できない.いずれにせよ,ヨハネがイエス・キリストを「知恵」ではなく「ことば」と表現したことにより,旧約以来の「神のことば」の用法に基礎付けと一貫性が与えられたと言える.<復> (5) いのちのことば(Ⅰヨハネ1:1‐4).この表現が「福音」を指すのか,ヨハネ1:1‐18のキリストを指すのかで意見が分れる.しかし両者を厳密に分ける必要はないだろう.すでに言及したごとく,旧約においても,神のことばは聞かれるだけでなく,幻を伴って見られるものであり(イザヤ1:1,アモス7:1以下等),食べることのできるものであった(エレミヤ15:16等).新約においても神のことばは宣教のことばであるとともに,宣教の内容である神の御子イエス・キリストである.<復> (6) 黙示録19:11‐16のキリスト.白い馬に乗った騎士として描かれるイエス・キリストは「忠実」「真実」という名とともに「神のことば」と呼ばれる.この箇所における神のことばとしてのキリストは,王の王,主の主として,その口の剣をもって諸国民を打ち,さばくお方として描かれる.聖書は,イエス・キリストを先在者,創造者,贖罪者,そして審判者として描くが,それぞれの場合において「神のことば」として働かれるのである.→聖書の霊感,聖書の権威.<復>〔参考文献〕B・B・ウォーフィールド『聖書の霊感と権威』日本カルヴィニスト協会発行,1959;村瀬俊夫「ヨハネの福音書」『新聖書注解・新約1』いのちのことば社,1973.(安田吉三郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社