《じっくり解説》奇蹟とは?

奇蹟とは?

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奇蹟…

1.奇蹟と摂理.<復> 奇蹟は,神の創造のわざである自然が「神の,目に見えない本性,すなわち神の永遠の力と神性」(ローマ1:20)を啓示するものとなっていることと同様に,啓示論の一部に位置付けることもできるが,より一般的には摂理論において取り扱われる.つまり,通常の摂理においては,神は手段として,この世界に自ら与えられた仕組み,あるいは法則性を用いられるが,奇蹟においては,これらの手段を超え,またはその性質に反して自由に行動されるのである.このように,奇蹟を,神がこの世界にかかわられる摂理のわざの特殊ケースと理解する時,自然現象としての「太陽を上らせ,雨を降らせる」神のわざ(マタイ5:45)と,超自然的な「斧を水に浮かばせる」現象(Ⅱ列王6:6)や「水をぶどう酒に変える」わざ(ヨハネ2:7‐11)は,共に同じ大能なる神のわざとなる.これらすべては,神にとって「自然」な事柄である.奇蹟を便宜的に神の超自然的なわざと定義し,いわゆる自然現象と区別するが,もともと聖書にはこのような自然と超自然との対立的図式はなく,この区別が自然界における神の摂理のわざを見失わせるものであってはならない.<復> 2.聖書における用語.<復> 奇蹟の諸側面に応じて,次のような語が用いられている.<復> (1) 旧約聖書における用語.神のみわざの「不思議さ」の特質を示すものに,[ヘブル語]ペレ,[ヘブル語]ニフラーオスがある.前者は「不思議な」(イザヤ25:1),「奇しいわざ」(出エジプト15:11)のように,後者は「不思議」(出エジプト3:20),「驚くべきみわざ」(士師6:13),「奇しいわざ」(詩篇9:1)のように用いられている.神の力に対する「驚異の念」と結び付く用語には,[ヘブル語]モーフェースがあり,「奇蹟」(詩篇105:5),「不思議」(申命4:34)のように用いられている.この語は,[ヘブル語]オース(出エジプト4:8,9「しるし」)と同様の意味にも用いられる(Ⅰ列王13:3,Ⅱ歴代32:24).しかし,しるしとなるものには,必ずしも超自然的性格が伴うわけではない.門柱とかもいの血(出エジプト12:13),裸になりはだしで歩くこと(イザヤ20:3)などもしるしとなる.<復> (2) 新約聖書における用語.[ギリシャ語]テラス(「不思議」.使徒14:3,ローマ15:19,ヘブル2:4)は,目撃者の「驚きの念」を含む不思議さを示すものとして用いられている.この語は単独では使われず,次に述べる「しるし」とともに用いられている.[ギリシャ語]セーメイオン(「しるし」.ヨハネ2:18,使徒14:3)は,奇蹟が単なる「不思議」を超えた「しるし」となるものであり,「保証」であることを示すものである.「しるしと不思議」という表現は,奇蹟が目撃者の霊的な目を覚す要素を持ち,かつその目がとらえるべき指し示すものを持っていることを教えている.[ギリシャ語]デュナミス(マタイ7:22「奇蹟」,ルカ10:13「力あるわざ」,使徒19:11「奇蹟」)は,奇蹟の原因である神の「力」を指し示すものであり,原因が名称となっている.[ギリシャ語]エルゴンは「わざ」(ヨハネ5:36,7:21,10:25)と訳され,特にヨハネの福音書において,イエスにおける父なる神のみわざとしての奇蹟を表す.これらの用語は,神のわざとしての奇蹟の異なる側面をとらえたものである.奇蹟は本来このような用語に表された特質を持つ.<復> 3.奇蹟の問題性.<復> 奇蹟にかかわる問題は,哲学上の問題と解釈上の問題とに大別される.前者は奇蹟の可能性のように世界観や形而上学的問題であり,後者は聖書中の奇蹟の記事の解釈にかかわる問題である.この二つは,実際には相互にかかわりを持つ.<復> (1) 自然と奇蹟.聖書の奇蹟信仰を古代社会の世界観が生み出した遺物と見る聖書批評学や,奇蹟の可能性を否定する近代の科学思想の背後にある前提の問題性は,指摘を待つまでもない.<復> 前提となる世界観そのものが奇蹟の可能性を否定するものに,理神論と汎神論がある.理神論においては,神を超越的な存在として認めるが,この世界に奇蹟をもって介入することはないとする.汎神論における内在的な神の主張に伴う神の超越性否定は,同様に外から奇蹟をもって介入する神を否定する(例:スピノーザ).<復> また,懐疑論においては,自然の秩序と日常体験との証人の前に,聖書の記す奇蹟は起り得なかったとする判決に軍配を上げる(例:ヒューム).この場合にも自然観が問題なのであるが,科学思想においても,因果律,あるいは自然法則によって絶対的に支配された「閉じられた体系」としての自然観が,奇蹟をこの世界から締め出すものとなっている.P・S・ラプラスが主張するように,神は自然界を探究する「仮説」としても不用な存在とされた.科学において受容され,一つのパラダイムとなった「自然法則のみの支配する世界」観は,この世界より神を追放するものとなり,自然の自立性主張,独立宣言を生み出してきた.<復> しかし,理神論者が主張するような形であれ,この世界は自然法則に全くゆだねられたものではなく,その法則は神の介入をも許さない絶対的なものとされてはならない.科学思想において,自然と超自然とは,必ずしも対立的な図式を持つものではない.秩序を愛される神の存在が,ニュートンにとって,自然と取り組む科学の営みの可能性,報われることの保証であった.自然界も,超自然的な啓示の書である聖書も,共に神のことばによるものであり,神の真理に至る道として調和的に理解されるものであった.<復> (2) 奇蹟と解釈学(批評学).奇蹟物語の超自然性を否定する立場に基づいて,様々な奇蹟理解とその解釈がなされてきた.その代表的なタイプとしては,まず17世紀から18世紀にかけて,聖書の奇蹟は聖書批評学の先駆者となった理神論者([英語]deist)によって,歴史的事実としては不合理で信じがたいとの理由で「比喩的」な意味を持たねばならないものとして解釈された.ウルストンによれば,イエスの前に連れて来られた中風の男(マルコ2:1‐12)は,4人の福音書記者によってイエスのもとに運ばれる,いやしと助けを必要としている現代人を意味する.奇蹟は,これに続く合理主義者によって,すべてが「自然的説明」を与えられた.イエスの水上歩行(マルコ6:48)は,実際には丸太の上に立たれた(バールト)とか,あるいは浅瀬を歩まれた(パウルス)という形で説明された.19世紀には,シュトラウスが奇蹟物語を「神話的」に解釈した.つまり,弟子たちのメシヤ待望が,旧約聖書よりの超自然的な装いをイエスに,詐欺的な意図なくまとわせたのが奇蹟物語である,とした.例えば,5千人の給食(マタイ14:13‐21)は,モーセによる荒野でのマナと肉の給食(出エジプト16章)や,エリヤの奇蹟的な体験物語(Ⅰ列王17:8‐16)がモデルとされた,と説く.また,19世紀末には,宗教史学派によって奇蹟物語は,近隣の異教宗教に見られる奇蹟物語と同類の,後代の創作によるものであり,「創設者キリストに対する装飾」と理解された.また,自由主義神学においては,キリストの道徳性・倫理性を強調する反面,その超自然主義否定の立場から,奇蹟を非科学的かつ,非歴史的なものとして扱った.今世紀に入り,K・バルトは,実存主義哲学を背景に,歴史に代る超歴史を信仰の領域として説き,信仰を科学的真理の領域から切り離した.しかし,これは結局,奇蹟の歴史的事実性を放棄して,科学の側に,勝利への一歩を譲ったものである.ブルトマンも同様に,聖書の一切の超自然的記事を神話とし,非神話化による実存的再解釈を試みている.ブルンナーによれば,奇蹟の歴史性よりも今日的「生の変革」が聖書の説く唯一の奇蹟となる.<復> 4.奇蹟と信仰.<復> 奇蹟は,救いの御計画をもってこの世界とかかわられる神のみわざである.特に,キリストにおける奇蹟は,メシヤ預言の成就を証言するものとなっており(マタイ11:2‐6,ルカ4:18‐21),救い主のメシヤ性を現すものである(マルコ2:10,ヨハネ5:36,6:14,使徒13:33).奇蹟に現された,自然界,病苦,死,悪霊に対する主の権威と力は,罪の悲惨と滅びとからの解放と,終末論的希望に結び付くものである.しかし,信仰とのかかわりでは,奇蹟が行われたにもかかわらず悔い改めなかった町々をイエスは責められ(マタイ11:20‐24),ナザレでは,その不信仰のゆえに多くの奇蹟をなさらず(マタイ13:58),むしろ,信仰にとってはモーセと預言者の教えで十分であるとされた(ルカ16:29‐31).トマスへの,「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)とのイエスのことばは,信仰にとっての奇蹟の位置付けを明確に教えるものである.しかしながら,神は,使徒たちの福音宣教においては,御自身のみことばの真実性と権威とを,「しるしと不思議とさまざまの力あるわざ」(ヘブル2:4)によりあかしされた(使徒14:3).しかし,この意味での奇蹟は,聖書の正典性が確立されるためのものであり,その後の時代において必要とされるものではない.<復> ただし,「神は今日,奇蹟を行うことはできない」とする立場は,神をこの世界から締め出す誤った考えに通じるものである.しかし,同時に奇蹟を求め,奇蹟がなければ神を賛美することができないとしたら,それは摂理における神の栄光を軽んじることになる.5千人の給食に劣らず「日ごとの糧」の恵みに驚きと感謝を知る心こそ,世界の創造主であり保持者であられる神を礼拝する者にふさわしい.奇蹟のみが神の栄光を現すものではない.事実,歴史において奇蹟は常に一様に見られたわけではなく,奇蹟の頻繁な時期とそうでない時期が歴然としており,神は特定の時期により多くの奇蹟を行われた.出エジプトの時代,偶像礼拝との戦いの激しいエリヤ,エリシャの時代,バビロン捕因の時代,そしてイエスと使徒時代とが,それである.さらに,聖書は第5番目の時期としての終末に,キリストの再臨に関連して起る様々な奇蹟,超自然的現象を預言している.<復>〔参考文献〕R・C・トレンチ『主の奇跡』いのちのことば社,1962;C・S・ルイス『奇跡』みくに書房,1956;Brown, Colin, Miracles and the Critical Mind, Eerdmans, 1984; Rushdoony, R. J., The Mythology of Science, Craig Press, 1978.(柴田敏彦)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社