《じっくり解説》自我(エゴ)とは?

自我(エゴ)とは?

自我(エゴ)…

[英語]Ego, Self.自我または自己の問題は,心理学の領域においては長い間主観的なもの,不可解なもの,それゆえ時に不必要なものとして退けられてきた.しかし,フロイト,エリクソン,ロジャーズ等における自我重視心理学の隆盛により,今日大きくクローズアップされてきている.キリスト教界においてもE・フロムらの影響により「自分を愛する」神学が一般にアピールするようになり,自己心理学をキリスト教的に整理しておく必要があると思われる.<復> 1.心理学的自我.<復> (1) 自我と自己の概念.心理学においては自我と自己を区別して用いている.知覚,感情,思考,行為の主体のことを自我と言い,他人や周囲の事物と区別されて,主体性,単一性,同一性,統合性という面を備えている.主体としての自我が見る客体としての自我のことを自己と言う.自分に意識され経験される自分が自己であり,対照的に用いられることが多い.当人による当人の認識像が自己だとも言える(詫摩武俊).<復> (2) フロイト,エリクソン,ロジャーズにおける自我または自己.S・フロイトは人間を基本的に動物的存在と見る.そして人間の心を三つに区分する—イド,エゴ(自我),超自我(スーパー・エゴ).イドは生物学的本能,衝動,欲求であり,心的エネルギーの源泉である.超自我は良心,宗教的価値観,道徳,両親のしつけなどが内在化したものである.自我はイドと超自我の中間にあって両者をバランスよく満足させたり抑えたりして,調整機能の役割を果す.自我が弱いと超自我の命令のままに本能を押え付けることにより神経症になるとされる.<復> E・エリクソンの基本概念はアイデンティティー(同一性)である.「自分であること」「自己の存在証明」「真の自分」「主体性」などの意味を持つアイデンティティーが問題になるのは青年期である.各個人は家族を初めとする対人関係の中で自我発達を遂げていくが,こうした過程の中で様々な社会的自己とその同一性(複数)が形成されていく.そしてこれらの同一性を統合する人格的な同一性を自我同一性(ego identity)と呼んでいる.幼児期から青年期にかけては各集団の同一性への試みがなされていくが,これらの同一化はまだ実験的である.しかし,青年期後期にはそれまでの同一化群を最終的に取捨選択し,秩序付け,統合する自我同一性の確立が要求される.この自我同一性の確立は,社会的な自己定義であり,大人としての自己確立である(小此木啓吾).しかし,この時期に自我同一性の確立ができず,心理的危機の状態を自我同一性の拡散(ego identity diffusion)と呼んだ.<復> C・R・ロジャーズの人格理論には現象学と実存主義双方の影響が明らかであり,その中心は個人の自己概念である.彼は心理療法の実践を通じて,性格を形成し,行動を決定する基本的要素として自己を考えた.個人が経験している独自な現象世界で,対象として自己が分化し,体制化されるというのである.個人にとって基本的欲求は有機体としての自己実現化の傾向であり,個人の行動を規定するのは外的,客観的刺激ではなく,知覚された現象世界である.従って個人の行動を理解するためには,その個人の内的枠組み(internal frame of reference)からの理解が重要とされ,それが自己概念へのアプローチである(依田明).こうして心理療法の過程の中で自己概念は変容していく.ロジャーズにとっては経験している世界と自己概念の不一致が不適応であり,その再統合が心理療法の過程である.<復> フロイトにおける自我はその弱さが問題視されたが,新フロイト派の人々,とりわけエリクソンは自我同一性の問題から自我の役割を重視した.彼は自我を自律的存在と見,このような自我を持った人間は人格の合体的統合,自己実現の確立に向かうとした.さらにロジャーズにおいても自己概念は自律的なものであり,自己実現を目指すものである.こうした傾向はエリクソンと同じ新フロイト派に属するE・フロム,人間学的心理学の代表A・マズロウ,実存主義心理学者R・メイらにも見られるものであり,P・ヴィッツはこれらの自己心理学を「自己崇拝の新宗教」と名付け,その根本思想において反キリスト教的であるとした(Psychology As Religion).<復> (3) 自己像(Self‐image),自己価値(self‐esteem).自我,自己と密接に関係するのが自己概念である.これは人が自分自身を客体化した時に,自分自身に関して抱いている考えのことを言う.自己概念の一面としてカウンセラーや心理療法家にとって重要なものに自己像,または自己価値がある.自己像と自己価値は事実上同一のものと考えてよい.クーパースミスは自己価値を次のように定義している.「自己価値とは各個人が自分自身に対してなし,かつ常に持続する評価のことである.それは肯定と否定の態度を持つものであり,自分がどの程度有能であり,成功を収めるものであり,価値あるものであるかを考えるその範囲を示すものである.つまるところ,自己価値とは人が自分自身に対して持つ態度に示される個人的な有用性の判断である」(Coopersmith, S., The Antecedents of Self‐Esteem, pp.4—5, W. H. Freeman, 1967).つまり,自己像(自己価値)で重要なことは,それが自己に関する有用性の評価である限りいかに正確な自己評価をするかということであって,単に機能性の追求または心理的操作によって自己像を高めればよいというわけではない.特にこれは神経症における心理的とらわれの状態にある時に問題となる.ヴィッツは「心理学的に自己価値を作り出すことは自分自身で紙幣を発行するようなものである.虚構の繁栄,つまりインフレに続く不況につながる」と言うのである(Baker Encyclopedia of Psychology, p.936).<復> 2.聖書的自己.<復> (1) 聖書的自我同一性.エリクソンの自我同一性は神不在の人間の自律性の追求であり,聖書的には相いれないものである.神との依存関係に創造された人間の自我が神から離れ,自律した状態にある時,これは罪であり死である.しかし,キリストにある死と復活を信仰によって経験したキリスト者がキリストにある自我同一性を確立することは可能である.<復> パウロはダマスコの途上復活のキリストに出会い,回心を体験した.その後祈りと黙想とキリスト宣教の経験を通し,「私はキリストとともに十字架につけられました.もはや私が生きているのではなく,キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)の確信に至った.後の日にパウロは「私を見ならう者になってください」(ピリピ3:17,Ⅰコリント4:16)と語り,また彼の人生の最晩年に「私は勇敢に戦い,走るべき道のりを走り終え,信仰を守り通しました」(Ⅱテモテ4:7)と確信に満ちた自己告白をなしている.パウロの人生はキリストにあって見事な自我同一性,いや,より正確には「キリスト同一性」を確立したと言うことができる.キリスト者の自己確立とはキリストを離れた自己確立ではなく,キリストによる自我の死と復活のキリストとの同一化なのである.なぜなら,キリスト者はキリストから離れては何もできない(ヨハネ15:5)からである.<復> (2) キリスト者と自己愛.「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)との主イエスのことばは,神と他者への愛の前提として健全な自己愛の存在を認めているものであるとの主張がある.果して聖書本文はこの説を支持しているか.主イエスは同22:37で十戒(十のことば)の前半を要約し,神への愛の徹底性を教え,22:39で十戒の後半を要約し,隣人への愛の徹底性を教えていること,さらに,十戒には神と他者への愛のほか,自己愛という第3の愛は存在しないこと(J・E・アダムズ)により,自己愛がこの箇所の前提であるとの主張には首肯しがたいものがある.主イエスは別の箇所で,「自分を捨て,自分の十字架を負い,そしてわたしについて来なさい.…わたしのためにいのちを失う者は,それを見いだすのです」(マタイ16:24,25)と語り,自己否定の道を教えている.キリスト教的「自己愛」は自己心理学優先の思想と言わざるを得ない.<復> (3) 聖書的自己像.劣等感にさいなまれている人,低い自己像に悩んでいる人への救済は,自己を受け入れ,自己を愛し,自己像を高めることではないのか.これに対して真の聖書的自己発見の道はキリストによる死と復活への同一化であることを見た.ここに自我に死ぬことによる自我からの解放がある.キリストの復活にあずかり,キリストのからだの一部とされた時に,「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて,慎み深い考え方をする」(ローマ12:3)ことが可能になる.真の自己像はいかに正確な自己評価をするかにかかっているのであるから,この信仰による「慎み深さ」こそ必要なものである.こうしてキリスト者共同体の一員として組み入れられることにより,自己の重荷だけであえいでいた人が積極的に「互いの重荷を負い合う」(ガラテヤ6:2)ことができ,「自分のことだけではなく,他の人のことも顧みる」(ピリピ2:4)他者志向の人へと変えられていくのである.変えて下さるのは聖霊なる神である.こうして自己に死に,自己を忘れ,他者の荷を負う健全なキリスト教的自己像の確立が可能となる.ここには自己を見詰めるキリスト者の姿はなく,キリストと他者を見詰めるキリスト者の姿だけがある.神経症に悩む人の問題は「コンプレックスに捕われた自己」なのであり,それゆえに自己像の高下だけでは解決しないのである.そしてこれこそが森田療法等で精神医学者が問題にしたことなのである.自己像の問題は原因というよりむしろ結果なのである.→心理学とキリスト教.<復>〔参考文献〕東洋他編『心理用語の基礎知識』有斐閣,1985;藤永保他編『新版・心理学事典』平凡社,1981;山口勝政『聖書とカウンセリング』いのちのことば社,1983;Benner, D. G.(ed.), Baker Encyclopedia of Psychology, Baker, 1985 ; Vitz, P. C., Psychology As Religion, Eerdmans, 1979.(山口勝政)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社