《じっくり解説》神の死の神学とは?

神の死の神学とは?

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神の死の神学…

[英語]Death of God Theology.1960年,デンバー市で開かれた全国の神学生研修大会の席で,ウィリアム・ハミルトンは,「現代の新事態は,神がこの世から姿を消したことである.この新事態に対応するわれわれの神学は,″神の死の神学″でなければならない」と宣言して注目を集めた.この発言を契機として,おもにアメリカのリベラルな若手神学者の一群が「神の死の神学」と呼ばれる神学運動を展開した.『神の死』(1961)を著したゲイブリエル・ヴァハニアン,『世俗都市』(1965)で知られているハーヴィ・コックス,『キリスト教無神論の福音』(1966)の著者トマス・オールタイザー,『福音の世俗的意味』(1963)で話題となったポール・ヴァン・ビューレンなどが主要な提唱者である.『神への誠実』(1963)で知られるイギリスのジョン・A・T・ロビンスンや,ドイツの女性の神学者で,ケルンで「政治的晩祷」(Politsches Nachtgebet)という標語のもとで試みられた新しい形式の礼拝—政治上の大きな出来事についての検討や反省が礼拝の中心部分—の主唱者の一人であり,『真理は具体的である』(1967)の著者であるドロテー・ゼレなども,この流れに含めることができる.この神の死の神学は,″世俗的キリスト教″(Secular Christianity)の主要な流れの一つと言うことができる.<復> さて,この神の死の神学は,近代において加速的に進行しつつある″世俗化″(secularization)の問題と密接にからみ合っている.振り返ってみると,313年,時のローマ皇帝コンスタンティーヌスは,「ミラノの勅令」を発布してキリスト教を国教に定めた.以来,中世の終幕までいわゆる″キリスト教世界″(Corpus Christianum)が続いた.だがしかし,14世紀から始まったルネサンス(文芸復興)は,今までの神中心,教会中心の考え方を退け,人間に至上の自由と非宗教的世界観を約束した.このような主張は,18世紀の啓蒙思想はもとより,19世紀におけるニーチェの登場によって一層急進化された.ニーチェは,その著『悦ばしき知恵』(1882)の中で,「私は神を探している!」と叫びながら市場に駆け込んで行く狂人を登場させ,彼に「神は迷子になったのか」,「神はどこかへ移住してしまったのか」,「神は死んだ! われわれが神を殺したのだ!」と言わしめている.″神の死″という考えはドイツの詩人ジャン・パウル(『宇宙から神はいないと語る,死せるキリストの話』の著者)に由来すると考えられているが,このニーチェが描く狂人によって代表されている近代人は,神を葬りつつ自らの自由と運命を掌中に収め,今や自律的人間として立つに至った.加えて近代の物質主義と科学技術支配(テクノクラシー)は,世俗化の深化に一層の拍車をかけた.エーミール・ブルンナーは,工業化されたこの世俗社会における現代人の特徴として次の点を挙げている.①すべては相対的である.②証明し得ないものは信じるに足りない.③科学的認識は確実なものであり,真理であることを保証する.信じるだけのものは不確実である.④死後のことは誰も知らない.⑤実在しているのは,人が見得るもの,とらえ得るものである.⑥大きいものは重要なものである.⑦私は何と言おうとあるがままのものでしかない.⑧自由とはやりたいことをなし得るということを意味する.⑨正義とは,万人は平等であるということを意味する.①0宗教に第1位の場所を与えることは宗教的越権である.①1自然法則がすべてを規定する.かつて,フランス世論調査所が日本で行った調査によると,「全能の神はいるか」の問に肯定的に答えたのは24%にすぎない.事実,現代人の生れる病院,受ける教育,テレビ番組,治療に当る医師などは例外なくほとんど宗教とは無縁といった状況である.ここにボーンヘファーの言う説明のための,また後見人としての神を必要としなくなった「成人した世界」(Mu¨ndige Welt)が出現したと言える.<復> 神の死の神学者たちは,思想面では,ヘーゲル,フォイアバハ,マルクス,ニーチェを読み,神学面ではバルト,ブルトマン,ティリヒなどの主張を通ってきているが,特に,ディートリヒ・ボーンヘファーが『抵抗と信従』(1951)という題で出版した獄中書簡集の中で明らかにしている以下のようなキリスト教の″非宗教的理解″の影響を強く受けている.①いま触れたように,現代人は科学技術のお陰で完全に,神とか伝統的な宗教なしですまし得る力を手にした.換言すれば,現代人は後見人なしですべてをやっていける成人となった.なぜなら,この神はわれわれ人間の知識や能力の足りないところを埋め合せるための補充用のものであり,人間の科学技術が進歩した現在においては,退く運命のもとにある.②長い間,キリスト教神学の基礎は,合理的なあらゆる存在を規定・説明すると思われていた形而上学であった.そこでは,絶対的で超越的な神とか全知全能の神の観念や,この世とあの世という二つの世界の観念が主張されてきた.しかし,近代の世俗化は,これらの主張の自明さを打ち崩すとともに,成人に達した人間は,この世とあの世という二つの領域で生きていくことに意味を感じなくなり,そのような考え方をむしろ拒むに至った.③ボーンヘファーはこうした世俗化の確認を,ただちにキリスト教信仰の破壊もしくは否定とは見ず,むしろ一つの解放としてとらえ,それにむしろ積極的に対応すべきであると考える.具体的には現代におけるキリスト教の課題は,神の必要性を説くことではなく,むしろ聖書の「非宗教的解釈」を大胆に押し進めることであると考える.④彼の非宗教的解釈は次のような考え方を特色としている.第1に,イエスにおける神の自己謙卑(ケノーシス)に注目する.すなわち,神は,永遠性とか全能とか栄光などにおいてではなく,イエス・キリストとその十字架において弱く無力な死ぬる神として現れたと考える.第2に,聖なるあらゆる特権の放棄を意味するこのような神のケノーシスの出来事に″超越″の真のしるしを見出すべきであると考える.つまり,自己自身を超越する能力は,人が持っているものを投げ出すだけではなく,自己の存在そのものを捨てる完全な自由があるところにしか現れないという考えに立って,神はその自己超越をイエス・キリストにおいていわば自己自身と離れ,そして死を経験するという行為を通して成し遂げたと考える.第3に,なぜ神は自己自身であること,強い力ある神であることを捨てたのか.それは,ひとえにこの世への愛のゆえであると主張される.このことから,イエスは徹頭徹尾他者のための存在,他者のために苦しむ実存に生き抜いたという理解が導き出される.第4に,「キリスト者であるとは,一定の様式で宗教的であったり,また何らかの方法論に基づいて,何かに(罪人とか,悔悛者とか,聖徒とかに)自分を仕立て上げたりすることではない.キリスト者であるとは,人間であることだ.キリストはしもべたちのうちに,一つの人間類型ではなく,人間そのものを造りたもう」と主張していることから明らかなように,真にキリスト者として生きることは,われわれが考えた最高の存在(神)に対して宗教的なかかわりを持つことでもなく,また,あの世へと方向付け得ることでもなく,あくまでも他者のために生き抜いたイエスの存在に参与することによって新しい実存に生きることにほかならない.教会が他者のために生きることをやめる時に,教会の語ることは結局は「異言」と化してしまうのであると結論される.<復> さて,以上のようなボーンヘファーの非宗教的キリスト教理解に強く影響された神の死の神学者たちは,福音をどのように理解して世に提示しようとするのであろうか.<復> ヴァン・ビューレンは,言語分析(Linguistic Analysis)の立場から,神という語は何ら意味を持たない,なぜなら,それは実際に実証的検証の不可能なことだからであると考える.そして,聖書は人間イエスに注目して,主として人間的なもの,歴史における人間生活,相互浸透的人間関係にその重点を置いて語っていると見る.最も中心的なことは,ナザレのイエスがあかしした自由である.その自由は二つの面を持つ.一つは,イエスが救いについての不安から,伝統への気遣いから,また自己の名声や権威の確保などといったこの世的執着から全く自由であったこと,もう一つの面は,死に至るまで隣人に対して自己を開放し,必要とあらばいつでも自己を他者に差し出されたことである.<復> ハミルトンによれば,神は確かに死んでいるが,イエスは生きている.このイエスは受肉(神の死を意味する)をもって隣人の中に覆面をかぶって隠れた存在となった.キリスト者は,この世の中でその覆面を察知し,その覆面をはいでそこにイエスを認め,彼とともにそこに立ち止り,彼とともに戦わねばならないと.<復> オールタイザーは,イエスにおける神の死を,歴史の目的である神と人間との決定的な一致,聖と俗とが完全に融合する時へと進んでいく過程の始まりととらえ,そこに希望を与える福音の核心を見出している.東洋神秘主義に深い関心を持つ彼は,それを仏教の″涅槃″(Nirvana)と関連付けている点も記憶すべきであろう.<復> 神の死の神学は,確かに現代の世俗社会のひずみ,そこに住む現代人の不平等,疎外,非人間化,孤独などの問題を割引なしに直視し,それと積極的に取り組んでいる.そして,そのメッセージは″人間らしく生きよ″であると言える.しかし,そのことの伝達に当って,世俗化ということを何らみことばの光に照らして批判することなく,むしろ全面的に肯定している.そして,この世俗都市に携え行くべき″上より″の何かを持って初めて真にこの世に奉仕できるという聖書の根本的ことわりが忘れられているところに,また問題があると言える.→世俗主義・世俗的ヒューマニズム,実存主義.<復>〔参考文献〕アルタイザー/ハミルトン『神の死の神学』新教出版社,1969;J・A・T・ロビンソン『神への誠実』日本基督教団出版局,1964;H・コックス『世俗都市』新教出版社,1967;Gundry, S./Johnson, A., Tensions in Contemporary Theology, Baker, 1976.(宇田 進)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社