《じっくり解説》自然神学とは?

自然神学とは?

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自然神学…

[ドイツ語]Natu¨rliche Theologie,[英語]natural theology,[ラテン語]theologia naturalis.特別啓示としての聖書に関係なく,それに先立って自然的人間が自然的理性のみによって,たとい不完全であっても正しい何らかの神認識を持つ可能性を主張する立場を言う.ローマ・カトリック神学の根底にはトマス的自然神学がある.「恩恵は自然を廃棄せず,完成する」という自然と恩恵の二元論の立場である.啓示神学は自然神学の神知識を補修して完成する.自然の光による神認識を恩恵の光による神認識が補完する.言い換えれば,理性による神知識を信仰による神知識が補修するという哲学と神学の総合の立場である.トマスはアリストテレースの神存在論証によって神の存在を証明する.しかしさらに理性の浸透を許さない啓示された真理がある.理性は最実在的存在者,第1原因,一切の秩序と美の創始者としての神の存在を知るが,三位一体やイエスにおける神の受肉のような秘義に属することを知らない.後者は啓示された真理であり,信仰の真理である.神についての知識は人間についての知識と世界についての知識と深く結び合っているので,自然的理性の光による神,人間,世界についての知識体系と恩恵の光による神,人間,世界についての知識体系とを承認し,前者を後者が補修する自然と恩恵の二元論,総合と順応の構造がトマス的世界観を構成している.このように考えれば,啓示神学が教える神の創造,人間の罪の堕落とその影響としての世界の悲惨,イエス・キリストによる贖いと世界の回復という聖書の世界観の受容の前提として,自然的理性による神,人間,世界についての知識を承認する立場を広く自然神学と呼ぶことができる.<復> このような自然神学はトマス主義(トミズム)や新トマス主義(ネオ・トミズム)の神学ばかりでなく,プロテスタントの神学においても教義学の序論やプロレゴーメナ(序説)として主張された.そこには人間の側に福音受容の前提になるような,不完全ながらもある程度正しい神知識を承認する考え方がある.自然的人間にもある程度正しい神知識があるならある程度正しい人間認識(罪責意識),世界認識(悲惨意識)があることになる.それらは認識的にも倫理的にも福音宣教の接触点となることになる.ブルンナーは『神学の課題としての接触点への問い』(1932)を書いて,自然的人間の言葉の能力,神意識,罪責意識,世界意識に宣教の接触点を求めた.この宣教の接触点を自然的人間のもともと持っているものの中に求めていくブルンナーの立場はバルトとの間に有名な自然神学論争を引き起した.ブルンナーは『自然と恩恵』(1934)を書いて,非キリスト者においては実質的な神の像は失われているが,形式的な神の像は残存しているとして,福音に対する責任応答可能性を主張した.「正しい自然神学への帰路を見付けることが,われわれの神学的世代の課題である」と述べて,新しい自然神学を主張した.バルトは『否!』を書いて,ブルンナーを新プロテスタント主義,新トマス主義の自然神学として厳しく批判し,両者は決裂した.この例は福音宣教の接触点を考えることは重要であるが,それは同時に容易に自然神学に陥る危険性をはらんでいることを示している.<復> 宗教改革は自然神学への反対の運動であったとも言える.自然神学の承認は全的堕落と全的無能力の不承認である.自然神学の承認は認識的には自然の光([ラテン語]lumen naturalis)による神・人間・世界の真理体系と恩恵の光([ラテン語]lumen gratiae)による神・人間・世界の真理体系との総合([ラテン語]synthesis)となる.倫理的には人間の律法遵守の努力を聖寵の注入によって助ける半ペラギウス主義の救いの理論となる.この神人協力説([ドイツ語]シュネルギスムス)も一種の総合である.自然神学は認識的,倫理的に自然的人間の側にすでに存在するものを福音受容の接触点と考えている.トマス主義の人間理解には二つの点で問題がある.まず,創造の時の人間に理性的霊魂と霊魂の他の部分との間に混乱があったという人間理解である.この理解は「非常によかった」という聖書の創造を低く見積っている.神はこの混乱を抑えるために超自然的付加的恩恵を与えられたと考える.第2に,アダムの罪によって失ったものはこの超自然的付加的恩恵であったと考える点である.すると再び理性的霊魂と霊魂の他の部分との間に混乱がある.しかし理性的霊魂,あるいは霊魂の理性的部分それ自身は原理的には無傷である.けれども,理性の認識的倫理的働きは身体と結合している他の部分の影響による混乱のために傷ついている.認識的誤謬の原因は感性(感覚)にあり,倫理的不義の原因は欲性(欲望)にある.それゆえ,自然的理性の認識は不完全であり,自然的実践理性(意志)による倫理的行為は不十分である.自然的理性の光による認識と行為は恩恵の光による認識と行為によって補修されなければならない.ここから「恩恵は自然を廃棄せず,完成する」(Gratia non tollit naturam, sed perficit.)という総合の思想が生じ,「哲学は神学の侍女」(Philosophia ancilla theologiae)という哲学と神学の独特の関係や自然神学と啓示神学の独特の関係が生じるのである.この人間観は全的堕落と全的腐敗という宗教改革者の主張した聖書の人間理解を低く見積っている.<復> 一般啓示(自然啓示)を主張することは自然神学の主張につながらないことに注意すべきである.なるほど,神の永遠の力と神性,神のあらゆる良き御性質は天地創造以来ずっと被造物を通して明らかに啓示されている.神は一般啓示を通して,すなわち自然や人間の道徳意識を通して御自身を明らかに啓示しておられる.しかし人間はこの神の一般啓示に対して不義をもって真理を阻むという反応をして,神の前に一切の弁明の余地をなくしている.この人間の不敬虔と不義に対して神の怒りが天から啓示されている.一般啓示に対する人間の反応は神の怒りの対象以外の何物でもないのである.しばしば自然神学の論拠にされている「神を知っていながら」(ローマ1:21)ということばは,決して認識的に不十分ながら正しい神認識があるという意味ではなく,逆に,「知っていながら,その神を神としてあがめず,感謝もせず,かえってその思いはむなしくなり,その無知な心は暗くなった」とある通り,知っていながらあがめない不敬虔は神の怒りの対象であり,一般啓示の真理を不義をもって阻む認識と道徳における宗教的不敬虔が一切の弁解の余地をなくし弁解の口を封じられてさばきに渡されていることの理由であることを示している.一般啓示は十分に明らかであり,神はこれを通して人間に悔い改めを迫っておられる.しかし,同時に,これに対する人間の不義をもって真理を阻む反応によって弁解の口を封じておられる.一般啓示は救いに対する準備的予備的認識と行為を与えるものではなく,救いはただイエス・キリストにおける神の特別啓示からのみ来る.<復> それでは接触点の問題はどのように考えればよいか.一般啓示・自然啓示は救いには無力であるが,神が自然や人間の道徳的意識を通して御自身を啓示し続けておられるということは重要である.人間は宗教的存在であり,神聖感覚と呼ばれたりする神意識を持っている.それは堕落後も,一般恩恵によって人間の心とそこに座を持つ知性や意志という心的能力,すなわち心的機構が保存され,神の像の残滓(ざんし)があるという事実と関係する.人間のみが一般啓示に反応する宗教的存在である.非再生者における神意識,人間の宗教性はこのように一般啓示と一般恩恵と神の像論との三重の面の重なり合う必然的関連の中で考えられなければならない(詳しい議論は本辞典「啓示論」の項を参照).パウロはアレオパゴス説教においてアテネの人たちの宗教心に訴えかけた.ブルンナーのように堕落後も残る形式的な神の像から一般啓示に対する人間の責任応答可能性を考えることはできない.なぜなら,実質のない形式を人間は表象することはできないからである.彼の形式的な神の像の残滓の中には多くの実質的なものが入り込んで結局,自然神学を主張することになった.自然的人間にある神意識・神聖感覚は一般啓示,一般恩恵,神の像の残滓のトリアーデ(三つ組)の中で説明される被造世界の存在的形而上的宇宙法秩序の保存と心理的機構の残存から説明される.その他,自然的人間の中にある罪責感覚と法感覚も同様に説明され得る.それゆえ,福音宣教の接触点は存在的(形而上的)・心理的なものであり,自然的人間における神意識や罪責意識は決して自然神学を擁護する論拠となるものではない.アテネ人の宗教とパウロの宗教には認識的・倫理的な意味での共通領域は存在しない.パウロはアテネの人たちの陥っている偶像礼拝を指摘し,彼らに神が「悔い改めを命じておられる」ことを指摘した上で,一人の人の義とさばきと復活の福音を宣べ伝えた(使徒17:30,31).悔い改めを命じられるアテネ人の宗教性とパウロの宗教の間には,連続する領域は認識的・倫理的には存在しない.そこにはいかなる意味でも自然神学の成立する余地はない.→キリスト教哲学,啓示論,理性と信仰.<復>〔参考文献〕宇田進編『神の啓示と日本人の宗教意識』(共立モノグラフNo.3)共立基督教研究所,1989;春名純人『哲学と神学』法律文化社,1984;春名純人「弁証学における自然神学と接触点の問題」(森川甫編『現代におけるカルヴァンとカルヴィニズム』所収)すぐ書房,1988;Bavinck, J. H., Religieus besef en Christelijk geloof, Kok, 1989(new edition); Berkouwer, G. C., General Revelation, Eerdmans, 1955 ; Van Til, C., The Defence of the Faith, Presbyterian and Reformed Publishing, 1955.(春名純人)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社