《じっくり解説》イエスのたとえとは?

イエスのたとえとは?

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イエスのたとえ…

1.たとえとは何か.<復> イエスのたとえを指すために一般的に用いられている用語は[ギリシャ語]パラボレーである.この語は「そば」という意味の[ギリシャ語]パラと,「投げる」という意味の[ギリシャ語]バローとによって作られた合成語で,あるもののそばに投げられたものとか,置かれたものという意味であった.ギリシヤ古典において,例えばアリストテレースは,この語を,すでに知っているものを未知のものと比較することと定義している.つまり未知なものを理解するために,すでに知っているものをそばに置いて,それとの比較において,未知なものを理解しようとする一種の比喩である.しかし,イエスとの関連においてこの語が用いられる時,ギリシヤ古典における場合よりも,もっと広い意味を持っていた.それは70人訳(ギリシヤ語訳旧約聖書)において,[ヘブル語]マーシャールを[ギリシャ語]パラボレーという用語で訳したため,[ヘブル語]マーシャールが本来持っていた意味が,[ギリシャ語]パラボレーの意味にも影響を与えていると考えられるからである.[ヘブル語]マーシャールは元来ことわざ(Ⅰサムエル10:12),格言(ヨブ27:1)などを意味していた.また,しばしば[ヘブル語]ヒーダー(なぞ)と並行法で用いられている(詩篇49:4,エゼキエル17:2等).特にエゼキエル17:2の場合ではその後にある3‐8節を見ると,この「たとえ」は寓喩を意味していることがわかる.これらの要素が,新約におけるイエスの語った「たとえ」の中に含まれていると考えることができる.<復> 例えば,マタイ15:15における「たとえ」とは,14節の「盲人が盲人を手引きする」ということわざを意味しており,ルカ4:23の「たとえ」は「医者よ.自分を直せ」という格言を指している.また,マタイ13:3‐9に述べられている「種蒔きのたとえ」は寓喩的要素を持っている.特に9節の「耳のある者は聞きなさい」ということばや,その後のイエスと弟子たちの問答は,たとえに「なぞ」の要素が含まれていることも示唆している.つまり聴衆はイエスのたとえの寓喩的意味を自分で考えて悟らなければならなかった.この点において,イエスのたとえの場合に用いられた[ギリシャ語]パラボレーは,ギリシヤ古典のように,物事を理解するための比喩というだけでなく,もっと複雑な意味を持っていた.<復> [ギリシャ語]パラボレーは共観福音書において48回(マタイ17回,マルコ13回,ルカ18回)も用いられているが,ヨハネの福音書では一度も用いられておらず,代りに[ギリシャ語]パロイミアが4回用いられている.ヨハネ10:6の用例では,イエスが御自身を「羊の牧者」にたとえたことを指しているが,聴衆にはその意味が理解できなかったとあるから,これも「なぞ」的要素を持っていたと言えよう.イエスは同10:7以下に,その意味をもう少しわかりやすく説明している.同16:25,29の用例においては,[ギリシャ語]パロイミアは,真意のはっきりしないことば,あるいは秘義的なことばという意味で用いられている.<復> イエスのたとえは,一般的な理解においては,神の国の奥義を理解しやすいように,日常生活においてわれわれが知っていることを比喩として用いて語られたと考えられているが,以上の用例を見ると必ずしもそれだけではなく,わかりにくい「なぞ」的要素や,一般の者には理解できず,霊的理解力を持った少数の者だけが理解できる秘義的要素をも持っていたことがわかる.弟子たちがイエスにした「なぜ,彼らにたとえでお話しになったのですか」という質問に対し,イエスは「あなたがたには,天の御国の奥義を知ることが許されているが,彼らには許されていません」(マタイ13:11)と答えられたが,このことばは,この点を明らかに示している.<復> 2.たとえの形式.<復> イエスのたとえの形式には,上述のようなことわざや格言もあるが,いろいろな導入句を伴うものもある.「…何にたとえたらよいでしょう」(マタイ11:16),「…のようなものです」(同13:31,33,44,45,47,20:1等),「…にたとえることができます」(同18:23),「…のようです」(同25:14)などがそれである.しかし何といってもイエスのたとえの中心をなすものは物語の形式をとっている,いわゆる「たとえ話」である.これらの中には,種蒔きのたとえ(マタイ13:3‐9,マルコ4:3‐9,ルカ8:5‐8),毒麦のたとえ(マタイ13:24‐30),友達を赦さないしもべのたとえ(同18:23‐35),2人の息子のたとえ(同21:28‐31),悪い農夫のたとえ(同21:33‐40,マルコ12:1‐9,ルカ20:9‐16),王子の結婚披露宴のたとえ(マタイ22:2‐14,ルカ14:16‐24),10人の娘のたとえ(マタイ25:1‐13),タラントのたとえ(同25:14‐30,ルカ19:12‐27),良いサマリヤ人のたとえ(ルカ10:30‐37),金持の愚かな人のたとえ(同12:16‐21),実のならないいちじくのたとえ(同13:6‐9),放蕩息子のたとえ(同15:11‐32),不正な管理人のたとえ(同16:1‐8),金持とラザロのたとえ(同16:19‐31),不正な裁判官のたとえ(同18:2‐5),パリサイ人と取税人のたとえ(同18:10‐14)などがある.<復> 3.たとえの解釈.<復> (1) 古代の教父たちの間ではイエスのたとえは寓喩的に解釈されることが一般的であった.アレキサンドリア学派のクレーメンスやオーリゲネースは,ユダヤ人学者フィローンの寓喩的解釈の影響を受けて,イエスのたとえ話の詳細の部分にも寓喩的意味を見出そうとした.例えば,良いサマリヤ人のたとえでは,強盗に襲われた人はアダムであり,エルサレムは天を指し,エリコはこの世を意味する.強盗どもは悪魔とその手先たち,祭司は律法,レビ人は預言者を表す.良いサマリヤ人はキリスト,家畜は堕落したアダムを背負うキリストのからだ,宿屋は教会,デナリ二つは父なる神と御子,サマリヤ人が帰りに再び来ると言ったのはキリストの再臨を表していると考えた.この考え方はアウグスティーヌスにも受け継がれた.しかし,アンテオケ学派はこのような寓喩的解釈に反対した.特にヨーアンネース・クリュソストモスは,たとえの細部にこだわらず,むしろその主要点を把握すべきであると主張した.しかし中世まで,大勢はどちらかというと寓喩的解釈の立場をとった.<復> (2) 宗教改革者たちは寓喩的解釈に反対し,字義的解釈をとるように主張したが,ルターの解釈は実際には寓喩的解釈の域を出なかった.カルヴァンは寓喩的解釈を「無駄な愚かな行為」であるとして,たとえの「自然な意味」をとらえ,その中心点を明らかにすべきであると主張した.しかし,寓喩的解釈は相変らず多くの人々の支持を得ていた.<復> (3) 19世紀末にアードルフ・ユーリヒャーが『イエスのたとえ』(1888—89)を出版して以来,イエスのたとえの解釈は新しい時代を迎えるに至った.彼はイエスのたとえは寓喩的に解釈すべきではなく,ギリシヤ古典における比喩と同様に見なすべきであり,アリストテレースが考えたように,比較すべき点は1点であって,寓喩のように幾つもの点で比較すべきではないと主張した.20世紀になると,この主張は広く受け入れられ,たとえの解釈は一変した.良いサマリヤ人のたとえは,サマリヤ人のように隣人を愛することを教えているのであって,エルサレムやエリコ,その他の点にそれ以上の意味を見出す必要はないと考えた.また,イエスのたとえの中の寓喩的な要素は,イエス本来のものではなく,初代教会の創作によるものであると考えるようになった.しかし,ユーリヒャーの解釈にも批判すべき点があった.その一つは,彼がギリシヤ的,アリストテレース的解釈の原則に固執しすぎたという点である.イエスはユダヤ人であるので,彼のたとえはギリシヤ古典における比喩よりも,旧約における[ヘブル語]マーシャールにその源泉を求めるべきであった.そうするなら,イエスのたとえの中の寓喩的要素を無理に切り捨てる必要もなくなる.もう一つの点は,比較される1点を,道徳的教訓によって説明しようとした点である.これはその当時の自由主義神学の影響を多分に受けているためであるが,このような倫理的教えをしていたイエスが,なぜ十字架につけられて殺されなければならなかったのか,という重要な問題を生み出した.<復> (4) 20世紀に入ると,福音書に対する様式史的研究が盛んになり,その成果の上に立って,C・H・ドッドは『神の国の譬』(1935)を発表した.彼はイエスのたとえを本来の「生活の座」に戻さなければならないと主張した.ユーリヒャーのようなギリシヤ的・アリストテレース的背景に照らして解釈するのではなく,イエスが生きていた時代の彼の聴衆が心に思い浮べた思想と,イエスの活動においてすでに神の国が実現したという,彼の使命と教えの一般的傾向とによって解釈しなければならないと考えた.彼はイエスにおける神の国の思想の重要性を強調するあまり,その研究が神の国のたとえに限定されており,また「実現した終末論」という神学的偏向をもって解釈しようとしたところに問題があった.ドッドの問題点を克服するためにJ・イェレミーアスは『イエスの譬え』(1947)を発表した.彼はイエスがたとえを語った状況と初代教会がそのたとえを理解した状況とは異なっているので,初代教会の生活の座から,イエスが語られた時の生活の座の中に,それを取り戻してこなければならないと主張した.彼はイエスの原初のたとえの意味は,イエスが罪人の救い主としてこの世に来たのだから,人々は罪を悔い改めて彼を信じる決断をすべきであるという点にあると考えた.→聖書解釈学,神の国.<復>〔参考文献〕ドッド『神の国の譬』日本基督教団出版局,1964;A・M・ハンター『イエスの譬・その解釈』日本基督教団出版局,1962;J・エレミアス『イエスの譬え』(現代神学双書41)新教出版社,1969.(山口 昇)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社