《じっくり解説》神の計画とは?

神の計画とは?

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神の計画…

パウロは神を「みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って」(エペソ1:11)と語って,世界と歴史に対して包括的な御計画を持って働かれる方であると言う.聖書の神は御計画を持つ神である.神の永遠の計画を神学用語では聖定と言う.ウェストミンスター小教理問答はこの聖定について古典的な定義を与えている.「神の聖定とは,神の御旨の深慮による永遠の計画であって,これにより,神は御自身の栄光のために,何事によらず起ってくるすべてのことを予定しておられる」(問7の答).<復> 神の聖定と人間の支配者たちの決定との間には類比があるが,しかし重大な相違が両者の間には存在する.神学者たちは神の聖定的意志と命令的意志とを区別する.神の命令意志と人間の決定との間には密接な並行関係がある.神の命令の意志は,神が被造物に定められた命令や戒命や律法であって,服従を要求されているが,しばしば違反されるものである.聖定的意志のほうは,神の永遠の,全包括的な,不変的な計画のことであって,歴史の中に必ず実行されるものである.<復> 英訳聖書(英欽定訳1611年)では,decreeという用語は神学で言う聖定以外のいろいろの意味で用いられている.例えば,人間の決定についての聖書の例を幾つかあげると,王以外の者に祈願してはならないというダリヨス王の禁令(ダニエル6:7,8,12‐15),神の宮を再建せよとのクロス王の命令(エズラ5:13),住民登録をせよとの皇帝の勅令(ルカ2:1.参照使徒17:7).同じ用語(decree)がエルサレム会議が決めた規定に用いられている(使徒16:4).神については,いと高き方の宣言(ダニエル4:24),雨のためにその降り方を決め,海にその境界を置き(ヨブ28:26,箴言8:29),主の定め(詩篇2:7)のような場合に用いられる.<復> 神学で神の聖定と言う場合,天地の創造以前になされた神の永遠の計画のことを言う.有限の人間に対して神は永遠の存在である.従って神の御計画あるいは聖定は創造以前になされた.選民は「世界の基の置かれる前から」選ばれたのである(エペソ1:4.参照ヘブル4:3,Ⅰペテロ1:20,Ⅱテモテ1:9,Ⅰコリント2:7,エペソ3:11).<復> 永遠と時間,神の主権と人間の責任との関係は,神の永遠の聖定についての人間の理解を非常に困難にする.幾つか区別をすると理解しやすいであろう.聖定が永遠であると言っても,神が永遠であるというのと全く同じ意味で永遠なのではない.聖定は神の自由な,主権的な意志の働きの結果である.この活動は三位一体の神の内における神の必然的な活動から区別されねばならない.聖定はまた歴史の中における聖定の実現と区別されねばならない.天地を創造するという聖定行為は永遠であるが,聖定に基づく創造行為は,時間とともに,時間の中で行われる神の行為である.イエス・キリストをこの世に遣わされる永遠の聖定は,皇帝アウグストの時代にイエスがマリヤより生れるまで遂行されなかった.神が聖定された出来事のうち,創造,再生,イエス・キリストの第1,第2の到来のような出来事は神の直接的なみわざとして起る.他の出来事は聖定に基づき,神の摂理の下で,人間の働きを媒介として歴史の中に実現する.ある場合には,神の律法に従って生活する人間の服従行為を通して起ってくるが,またある場合は,キリストの十字架の場合のように,人間の,神のみこころに反する罪深い,不服従の行為を通して聖定は実現される.神の主権と人間の責任あるいは無責任が,聖定の実現という場で,複雑に関係している問題点はイエス・キリストの十字架についての聖書の言及を検討する時明らかになる.<復> 神の永遠の聖定は明らかにキリストの十字架の背後にある.その死に先立って,イエスは,「人の子は,定められたとおりに去って行きます」と言われたが,同時に,「しかし,人の子を裏切るような人間はのろわれます」(ルカ22:22)と言われた.ペテロは,ナザレのイエスは「神の定めた計画と神の予知とによって引き渡された」と語るが,同時にそれは,あなたがたが「不法な者の手によって十字架につけて殺した」(使徒2:23)のだ,と言って人々の罪を責める.キリストの十字架は,「あなたの御手とみこころによって,あらかじめお定めになったこと」が行われたのであるが,「ヘロデとポンテオ・ピラトは…あなたの聖なるしもべイエスに逆らって…行なった」のである(同4:27,28).今引用された3箇所とも,神の聖定の遂行としてのキリストの十字架と,それが人間の罪の行為を通して起ってきたことの両面が述べられている.キリストの十字架において,神のみこころに従われるイエスと神のみこころに逆らうユダ,ヘロデ,ピラト,異邦人,イスラエル人の罪を通して,神の聖定は遂行される.従って,神の聖定の実現の器として用いられたとしてもその罪の責任は少しも軽減されない.キリストの十字架の出来事という点で神の主権と人間の責任の関係を考察することは,神の聖定と人間の歴史の関係に含まれている複雑な問題を理解する有力な助けとなる.<復> 永遠の聖定はまた預言の説明を与える.神の聖定は大部分隠されていて,啓示されない.キリストを十字架につけた人々は,神の聖定について知らなかった.しかし,預言は神の永遠の計画のかぎとなる特色を啓示する.最初のそのような預言は女の子孫から救い主が出るという約束である(創世3:15).この約束は黄金の筋道のように全聖書を貫いている.イザヤはしばしば神の聖定に言及し,偶像と主とを比較する(イザヤ46:5‐11).「わたしのような神はいない.わたしは,終わりの事を初めから告げ,まだなされていない事を昔から告げ,『わたしのはかりごとは成就し,わたしの望む事をすべて成し遂げる.』と言う」(同46:9,10).いまだ歴史の中に実現していないが,預言によって啓示されている神の聖定がやがて必ず実現されるということは,キリストの再臨,神の国の完成,新天新地における永遠の生命といったクリスチャンの希望の確かな基礎となるものである.<復> 神の永遠の聖定の教理は,アウグスティヌス主義的,改革派神学において,神の主権と予定の教理との関係で考察された.ペラギウス主義的,自由主義的神学はこの教理を人間の自由と歴史の意味と両立しないものとして否定した.半ペラギウス的,アルミニウス主義的神学は聖定を将来起ってくる出来事についての神の予知に限定した.<復> 永遠の聖定の教理に対する伝統的反対説は,それが人間の責任と両立せず,歴史を無意味にし,神を罪の作者とする,ということである.上述した幾つかの区別と,キリストの十字架の例証は,そのような反対説への反答である.神の聖定的意志と命令的意志を区別しなかったり,聖定とその遂行の複雑な仕方を区別することに失敗すれば,神の聖定を運命論的に,決定論的に考えるようになる.人間はロボットのように考えられ,歴史は作成されたプログラムに従って働くコンピュータかあらかじめレコードされた視聴覚教材のようなものであると考えられるようになる.しかし,歴史の有意味性は,少なくとも部分的には,神の聖定のひそかな,非啓示的性格と,われわれの人生は神の啓示されたみこころに従って支配されるべきであるという神の要求とによって,増進される.アダムの堕落とキリストの十字架が神の聖定に含まれていても,聖定はその生起を確実にするが,その生起を強制するものではない,と聖書は明瞭に示している.その場合,人間は自由に,しかも無責任に行為するのである.人間は,人間がそれをしてはならない,と神が命じたまさにそのことを,神のみこころに反して行う,という仕方で神の聖定を遂行するのである.<復> 最後に信条と神学における聖定論の位置とその取り扱いについて簡単に述べてみたい.聖定論が信条の中で独立した項目として取り扱われるのはアイルランド信条(1615年)で,三位一体なる神に対する信仰の後,創造とすべての事物の統治について,の前で,神の永遠の聖定と予定について(11条聖定論,12—17条予定論)という項目で取り扱っている.ウェストミンスター信仰告白は第3章で神の永遠の聖定について教えているが,これはアイルランド信条の伝統に従っている.ウェストミンスター大・小教理問答もこれに従っているが,教理問答で聖定論を教えているのはウェストミンスターだけである.<復> 19世紀,20世紀の標準的な改革派神学者であるディック,ダブニ,ホッジ,シェッド,カイパー,バーヴィンク,バーコフなどみなこの叙述方式をとっている.17世紀前半によく読まれたJ・ヴォレビウスの『キリスト教神学要綱』(1626),W・エイムズの『神学の精髄』(1623)でも同じである.カルヴァン(1509—64年)の『キリスト教綱要』の最終版が1559年であるが,カルヴァンは第1巻で,神,創造,摂理という取り扱いをして,この摂理論の中で聖定に言及しているが,神,聖定,創造,摂理という叙述の方式をとっていない.16世紀の終り頃にはカルヴァンと違った叙述方式が定着してきたことは1615年に書かれたアイルランド信条がこれを採用していることからもわかる.ベザのキリスト者の信仰告白(1558年)では神論に続いて神の永遠の摂理という題で聖定論を取り扱っている.→予知・予定論,摂理,救済史,時.<復>〔参考文献〕L・ボエトナー『カルヴィン主義予定論』小峯書店,1974;Bavinck, H., The Doctrine of God, Baker, 1951 ; Berkhof, L., Systematic Theology, Eerdmans, 1949.(矢内昭二)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社