《じっくり解説》ドミニクス,ドミニコ修道会とは?

ドミニクス,ドミニコ修道会とは?

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ドミニクス,ドミニコ修道会…

1.生涯.<復> ドミニコ修道会として知られる「説教者兄弟会」の創立者ドミニクス([ラテン語]Dominicus,[英語]Dominic.スペイン語ではドミンゴ・デ・グスマン〔Domingo de Guzman〕)(1170年以降—1221年)は,1170年頃,スペイン北部カスティーリャ(Castilla)地方のカレルエガ(Caleruega)にグスマン家三子の末子として誕生した.父フェリクス・デ・グスマンは小さな荘園の領主,母ハネ・デ・アサも地方豪族の出身であった.母の薫陶のもと,幼少より2人の兄と同様に聖職者を志す.パレンシアの大聖堂付属学校で人文学と神学を学んだ後,改革されたオスマの司教座聖堂参事会に招かれ,1201年,副会長となる.この会は当時,アウグスティーヌスの修道会規則を採用して共住生活を守る修道参事会になったばかりであった.彼は司教ディエゴ(Diego)を助け隠修的修道院生活に励み,人々の霊的指導に当った.<復> 1203年,司教の使節団一行に加わり南フランスに派遣された時,アルビ派の異端紛争が生んだ荒廃を見た.同派は12世紀中頃からヨーロッパ全土に広がった,カタリ派(「純粋な者」というギリシヤ語から出た名称)の一派で,南フランスのアルビを本拠地としたことからこう呼ばれた.アルビ派はマニ教の善悪二元論を受け継ぎ,物質は悪であるという観点から,結婚,出産,富の所有など,果ては飲食まで拒否して,生命の断念をさえ理想とするなど,極めて厳格な生活を目指した.その急速な拡大は,以下の理由が複合的に作用したからと考えられる.(1)同派の指導者が使徒的生活を実践した.(2)背後に支援する封建領主が存在した.(3)軍事力による鎮圧の逆効果が生じた.(4)教会側に,戒律と観想,学識と宣教活動などが調和した霊的生命力が不足していた.(こうした異端活動に対してワルドー派〔リヨンのヴァルデスを創始者とする〕が起るが,彼らも異端視された).すでに教皇インノケンティウス3世は教皇使節や宣教団を派遣して,この派の人々を教会に復帰させるための宣教活動を指令していた.<復> さて使節団員としての使命を果した後,ローマ巡礼の時,ドミニクスは教皇インノケンティウス3世に会い,デンマークの異教徒への宣教許可を乞うたが許しは得られず,教皇は逆にアルビ派への宣教を勧めた.帰途,南フランスのモンペリエで使節団一行を先に帰らせたドミニクスとディエゴとは「異端者以上に厳格な清い生活」を実践しながら宣教と教化の活動に入った.第2次アルビ派討伐十字軍による戦乱と虐殺の最中,ドミニクスら「貧しいキリストの説教者たち」はルカ9:1‐6を文字通り実行して,何も持たず,施物を受け素足で巡回しながら各地で説教を行い,次第に同志を増していった.ドミニクスの「福音的説教」の誕生である.司教ディエゴの帰国後もドミニクスはフランスにとどまって宣教活動に当り,プルイユにアルビ派から復帰した婦人たちによる女子修道院を創設した(1207年).わずかな説教者と10名ほどの修道女の小集団であったが,これが後年の説教者兄弟会,すなわちドミニコ会の母体となった.1208年に,領主側による教皇使節暗殺事件が起り内乱が生じた.しかし戦乱中もプルイユ地方に限定されてはいたが,ドミニクスの活動は継続した.1213年,教皇軍はアルビ派軍に対する決定的勝利を収めて内乱は鎮圧された.1215年にドミニクスの新修道会設立計画が急速に進み,既存の会則,つまりアウグスティーヌスの修道会規則に従うという教皇の基本方針に基づく,最初の修道院がトゥールーズに設けられた.こうしてドミニコ修道会は1216年12月22日,新教皇ホノリウス3世によって正式に認可された.以後,ドミニクスはローマの聖シスト教会を本拠として司祭の職務に励むとともに,フランス,スペイン,イタリア,ハンガリー,ドイツ,イギリスにおける修道院の新設と巡視など修道会の組織作りと統率に専念した.(彼はまた,ロザリオの創案者と伝えられる).1221年,修道会の第2回総会議を主宰した後,ベネチアを視察してボローニャへ赴き,同年8月6日,同地で没した.<復> 2.ドミニコ会(Ordo Fratrum Praedicatorum.略称O.P.).<復> (1) 特色.原初の『会憲』には「本会は,初めから特に説教と救霊のために設立された」と設立目的が明示されている.世俗を脱して個人的な修徳の道を求める従来の大修道院と異なり,その精神を継承しつつも,観想生活で得たものを諸活動に結び付け,特に民衆への説教活動とその結果としての救霊活動を目指した.さらに,諸活動の準備として修学に専念し,個人的にではなく修道会全体が福音的清貧の徹底的な実践を唱え,托鉢(たくはつ)の生活をひたすら守った.「会員は自他の救霊の実現を熱望する者として,どこにいても徳と敬虔を涵養し,福音の器として救い主の御足跡に従い,神とともに,神について,自他に語りかけなければならない」と『会憲』に記されている.<復> (2) 基本的方法.「基本会憲」は,設立当初から遵守されている手段を明記している.それは会員の一致和合による共同生活,清貧・貞節・従順の「3終生誓願」の厳守,典礼や聖務日課による礼拝の共同挙式,不断の勉学,修道生活の規律遵守である.<復> (3) 真理の修道会.この修道会は「真理の修道会」(Ordo veritatis)と呼ばれ,四つの百合の紋章から「百合の修道会」とも呼ばれた.「天使の博士」トマス・アクィナスや「天使の画家」フラ・アンジェーリコを擁し,思想界においてアリストテレースやアラビアの哲学を導入したり,中世神秘思想の開花に大きな役割を果すなど,その呼び名にふさわしい貢献を果した.(従来の隠修修道生活の伝統においても聖書や教父の研究は重要視されたが,個人的な敬虔と観想を深めることが主要な目的となっていた).ドミニコ会においては,従来の肉体労働に代えて勉学が重要な修道義務に加えられ,修道院生活の日課においても研究に優先性が認められた.新入会員の勉学義務について「勉学に精励し,昼も夜も,在室中も旅行中も,何かを読書し思索し,できるだけ記憶に留めるべきこと」が定められている.同会には検討を重ねて作成された教育機関があり,その頂点に「ドミニコ会大学院」(Studia generalia)があった.それは司祭や修道者養成のための学院ではなく,一般人のための大学であって,今日の専科または総合大学に当る.また各修道院には神学博士が配属され,各管区には優秀な教授陣を備えた学問所(Studium particulare)が,諸大学や主要都市には大学問所(Studium generale)が設けられて逸材の養成に当った.<復> (4) 組織.ドミニコ修道会は,大修道院のような院長中心の家父長的組織を取らなかった.大土地を所有せず(ただし1475年に教皇シクストゥス4世は,同会の清貧についての会則を廃棄して財産の所有と永続的収入源の確保を許可した),各個修道院の独立を拒み,修道会全体が民族や国境を越えた一つの全体として組織された.各修道士は個別の修道院にではなく,ドミニコ修道会全体に所属する.その結果,修道会は各修道士を会全体の必要に応じて各地へ派遣できた.その上,会全体が教皇に直属していたから,各地の司教に支配されない態勢となっていた.<復> 第2回総会では管区制が採用された.管区長は修道会の全院長と各修道院からの2名の代議員によって選出され,各修道院長は全員の互選とされた.全会を統括する総会長(Magister generalis)は終身であるが,全管区長と各管区からの2名の代議員からなる総会で選出される.総会,各管区会議,各修道院会議は定期的に開かれた.全員の意志の反映を求めて中央集権化を防ぎ,以後の修道院制度の典型となった.また,ドミニコ修道会には二つの会が付属している.ドミニコ第2会([英語]Second Order)は,教皇所定の禁域制度を守り観想生活を行う女子修道会であり,第3会([英語]Third Order)は修道院外での使徒的活動を行う女子修道会である.<復> (5) 進展.歴代の教皇はドミニコ修道会を重用し,十字軍への説教や外交任務に当らせた.異端審問裁判所の裁判官が主としてドミニコ修道士であったことから,「正統信仰の番犬」とあだ名された.14世紀初頭,北欧からアフリカ大陸北岸まで,ブリテン諸島からスラブ部族の奥地までの広範な地域に1万5千名の会士が活躍したと言われる.さらに16—17世紀にはラテンアメリカ,スペインやポルトガルの植民地,中国や日本に布教を拡大し約3万人の会士が活動した.また各国の主要な大学などにおいて,フランシスコ修道会士とともに指導的勢力となった.代表的な人物に,アルベルトゥス・マグヌス,トマス・アクィナス,エックハルト,画家のアンジェーリコ,政治活動の修道士サヴォナローラ,新大陸先住民のために尽力したバルトロメ・デ・ラス・カサスなど,現代では聖書学者ラグランジュ,教会論のコンガール,第2ヴァチカン公会議で活躍したスヒレベークらがいる.→修道院制度.<復>〔参考文献〕S・ブロウ「ドミニコ」『ブリタニカ国際大百科事典』TBSブリタニカ,1988;W・デットロッフ『中世ヨーロッパ神学』南窓社,1988;竹島幸一「13,14世紀におけるドミニコ会の教育」『中世の教育思想』下(教育思想史Ⅳ)上智大学中世思想研究所,1985.(岩本助成)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社