《じっくり解説》パレスチナ問題とは?

パレスチナ問題とは?

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パレスチナ問題…

第1次世界大戦後にパレスチナを巡り,強国の政策がかかわり合って生み出されたアラブ対イスラエルの民族対立を基調とする国際問題.<復> 1.起源.<復> パレスチナ問題の起源は,イギリスの矛盾した政策にあったと言うことができる.<復> 19世紀において,パレスチナはオスマン・トルコの支配下にあった.パレスチナは,7世紀以後代々アラブの土地であり,ユダヤ人はほとんど居住していなかった.<復> ヨーロッパにおける民族主義の傾向に触発されて,20世紀の初頭,パレスチナにアラブ再興運動が始まり,アラビア語の新聞が発行された.一方,シオニズム運動もヨーロッパにおいて開始され,ヘルツルは,トルコに働きかけて,ユダヤ人の国家をパレスチナに再興しようとしたが,失敗に終った.しかし,ユダヤ財閥等の援助により,ユダヤ人の入植者が増加した.1919年のパレスチナ人口は約70万人であり,そのうちイスラム教アラブ人は56万8千人,キリスト教アラブ人その他7万4千人,そしてユダヤ人は5万8千人であった.<復> パレスチナは第1次大戦により被害を受け,1918年にはイギリスが全地域を占領するに至った.大戦中,アラブ側はイギリスに働きかけ,1915年にフセイン=マクマホン協定を結ぶことに成功した.これは,アラブの独立をパレスチナに約束するものと見なされた.<復> 一方,1917年11月,イギリス外相バルフォアは,パレスチナにユダヤ人の民族的母国を建設することを認めるバルフォア宣言を発表した.これは,対トルコ戦のためにパレスチナのユダヤ人の協力を得ることと,特にアメリカのユダヤ人の連合国への支持を獲得することとを目的にしたものであった(→コラム「バルフォア宣言」).<復> このように矛盾する約束を締結したイギリスは,トルコの敗戦後,パレスチナに対する国際連盟の委任統治国になると,アラブの反対を押し切り,バルフォア宣言に基づくユダヤ寄りの政策を次々と実施した.これがアラブ側の不満,ひいてはテロ活動を引き起した.1937年,イギリスはパレスチナ分割案を発表したが,両者の反対で実現しなかった.<復> 2.展開.<復> (1) 第1次中東戦争(1948—49年).第2次大戦中,ユダヤ難民がパレスチナに移住し,国家建設の要求が強まった.また,この時,シオニズム運動は,イギリスのアラブとのバランス政策に反発し,アメリカを新しい支持者とする政策に転じた.ソ連もまた,中東でのイギリスの勢力を打破する意図により,アメリカと同調する立場をとった.1947年11月,国際連合総会におけるパレスチナ分割案は,このようなアメリカとソ連との支持により可決された.そして,1948年5月1日をもってイギリスの委任統治が終り,イギリス軍が撤退するとともに,アラブ,ユダヤ両国家に分割されることとされた(→図1「1947年の国連パレスチナ分割案」).<復> 1948年5月14日,ユダヤ人は臨時国民議会を組織し,イギリス軍の撤退と同時に,テルアビブ市においてイスラエル共和国の独立を宣言した.アメリカはこれを承認したが,国際連合の決定に強い不満を持つアラブ連盟諸国は,パレスチナに侵入し,約1年にわたる戦争が勃発した.これは,イスラエル独立戦争またはパレスチナ戦争とも呼ばれる(→図2「1948年5月15日.イスラエルに対するアラブ側の攻撃」).<復> エジプト,ヨルダン,シリア,レバノン,イラクとパレスチナ人のアラブ解放軍を敵にし,イスラエル軍は最初は苦戦したが,次第に優勢となり,1948年11月16日には,国際連合は休戦を呼びかける決議を採択した.イスラエルは翌年に,エジプト,ヨルダンとロードス島で,レバノンとロシュ・ハ・ニクラで,シリアとマハナイムで,それぞれ休戦協定を締結した(→図3「第1次中東戦争終結時のイスラエル領(1949年)」).<復> この戦争の結果,イスラエルは,分割案によって割り当てられた国境をはるかに越えた地域を獲得した.しかしこの時,75万人に及ぶアラブ人難民が生み出された.彼らは,周辺アラブ諸国に移住するか,イスラエル領に残った者も,三流・四流のイスラエル市民としての位置を余儀なくされた.ここに,かつて差別され迫害された民族が,今度は他民族を差別,迫害するという悲惨な状況が生じた(→図4「1948年のパレスチナ難民の推定人口」).<復> (2) 第2次中東戦争(1956年).第1次中東戦争後,イスラエルはユダヤ移民を積極的に受け入れ,また目覚しい経済的社会的躍進を遂げ,西欧諸国の水準に迫るほどになった.しかしアラブ側は,反イスラエルという共同戦線を張っていたが,互いの利害が一致せず,さらに革命とクーデターの続発により足並みが乱れた.<復> この間,ソ連は,イスラエルのアメリカ寄りが明白になると,アラブ側を支持するようになり,1953年2月には,ソ連公使館爆破事件により,一時的ではあったがイスラエルとの国交が断絶するまでになった.<復> この頃,ナセルのエジプトは,急速にソ連に接近し,ソ連の支持により,1956年にスエズ運河の国有化を宣言した.この宣言は,イギリスとフランスの武力介入を誘発したが,イスラエルは2国に乗じて軍事行動を起し,同年11月2日に全シナイ半島を制圧した.イギリス軍とフランス軍もカイロ,ポート・サイドを爆撃した(→図5「第2次中東戦争(1956年)」).<復> しかし,アメリカはこの攻撃に反発,国連緊急総会が11月2日に即時停戦決議を採択し,イギリス,フランス,イスラエルは撤兵を余儀なくされた.<復> この結果,スエズ出兵に失敗したイギリスとフランスは,パレスチナにおける伝統的な支配力を失い,ソ連とアメリカが勢力を拡大することになった.またイスラエルは,「帝国主義の手先」として批判されたが,ティラン水道の自由航行権を獲得するのに成功した.また,エジプトは戦争には敗れたが,外交的には勝利したことにより,アラブ世界における指導権を強めた.そして1964年1月にはカイロにおいて第1回アラブ首脳会議が開催され,そこにおいて,パレスチナ人を「唯一正統に代表する」組織としてのPLO(パレスチナ解放機構)の設立が決定された.<復> (3) 第3次中東戦争(1967年).1960年代には,パレスチナ難民によるゲリラ集団のファタハ(パレスチナ民族解放運動)が武装闘争を開始した.彼らは,シリア,ヨルダン,レバノンからイスラエルに侵入して,破壊活動を展開した.イスラエルが国内の経済的危機問題を抱え,シリアとの緊張も高まった1967年5月,ナセルはティラン水道を再封鎖した.これに対して,イスラエルは,6月5日早朝に,空軍による先制攻撃を加え,その後6日間において,南はシナイ半島,東はヨルダン西岸地帯,北はゴラン高原に至る地域を制圧し占領した.6日戦争と呼ばれるこの戦いで,イスラエルは衝撃的勝利を収めた(→図6「第3次中東戦争終結時におけるイスラエル支配領域(1967年)」).<復> 同年11月,国連安全保障理事会は,決議242号を採択し,イスラエルとアラブ諸国の生存権を保障すると同時に,イスラエル軍の占領地からの撤退を求めた.しかし,イスラエル占領地問題は未解決のまま深刻化した.その後,アメリカとソ連の協調外交により,パレスチナは,しばらく休戦状態となった.この間,PLOはファタハ,PFLP(パレスチナ解放人民戦線)等を中心に再編成され,パレスチナ人の急進化が進んだ.<復> (4) 第4次中東戦争(1973年).パレスチナ・ゲリラは,テルアビブ空港乱射事件(1972年),ミュンヘン・オリンピック村襲撃(同年),ローマ空港襲撃事件(1973年)等のテロ活動を行った.そして,1973年10月5日,イスラエルの贖罪日(ヨム・キプール)をねらって,サダトのエジプト軍とシリア軍とが奇襲攻撃を行い,スエズ運河を渡り,イスラエル陣地を制圧した.10月戦争あるいはヨムキプール戦争とも呼ばれるこの戦争は,アラブとイスラエルの背後にあるソ連とアメリカとの代理戦争でもあった.この戦争は,アラブ産油国の石油戦略の援護もあり,アラブ側の勝利に終った.10月22日,国連安全保障理事会は,決議338号により停戦を要請し,1974年1月18日,第1次エジプト・イスラエル兵力引き離し協定が成立した.<復> 3.最近の動向.<復> イスラエルは,占領地のパレスチナ人を労働力として組み込み,同時にユダヤ人入植地を拡大していった.1977年リクード政権成立後,カーター米大統領によるキャンプデービッド合意,さらに翌年にはエジプト・イスラエル平和条約により,エジプトと国交を樹立した.一方,パレスチナ人に対しては,1982年に全面的なレバノン戦争を開始し,PLOの勢力をレバノンから排除することに成功した.PLOは大きな打撃を受け,1983年以後内部対立が生じた.しかし,1988年1月,国連総会は,PLOの国連における呼称を国家なみに「パレスチナ」とすることを決定した(→図7「1989年現在のイスラエル支配領域」),→シオニズム.<復>〔参考文献〕石田友雄『ユダヤ民族の悲劇と栄光』六興出版,1974;Gilbert, M., Atlas of the Arab‐Israel Conflict, Macmillan, 1974.(黒川知文)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社