《じっくり解説》キリスト者の歴史観とは?

キリスト者の歴史観とは?

キリスト者の歴史観…

歴史とは,人間社会の中で起った様々な出来事(事件)の記述されたものと定義できるが,その出来事のすべてを記録するのは不可能である.出来事は取捨選択され,時に,口伝,詩,文学の形に,あるいは歴史書として記述が行われる.この取捨選択をする際の視点は,歴史を叙述する者の価値観や目的意識によって大きく左右される.これは,叙述者の世界観や信奉する宗教的信念に基づいて形成されるものである.このような歴史に対する見方,視点を歴史観と呼ぶ.ここから,歴史を記述する場合,記述者の主観の入らない,無色透明,中立の歴史記述というものは存在しないと結論できる.<復> 過去に起った出来事(歴史的事件)を記録しようとした人間の営みは,文字の発明とともに古く,考古学的に発掘された碑文などから,政治的支配者の業績を顕彰する目的で行われたことは明らかである.古代ギリシヤにおいては,生起する出来事を反省し,その中に,現在から未来に生きていく際の教訓を見出そうとする意識が目芽え,この歴史意識から歴史書が次々に著作されるようになった.ギリシヤの歴史書(ヘロドトスの『歴史』トゥキュディデスの『戦史』など)では,なぜ出来事が生じるのか,様々な形で生じる歴史的事件に共通な永久不変の真理はあるのか,といった問が,歴史叙述の動機となっていた.<復> 一般的に,古代ギリシヤ人の歴史観の特色は,決定論,運命論であるとされる.歴史的な事件として生じてくる出来事は,人間を越えた力の支配下にあると考えられ,それは運命の女神の手に握られた運命,宿命という力であったとされる.このような決定論は,古代ギリシヤにとどまらず,近代に至るまで有力な歴史観であった.例えば,ルネサンス時代,占星術の復興とともに,歴史的事件を,天体の配置,運行と結び付ける歴史観が流行した.現代でも,歴史が一定の宿命の下にあるという歴史観は多くの人を支配しており,国家の運命も,個人の運命も,運命の支配下に必然的に生起するものとされ,様々な形で起ってくる出来事に対しては諦念(ていねん)をもって受け入れるほかはないという,歴史に対する受動的態度を生み出している.このような歴史観からは,歴史を変革していこうとする努力は出て来ないのである.<復> この決定論の一つに,円環説(循環説)がある.歴史は,閉された宇宙の中で,円環がぐるぐると回るように繰り返されるというもので,天体の動きや四季の環境性が歴史と類似性を持つものとされ,諸国の興亡盛衰も,結局同じ経過をたどると解されるのである.この世に生命を持つものは,死んでもまた生れ変り,永久に世界を巡るという仏教の輸廻思想にも通じる歴史観である(歴史は繰り返される).<復> 他方,この円環説に対置される歴史観として,歴史の進展性を認めようとするものがある.つまり,歴史は繰り返されるものではなく,一定の法則にのっとって発展していくものと見る見方である.この歴史に対する見方は,古代ギリシヤにも存在していたが,近代においては,ダーウィンの進化論を歴史に適用する歴史理論として形成される.歴史というものは,適者生存の法則に従って発展していくとされる.歴史上の出来事や経過は一度限りであり,その進展は一定の法則の下でなされるのであるから,その歴史発展の法則についての探究が行われる.この場合,この法則を神と同一視する理神論の立場もあるが,無神論の立場から,一つの歴史的現象は対立する現象によって克服され(止揚され),新しい発展段階に進んでいくという弁証法的歴史観も生じた.マルクス主義の史的唯物論もこの系譜上にあり,歴史は,社会関係や経済力の対立する力の弁証法的発展として把握されるのである.<復> これに対してキリスト教はどのような歴史観を持つのであろうか.<復> キリスト教は本質的に歴史的宗教である.永遠の神のロゴス(ことば)であるイエス・キリストが,特定の時間に,特定の場所に到来された出来事と切り離して,キリスト教は存立し得ないからである.神の救いのみわざは,具体的な歴史という場を持っている.創造から終末に至るすべての歴史は,神の救済の歴史と見られる.<復> 時間は創造とともに始まり,終末をもって終る限り,不可逆的であって,円環説的歴史観は否定される.また,歴史が運命に支配されている歴史観も,キリスト者のとるところではない.そこでは歴史に対する神の介入は極力排除されるが,キリスト者の歴史観においては,歴史もまた神の摂理の下にあり,神の意志が歴史の中で現れてくる観念が支配的であるからである.歴史を支配し,動かす神の配剤,とりわけキリスト者の救いを意図する神の御旨を認めていこうとする立場であって,キリスト者が歴史を探究する場合は,歴史における神の意志を無視することはできない.<復> キリスト者の歴史観は聖書の中に見られる.特に,旧約聖書はイスラエルの歴史を,背信にもかかわらす契約に忠実であり続けようとする神の意志の現れとして記されている.新約聖書も同じく,救いの歴史の中心にいますキリストのみわざを記述している.中でも,ルカの福音書,使徒の働きは,キリストとその弟子たちの事績とことばを資料収集によって再構成しようという明確な歴史意識の下で記述されたのであり,また,パウロも,神の救いのわざが歴史の中で生じたことを強調している(ローマ1:2,Ⅱコリント6:2.参照ヘブル1:1).<復> 世俗の事件を含めた総合的な歴史記述が登場するまでにはなお時間の経過を必要とした.時代を経るにつれ,キリスト教及び教会の出来事を正確に記録し,歴史の中に位置付け,キリスト教信仰の歴史性を擁護しようという作業が求められるようになった.エウセビオスの『教会史』はこの必要から生れたものである.彼の歴史叙述の方法は,すべての歴史は神によって一つの目的に秩序立てられていること,その証拠として,イエス・キリストの到来が歴史の目指しているところであったし,教会も聖霊の導きによることが挙げられる.つまり,エウセビオスの目的は,歴史の中に神の御手を見出すことにあったのである.<復> キリスト教の歴史観を確立することに貢献したのはアウグスティーヌスである.その主著『神の国』は,ローマ帝国の蛮族による滅亡の原因をキリスト教に求める異教徒の非難に答えるという体裁をとっているが,彼の本当の意図は,人類の歴史をキリスト教の原理によって解明しようとするものであり,その意味で歴史神学の樹立を目指したものであった.<復> アウグスティーヌスは,歴史の全過程を,神の国と他の国という二つの支配の対立抗争と見る.すべての人間は,神を愛するか,神に敵するかに二分され,その態度によって,神の国に属するか,他の国に属するかが決る.しかし,神の国が最後的に勝利を占める.アウグスティーヌスによれば,歴史の歩みは,個々の出来事においては,おのおのの自由な決定に基づくが,最終的には神に決定されているとするものであった.このようにして,一貫して,歴史を越えた真の意味と人間の行為に対する神の摂理の働きを明らかにしようとしたのであり,歴史とは,出来事の集積ではなく,発展の過程でもなく,神の御旨により,終末に導かれていく過程として認められる.<復> アウグスティーヌスの『神の国』の補論として書かれたのが,その弟子オロシウスの『異教徒に反論する歴史』で,歴史を人間の罪の結果として見る点で,アウグスティーヌスよりも悲観的な傾向が見られるようになる.<復> アウグスティーヌスの歴史観は中世のカトリック教会に十分に継承されることはなかった.むしろ,出来事の結果を神のさばきと見なし,奇蹟,数字の組合せ,符号,天体の蝕などから神意を探るといった歴史叙述が好まれるようになった.ここでは歴史を救済の歴史と見るアウグスティーヌスの首尾一貫した見方は失われている.<復> 宗教改革は,アウグスティーヌス的な神学の復興であったから,その歴史観も復興することになったのは当然である.歴史を神の救済の歴史ととらえ,神の意志の現れととらえる歴史観が宗教改革者の文書に反映するようになる.<復> しかし,ルネサンス以降,人間の理性によって,歴史の合法則性を確立できるという合理主義も台頭することになった.歴史を動かすものは,神の摂理ではなく,歴史法則であるとして,歴史から神の働きを排除してしまうのである.<復> キリスト者の歴史観は,歴史を,神の救済の舞台として認めるところに特徴があると言ってよいだろう.神が歴史と切り離されると,神の救いのわざは,客観性を失い,人間の観念のみ舞台にしなければならなくなってくる.そのようなところから,神の救いのみわざが神話や説話とされるのである.<復> 歴史を,生ける神の摂理の現れと見る時,現在や過去の出来事を謙虚に受け止め,未来に対する恐れや不安を消し去り,どのようなことが起きても,それに耐える力が生み出されてくるものであるということができよう.→時,摂理,歴史神学.<復>〔参考文献〕R・H・ベイントン『キリスト教歴史観入門』教文館,1980;林建太郎/澤田昭夫『原典による歴史学入門』講談社,1982;Marsden, G./Roberts, F.(eds), A Christian View of History, Eerdmans, 1975.(金田幸男)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社