《じっくり解説》十字架の神学とは?

十字架の神学とは?

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十字架の神学…

「信仰義認」と並んでルター神学を特徴付ける最も重要な概念の一つ.1518年の『ハイデルベルク討論』でルターが自らの立場をこう呼んだことに由来する.彼は神学を「栄光の神学」と「十字架の神学」とに分け,後者の中にこそまことの神認識があると説いた.「栄光の神学」とはローマ・カトリック神学のことであり,人間の内に神の栄光と通ずる何らかの「栄光」を見出し,それを媒介にして人間と神とを結び付けることをもって救いと見なす神学的立場を意味する.これに対してルターは,そのような栄光の可能性を微塵も持たないほど救いがたく暗い罪の淵に沈んでいるのが,神の前における人間の真の姿であると言う.そして真の神学とは,人間がまさにそのような者であることをわれわれに知らしめ,その罪のゆえに「十字架につけられたもうたキリスト」なる神に,まずわれわれの目を向けさせるものでなければならないとする.「栄光の人間」と「栄光の神」に代えて,栄光の可能性などすべて,いわば十字架上で死なしめられている「十字架の人間」と,その栄光がどこまでもキリストの受難の中に隠されている「十字架の神」を説くもの,それがルターの「十字架の神学」である.それは,彼の見たカトリック的救済論の本質と彼自身の立場とを鮮明に対比させつつ,われわれを福音主義の根本へと導くものである.<復> 『ハイデルベルク討論』提題21に「栄光の神学者は悪を善と言い,善を悪と言う.十字架の神学者はそれをあるがままの姿で言う」とある.ルターにとっての「悪」とは何か.それは「人間のわざ」すなわち「人間が自分自身の中にあることをなすことによって恩恵に達しようと考える」ことにほかならない.「自分自身の中にあることをなすこと」(faciendo quod in se est)—人間的可能性の実現—は,それ自体すでに自然的人間の持つ自己追求的・自己義認的姿勢を意味するが,それが神の前での悪として決定的にあらわになるのは,人が自己的可能性の実現をおのが救いの根拠となそうとする点においてである.その点こそ人間の自己義認・自己栄光化の極みであり,「悪しき自己信頼」「傲慢」以外の何物でもない.可能性を救いの根拠となすというのは,要するに人間が,いわば神へと通ずる「真・善・美」の何らかの可能性を自己の内に見出しその追求を図ることであって,救いと結び付けられたそのような「真・善・美」的可能性の論理が,ルターの糾弾する「人間のわざ」にほかならない.「わざ」の視点は常に,愛や善の理念がこの私においていかに具現化され得るか,に置かれる.それは,可能態から現実態への—低次なものからより高次なものへの—主体の実体的変化に生の論理構造を見るアリストテレース的自己実現の論理である.その際その「自己実現」が,人間自身の手によって達成されるかそれとも他力的に神の助けによってかといういわば内輪の問は,「自己実現」という枠組み自体をいささかも変えはしない.ある意味で「神の助けによる自己実現」という理念こそ,自己実現的論理の行き着くところと言ってよい.それは,いわば狡猾なしたたかさでもって神を出しに使いながら,結局は自己信頼・自己肯定に落ち着くことを意味する.自己実現の根底をなすのは「自己信頼」である.愛とか善の行いも,現実には神なしに達成できないことであるとしても,神的助けによりそれを自己の内に追い求めるということにおいて,すでにそれは姿を変えた自己信頼と言える.そういう自己信頼的発想をルターは「悪」と呼んで,これを鋭く否定するのである.<復> ところが「栄光の神学」つまりカトリック的救済論は,ルターにあっては悪でしかない「わざ」を少しも否定的なものとは見ず,逆に「善」と見なす.なぜなら「栄光の神学者」は「神の見えない本質が造られたものによって理解されると認める者」(「前掲書」提題19)であり,神と人間との存在論的類比を救済論の起点とする立場に立つからである.彼らにとって救いとは,堕罪により損なわれている神との存在論的同質性・連続性を信仰の力をもって再び十全なものに建て直し,神の本性に人間として可能な限りあずかっていくことを意味する.従って,信仰により正しく導かれた人間的可能性の追求は,神意であり救いの必須条件でこそあれ決して否定されるべきものではない.信仰とは,神の恩寵によって人間的可能性が無限の広さと深さを与えられ,われわれがやがては神への純粋で至高なる愛に生き得るほどになるまで高められることを信じることとされる.「栄光の神学」にとってはこのような信仰こそ「善」であり,信仰を持たずに自己の可能性に絶望することは「悪」である.<復> しかしまさにその「悪」すなわち「自己の可能性に絶望すること」こそ,「十字架の神学」にとっての善なのである.なぜなら「自分自身への徹底的な絶望」こそがわれわれを神との真の関係へと導くからである.それのみが,「十字架の善」である「キリストの恩恵」を,キリストの受難と十字架とを通してもたらされる神の義認の恵みを,人間に知らせるからである.「栄光の神」と連なり一体となった人間的可能性の中にではなく,「人性と弱さと愚かさ」ゆえに十字架という「受難の中に隠れていたもう神」のみに救いは存する.信仰とは,神と言いながら結局は自己実現的論理に舞い戻ることではなく,受難の神キリストにただひたすら人格的な信頼を置くことであり,いかなる自己的可能性にでもなくただ義認の全き恵みに望みを置くことなのである.ルターのこのような信仰論の底には,人間はいわば徹底して「十字架的」な存在である,という洞察がある.愛や善を追求するなどという自己信頼的ロゴスの生れる余地を全く許さないほど絶望的に深く罪に沈んだ者というのが,ルターの見る神の前なる人間の姿である.人間は,もはや神による愛の可能性すら望み得ないほど徹底して神に背いた存在なのである.救いは一方的な神の義認の恵みをひたすら信じるところにのみあるというルター的信仰の立場がそこから出てくる.それは,実体的自己のいかなる面をも,それがどれほど気高く真実な光に包まれたものであっても,救いの契機とは断じて見ない立場であり,その意味で「わざ」の立場とは対極をなす.<復> ルターが「わざ」的立場を糾弾するのは,自己実現的論理が「神」という仮面をかぶった人間の自己信頼にほかならず,自己実現と神信仰とは両立しないからである.自己実現的主体は,神さえも含めてすべてを,実現すべき自己の「内容」として取り扱うのであって,そこには真に他者なる神は存在し得ない.実在する神と信仰においてまみえるということと人間的自己実現とは,原理的に相いれないのである.神を人間の主体実現のレベルで取り扱うのは,とどのつまり自己実現の一契機たる「客体」としての「神」にかかわることであり,そういう「神」への「信仰」を盾に主体の実体的高揚を図るのは,一個の自己完結的な生を志向することであって,ルター神学からすればそれこそが罪なのである.それは,真に実在する他者としてわれわれに人格的に対峙する神の,否定につながるからである.「栄光の神学」が愛や聖の理念に照らしつつ,自己完結的生の中身を問題とし吟味するのに対し,ルター的「十字架の神学」は,自己完結性そのものに罪を見る.<復> この根源的罪認識へとわれわれを導くのが信仰にほかならない.信仰のもたらす義認と罪認識とは同じ事柄の裏表であって,両者相まってわれわれを自己完結的生とは逆の〈神の前なる開かれた生〉へと導いていく.罪認識とは,神のまなざしでもって今の己の姿を見ることにほかならず,その意味で罪の自覚は,人がすでに神の前にあることの印と言える.罪認識こそ,ルターにとっては,人間に可能な唯一の神認識である.そして,神との交わりを拒絶して専ら自己完結的であろうとする人間にその罪の自覚をもたらすもの,それが十字架であり,その意味で「十字架につけられたもうたキリストの中に,まことの神学と神認識が存する」のである.「わざ」の全き呪縛のもとにある人間は,救いに入るためにまず「自分自身に徹底的に絶望しなければならないということ」,しかしてその絶望という受難のただ中で「受難の中に隠れていたもう神」の面前へと自力を超えて導かれるということ,それが「十字架の神学」の告げる福音である.<復> 人には,何らかの「真・善・美的栄光」のフィルターを通してでないと神を認めようとしない傾向が執拗に潜んでいる.それゆえ,真に神としてわれわれに出会う神は栄光の内に示されるのではなくむしろ十字架のおぞましいやみに隠された神であると説く「十字架の神学」は,虚無の現実を支え得る唯一の使信であり慰めであると同時に,理性的自己に対してはどこまでも逆説であり,パウロの「十字架のつまずき」(参照Ⅰコリント1:23)でしかない.それだけにルター的「十字架の神学」の生のインパクトは,ともすればすべてを美化し栄光化してしまいがちなわれわれにとっては,おおわれてあることのほうが多いのかもしれない.それは,理論ではなく苛酷な生の現実のただ中に置かれた信仰において,初めてわれわれにおぼろげながらも感受されるものであろう.→ルター,十字架,苦難,義認,罪・罪論,救い.(角川周治郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社