《じっくり解説》聖絶とは?

聖絶とは?

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聖絶…

「聖絶」という語は,新改訳聖書翻訳作業の折,「完全に滅ぼして神にささげる,神のものとして完全に絶ち滅ぼす,人の使用を禁じ完全に神のものとして神にささげる」の意味を表すヘブル語h∵rm(名詞形はヘーレム)の訳語として考え出された造語である.<復> 古代中近東の世界では,しばしば戦争は町や国の神々(主神)の戦いであると理解され,力のある神の君臨する町や国が戦争に勝つと考えられていた.そして町や村の指導者並びに民にとって,神の戦いを戦うことは,敵を完全に滅ぼし尽して神にささげ,神の怒りを発散し,神の威力を見せ付けることであった.<復> 神の戦いにおけるこの敵の殲滅(せんめつ)を,ヘブル語やモアブ語ではh∵rmで表した(「モアブの碑石」17行).Ⅱ歴代32:14には,アッシリヤの王たちによるこの種の行為が言及されている(Ⅱ列王19:11,イザヤ37:11では「絶滅させる」と訳されている).<復> このような古代中近東の文化的背景の中で,聖書は,主こそ異邦の神々とは比べられない絶大な力の主であり(出エジプト12:12,15:11,詩篇97:9等),この主が御民イスラエルのために戦われる(出エジプト14:14,25,申命1:30,Ⅰサムエル25:28,ネヘミヤ4:20,イザヤ30:32等)と主張する.<復> 主の敵は,神である主を押しのけて神に成り代ろうとする偽りの神々であり,その神々を担ぎ上げ奉る異邦の民々である.特に約束の地カナンでは,イスラエルの民を惑わして偽りの神々に心を向けさせる七つの異邦の民が敵になる.主は彼らを容赦なく滅ぼし聖絶するように命じられた(申命7:1,2,20:16,17等).それは御自分の民イスラエルを異邦の宗教から守るためであった(申命7:4,20:18等).<復> しかし「聖絶」されなければならなかったのは,異邦の民ばかりではない.イスラエルの民でも,異教の神々に礼拝をささげたり,いけにえをささげたりする者は,聖絶されなければならなかった(出エジプト22:20).また民を惑わしてほかの神々に心を向けさせようとする預言者や,妻,息子,娘,無二の親友なども必ず殺されなければならなかった(申命13:1‐11).またよこしまな者に迷わされてほかの神々に仕えるようになった町は,イスラエルの町でも聖絶されなければならなかった(申命13:12‐18).神はまた,民全体が異邦の神々に心を向け聖絶されるべき状態に陥った時には,異邦の王を用いてまでも御自分の民を聖絶された(エレミヤ25:3‐10).<復> 以上のことから,聖書における聖絶は,まず第一に,「わたしのほかに,ほかの神々があってはならない.…自分のために,偶像を造ってはならない」(出エジプト20:3‐5)との神の自己主張,十戒(十のことば)の第1,第2戒にかかわることであり,それを破る人への神のねたみであり,怒りの表現であると言えよう.そのねたみ,怒りは「父の咎を子に報い,3代,4代にまで及ぼす」ほどであり,聖絶のものに手を出す者をも聖絶のものにするほどである(申命7:26,ヨシュア6:18,7:1,Ⅰ列王20:42).その最も激しい場合は,すべてを滅ぼし,焼き尽し,町であればその再建も許さない(申命13:16,ヨシュア6:26).従って主の民イスラエルにとって,聖絶とは,ほかの神々とその信奉者及びそれに属する物を主の憎むものとして完全に滅ぼし尽して主にささげることを意味した.<復> 「聖絶」は,また,神の指示によってではなく,人の側から神にささげ,もはや人がそれに手をつけられないものとすることをも意味した.ホルマの聖絶は,主の指示に従ってではなく,主への誓願に基づいてであった(民数21:1‐3).ヤベシュ・ギルアデの住民は,重い誓いを破ったために殺された(士師21:5‐12).人ではなく家畜や物品が誓願や誓いの際に神にささげられて奉納物となった場合,それは聖絶のものとして神の宮のもの,あるいは祭司やレビ人のものになったと思われる(レビ27:21,28,民数18:14.エゼキエル44:29では「献納物」.エズラ10:8もこの類か).レビ27:29の「人であって,聖絶されるべきもの」については,主の戦いの時の捕虜だとか,公的裁判の結果死刑を宣告された者だとか,偶像礼拝をした者(出エジプト22:20)だとか,あるいは誓願や誓いで死に定められた者(士師21:5,11.士師11章のエフタの娘もこの類か)だとかいろいろの説明が試みられているが,どれも定かではない.<復> 聖絶の様相はその場合場合で異なる.最も厳しいのが,よこしまな者に惑わされて異教の神々に仕えるようになった町(申命13:12‐17)とエリコ(ヨシュア6章)の場合で,いのちあるものはみな殺され,すべての物は破壊され,町と略奪物は火で焼かれた.人は何物をも戦利品とすることが許されなかった.エリコの場合,金,銀,青銅の器,鉄の器は主の宮に納められた.またこれと同等あるいはこれに準じるのが,サウルのアマレク征伐の場合で,人も動物もすべて息のあるものを殺すようにとの命令であった(Ⅰサムエル15:3).その他の物品については戦利品とすることができたかどうか,あるいは町を火で焼いたかどうかに関しては言及がない.<復> アイ攻略,シホンの王国とオグの王国の奪取,ハツォルとその同盟軍の打倒などの場合には,家畜と物品は戦利品とすることが許された(ヨシュア8:2,申命2:35,3:7,ヨシュア11:14).申命6:10,11等から推量して,カナン攻略の場合には普通は民の必要に応じて戦利品を取ることが許されたのではなかろうか.そして恐らくこの戦利品のうちから祭司の分とレビ人の分が徴収されたのであろう(民数31:28‐30).この祭司の分とレビ人の分も,民数18:14などで「聖絶のもの」と呼ばれているものに入るのかもしれない.<復> 聖書にはh∵rmという語が使われていなくても,内容的にはh∵rmと同じものが記されていると思われる箇所も数々ある.「ヨシュアはその全土,すなわち山地,ネゲブ,低地,傾斜地,そのすべての王たちを打ち,ひとりも生き残る者がないようにし,息のあるものはみな聖絶した」(ヨシュア10:40.その他11:12,16,17,20,21)などの表現から,カナン攻略の時には,いずれの戦いの時にも敵は聖絶された,少なくとも聖絶されるべきであった,と言えよう.従って,たとい直接にはh∵rmという語が使われていない箇所であっても,カナン攻略の戦いで「滅ぼす」の意の類語が使われていれば「聖絶」と理解すべきであろう.また民数31章に記されているミデヤン人への主の復讐の記事にも,「聖絶」ということばは使われていないが,エリコ攻略の時と同様にラッパを手にした祭司が戦に送られている.これはこの戦いが人の戦いではなく神の戦いであることを強調する表現で,神の戦いであれば当然「聖絶」ということばが使えるだろう.この戦いの時は大人も子供も男はみな殺され,男を知った女もみな殺されたが,男を知らない女だけは生かしておかれた.<復> 聖絶は神の命じられたようには必ずしも行われなかった(ヨシュア15:63,17:12,士師1:19‐35等).聖絶を免れた人たちは,ソロモン王の時代に奴隷とされ(Ⅰ列王9:21),エズラの時代にもその子孫が一つのグループを成していた(エズラ2:55「ソロモンのしもべたちの子孫」).<復> エズラ10:8では,つかさや長老たちの勧告に従って出頭しない者は,その財産が聖絶され(恐らく「没収」の意.参照エズラ7:26),イスラエルの会衆(集団)から切り離されることになっていた,と言われている.「聖絶される」と「会衆から切り離される」を同義並行と解釈できれば,この場合,人の聖絶はイスラエル人の社会からの追放(エズラ7:26)を意味することになる.後にユダヤ教社会では,この意味での聖絶が行われていたようである.<復> 70人訳での「聖絶」の主要訳語[ギリシャ語]アナセマは,新約では主として強いのろいを表す語として用いられている(ローマ9:3,Ⅰコリント12:3,16:22,ガラテヤ1:8,9).ローマ9:3では「キリストから引き離される」ことがのろいであると言われている.このほか,[ギリシャ語]アナセマはルカ21:5では「奉納物」,使徒23:14では「誓い」の意味で用いられており,いずれも旧約のh∵rmから派生した意味を担っている.→のろい,アナテマ.<復>〔参考文献〕「聖絶」『新聖書・キリスト教辞典』いのちのことば社,1985;Greenberg, Moshe, “H∵EREM,” Encyclopaedia Judaica, Vol.8, pp.344—50, Keter, 1978 ; Wood, Leon J., “h∵a~ram,” Theological Wordbook of the Old Testament, Vol.1, pp.324—5, Moody, 1981.(松本任弘)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社