《じっくり解説》敬虔主義とは?

敬虔主義とは?

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敬虔主義…

特定の教理を信じたり特定の教会秩序を遵守したりすることにではなく,むしろ個人の敬虔な内面的心情とそれに基づいたキリスト教的実践とに信仰の本質を見る信仰的立場を言う.キリスト教的生の,個人個人における具体的かつ実際的なあり方そのものを何よりも重視する立場とも言える.そのような傾向自体はキリスト教史を通じて幾度となく見られるが,それが一つのはっきりとした主義・運動として現れたのは,「敬虔主義の父」とも呼ばれるドイツのフィーリプ・ヤーコプ・シュペーナー(1635—1705年)においてである.宗教改革に端を発したルター主義も,17世紀頃になると,教理の知的で厳格な体系的組立とその知的な受容とに重点が置かれ,「プロテスタント版スコラ主義」の様相を呈していた.ルターの説いた信仰者の主体的な神関係に代って,特定の教義体系を全体として受け入れることが信仰だと見なされた.教会のエネルギーは,従って,純粋な教義の確立と保持に費やされ,おおかたの信徒の信仰生活も,専ら教義を信じつつその解釈としての礼拝説教に耳を傾け,後は聖礼典にあずかるのみといった受動的なものに終始していた.このような風潮に反旗をひるがえすかたちで,キリスト教的実践と体験を重視しつつ一般信徒の積極的役割と俗世間から超脱した禁欲的生活の必要性とを説いたのがシュペーナーであった.彼は上エルザスのラポルツヴァイラーの敬虔な法律家の家庭に生れ,十代の後半にストラスブール大学で神学を学びルターに親しむ一方,その後ジュネーブへの留学やバーゼル及びテュービンゲンへの遊学を通じてカルヴァン主義的改革理念にも親しみ,ピューリタン思想の影響をも強く受けて,化石化したルーテル教会革新のため,厳粛な罪意識と福音的信仰に根差した真に実践的なキリスト教の樹立を図りたいとの念願を抱くに至った.ストラスブールの大聖堂自由説教者としての年月の後,1666年31歳で商業都市フランクフルト・アム・マインのルーテル教会主任牧師となった彼は,かなりの制約を受けつつも早速教会の改革に着手し,厳格な教会規律の施行と堅信礼の確立に努力する一方で,互いのキリスト教信仰を深めるために一般信徒同士が定期的に集まることを提唱した.1670年彼は「コレギア・ピエタティス」(敬虔なものの集い)の名のもとにそのような集会を自宅で始め,週2回集まって祈ったり礼拝説教の内容について話し合ったり聖書を読み合ったりした.「敬虔主義」の名はこれに由来する.1675年シュペーナーは『ピア・デシデリア』(敬虔な願い)という文書において教会改革の実際的なプログラムを公にした.その中で彼は,ルーテル教会の霊的衰退の原因として,教会が貴族諸侯に牛耳られていること・一部聖職者の堕落した生活態度・血の通った信仰に代って冷たい教理が説かれていること・一般信徒の不道徳で自己中心的な生活ぶりなどを挙げ,改革案として,まず「教会内小教会」とも言うべき上記の一般信徒集会の必要性を説いた上で,信徒一人一人があらゆる機会を通じてもっと聖書に親しむこと・ルターの「万人祭司」思想を生かすべく一般信徒がもっと教会のわざに参与すること・単なる知識ではなくキリスト教的実践を重んじること・教義的論争などは極力控えむしろ信仰や立場を異にする人々への愛を深めること・学問もさることながら敬虔や献身を重んじた牧師教育を行うこと・学問をひけらかすための説教ではなく実際に信徒の信仰の向上に役立つような説教を行うことなどを提唱した.彼の提言は大きな好意的反響を呼ぶとともに,一方では当時のルター派正統主義からの激しい批判にさらされることにもなった.教義よりも心情を重視するシュペーナーの立場は反知性主義・主観主義へと転落しかねないものであったし,義認よりも禁欲的「再生」に重きを置く神学的立場は,確かに本来のルター主義とは異質なものを宿していたからである.「教会内小教会」の提唱も分派主義的として警戒された.1686年シュペーナーはドレスデンの宮廷牧師の要職に招かれ,自身の理念をザクセンの貴族社会やライプチヒ大学に広めることができたが,宮廷文化やザクセン選帝侯の飲酒癖などを批判したことで反感を買い,結局1691年ブランデンブルク選帝侯の招きでベルリンに移住し,終生そこに滞在した.<復> ドレスデン時代にシュペーナーは,当時ライプチヒ大学の講師であり後に敬虔主義運動における彼の実質上の後継者となったアウグスト・ヘルマン・フランケ(1663—1727年)と知り合っていたが,1690年代初頭にブランデンブルク侯がハレに大学を創設した際,尽力してフランケのためにハレ大学の教授職とハレ郊外のグラウハでの牧師職を用意した.フランケは,ライプチヒ時代にシュペーナーの影響のもとに,劇的な回心の体験を経て敬虔主義に全面的に帰依し,敬虔主義運動の積極的な展開を図ったが,そのためにライプチヒ大学や市当局と対立するに至った.その後エルフルトで牧師となったが,そこでもまた同様の対立を巻き起し,追放の身となっていたのである.ハレ大学着任と同時にフランケは,早速敬虔主義の具体的実践へと乗り出し,牧会面・教育面の両方にわたり目覚しい活躍をなして,ハレは一躍敬虔主義の拠点となった.「真の愛の一滴は知識の大海よりも尊い」という主張のもとに彼は,大学教授のかたわら養護施設や貧しい人々のための学校などの慈恵施設を初め,市民学校・師範学校・印刷工場・療養所・聖書協会などの設置を精力的に手がけた.また,国内伝道のみならず国外伝道をも熱心に促進し,若い伝道者を海外各地に送り出して,プロテスタント教会による海外宣教の先駆者となった.<復> ルター派教会の霊的枯渇化・形骸化に抗して教会の内的覚醒を促すためにシュペーナーによって始められた敬虔主義運動は,フランケのこうした超人的な実践活動において一つの頂点を迎えたのであるが,同時に,回心体験を余りにも重視したり偏狭な律法主義や反知性的な教育方針を固持したために,フランケの没後は徐々に下火となった.しかし,ドイツはもちろん各国の教会に与えた影響は計り知れず,その直接の感化は19世紀にまで及んでいる.西南ドイツのヴュルテムブルクでは,市民や農民の中に根を張った独自の敬虔主義が,ヨーハン・アルブレヒト・ベンゲル(1687—1752年)を中心に教会当局と摩擦を起すことなく静かに発展し,学問性と高い霊性に裏付けられた良い意味での聖書主義が生れていた.また,シュペーナーの名付け子でありフランケに学んだザクセンの貴族ツィンツェンドルフ伯爵は,熱心な敬虔主義者としての立場から,いわゆる「モラビア兄弟団」—フス派から出たボヘミア兄弟団直系の一派で,自分たちの信仰のゆえに故郷を捨ててチェコスロバキアのモラビアをおもな定住地としたためそう呼ばれた—を自領に保護し,30年戦争で壊滅的打撃を受けていたその組織の再興を助けた.1722年モラビア派はヘルンフート(主の守り)という集団をつくり,27年にはモラビア派教会を建設し,37年に伯爵自身がその監督となった.教団は創立に伴う様々の困難を乗り越えて,伯爵の存命中に独立教会としての確立と国家の承認とを得た.モラビア派は,聖書のみに基づいた信仰に立ち,厳格な信仰規律のもとに生活そのものをキリスト信徒の交わりの場となそうとした.また国外伝道にすこぶる熱心であり,すでに18世紀前半にはアメリカを初め西インド諸島やグリーンランドにまで宣教師を送り出していた.その関連で,英国圏のキリスト教にとって特に意義を持つのは,メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスリ(ウェスレー)が1735年アメリカのジョージアへの旅の途中モラビア派の一団と知り合い,さらに1738年にヘルンフートを訪ね,彼らとしばらく生活を共にしてモラビア派敬虔主義の感化を強く受けたことである.敬虔主義運動はさらにノルウェー,スウェーデン,デンマークのルーテル教会にまで浸透して人々の間に強い霊性意識と内的覚醒とを呼び起すとともに,アメリカのドイツ系移住民などにも強い影響を及ぼした.また文化的にも敬虔主義は,その宗教的個人主義と精神主義及び教義的束縛からの自由などにおいて啓蒙主義への備えをなしたのみならず,カント,ゲーテ,シュライアマハー(シュライヘルマッハー)などの思想家にも影響を与えたと言われ,近代への橋渡し的役割をも果している.<復> 総じて敬虔主義は,回心体験の極端な重視を初め主観主義・心情主義や反知性主義また禁欲的律法主義に堕する危険を確かにはらみながらも,聖書を中心にした信仰生活の大切さを説き,教会における一般信徒の役割を強調し,伝道への熱意を常に促してやまない点などにおいて,大きな貢献をなしたと言える.実際わが国のプロテスタント教会のほとんどが,その教会運営・信仰生活の両面において今も敬虔主義の強い影響下にあると見られている.21世紀に向けての教会像も,キリスト者の生における敬虔主義的要素をどう評価していくかとの問題と深くかかわっていると言えよう.→シュペーナー,フランケ,信徒運動.(角川周治郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社