《じっくり解説》按手とは?

按手とは?

スポンサーリンク

按手…

1.按手の意味.<復> 手を置くという行為が意味するものは,次のように大別されるであろう.<復> (1) 祝福すること.族長ヤコブがエフライムとマナセの頭に手を置き,祝福のことばを述べる(創世48:14).人々がイエスのみもとに子供たちを連れて来て,主の祝福にあずかる(マルコ10:13‐16)等.<復> (2) 罪の転嫁.レビ記の規定によると,全焼のいけにえ(1:4)も,和解のいけにえ(3:2)も,罪のためのいけにえ(4:4)も,いけにえをささげる人はいけにえの上に手を置く.それは身代りを意味する行為であり,罪・罪責はその行為によりいけにえの側に移る.個々人の場合だけでなく,贖罪の日には大祭司が民のすべての罪のために,生きているやぎの頭に両手を置き,その上にイスラエルの民の罪を告白し,その後やぎを荒野に放った(レビ16:21).御名を冒涜した男を石打ちで処刑する時,そののろいのことばを聞いた人々がすべて,彼の頭に手を置いたということ(レビ24:14)も,やはりこの範疇に入るだろう.<復> (3) 相続,任職.例えば,モーセが後継者ヨシュアの上に手を置いた(民数27:18‐23).初代教会最初の国外宣教とも言うべき,アンテオケ教会でのバルナバとサウロへの任職(使徒13:1‐3)等.いずれの場合も単なる儀式ではなく,任職による霊的能力,賜物の賦与が語られている.新約で制定されたバプテスマ(洗礼)において,三位の神の御名によって按手が行われることは,それによって教会の肢体として結び合される意味が込められるが,同時にこの範疇における意味合いを持つものとしてよいだろう.<復> (4) いやし.いやしに際しても,手を置くという行為が聖書には多く記されている.これは何と言っても主イエスにおいて,一番多く記録されている.ヤイロの娘のいやし(マルコ5:23,41),耳が聞えず,口がきけない人のいやし(マルコ7:32,33)等.また,使徒たちによっても力あるわざが,彼らの手を通して現された(使徒3:7,19:11等).<復> (5) その他.そのほかの例として,仲裁の手を置く(ヨブ9:33)など,興味深い用法がある.<復> そもそも「手」ということばの意味するところは,文字通りの身体の器官としての「手」である以上に,所有とか,強さ・力とか,支配を表すもので,その点では聖書言語としてのギリシヤ語,ヘブル語も例外ではない.それゆえ上記の5分類も便宜的であり,手を置く・按手には,これらが総合的にかかわっていると考えたほうがよいだろう.<復> 2.任職.<復> さて,「按手」が教会の歴史において,特に神学的な問題とされるのは,1.(3)の意味合いにおいてである.「手を置くこと」([ギリシャ語]エピセシス・トーン・ケイローン,[英語]The laying on of hands)とは別の,もう一つの表現であるギリシヤ語のケイロトネインは,ごく具体的,日常的にある人物を「指名すること」を意味する(使徒14:23,Ⅱコリント8:19).元来この語はある人物を指さすために,あるいはある人物に投票するために手を差し伸べる動作を表していたが,実際の用法は,ただ「任命する」以上のことを意味する必要はないとされる.他方,ラテン語オルドー,オルディナーレ(そこから英語のOrdinationが来る)という語は,ローマ法に由来する語で元来は,普通の市民から区別されるようなある特別な社会階層に属する資格を表す概念である.「任職」による聖別という意味合いが込められると言えよう.<復> 任職による聖別を秘跡にまで高めているのが,ローマ・カトリック教会である.そこでは聖職按手式は叙階式また叙品式と言い,原則として司教(主教)の按手を条件とし,それによって受領者に聖霊と,生涯消えざるカラクテル・インデレビリス(霊魂に消えざる刻印)が与えられる.ローマ・カトリックの教理によれば,聖職者と一般信徒の間にははっきりした境界線が引かれ,ただ司祭だけが救いの流れを人々に伝達するのである.司祭なくしては,何人といえども救いにあずかることはできない.司祭職の絶対的必要性と存在の大きさが,このことからもうかがえよう.任職による刻印は,いかなる場合にも保持せられ,たとい受領者が罰を受け,聖職剥奪により一般信徒の身分に戻されても変ることがないというほどである.<復> これに対し,プロテスタントの教会は任職の式をサクラメント(礼典)とは考えない.しかし,一般のキリスト者においてひとたびの洗礼が大きい意味を持つように,教職にある者にとってはひとたびの任職が大きい支えとなることは,強調しても強調しすぎることはない.それゆえ,任職がサクラメントに近い性格を有することは認められよう.<復> ただしここで(洗礼の場合と似たことであるが),主観的な召命の確かさを伴わない按手礼が存在し,また逆に按手礼を伴わないあかしへの召命の確かさが存在する,と言われる.そして実際には,任職に伴う約束は按手にかかっており,主観的な召命の確かさにかかっているのではないことを知る時,改めて「按手」の行為を,信仰によって受け止めねばならぬことを知らされる.それゆえに,誰でも按手礼を受けた後では,召命の確かさを抜きにして約束を求めてはならない.それは信仰を抜きにして礼典にあずかるようなものである.そのような者は,職務を通してのろいを感じ取るだけで祝福を得ることはできない.他方,按手の客観性の上にあぐらをかき,職務の遂行に不忠実,怠慢である者,しかもそれでいて良心に痛みを感じない者はさらにひどいさばきに相当する.<復> ボーンヘファーは次のように言う.「主観的な召命の確かさとは何か.逆説的ではあるが,それは人はこの職務には全くふさわしくない者であり,自分の信仰に関しては全く召されていないことを知ることである.自分をふさわしいと考えるものは,すでに第一の前提が欠けていると.召命の確かさは,主は私を必要としておられるという気負いや自己確信,自尊心と何の関係もない.ルターは『主よ,わたしはふさわしくない者です.…しかし人々が教えを必要としていますから』という言葉をもって講壇からの祈りを始めたという.しかしこのような否定的側面と共に,積極的な面としては,職務に対する,教会に対する,福音に対する真実の愛が存在している」.<復> 任職の按手は通常,一定の試験を経た者に訓戒を与え,誓約の後行われている.その際,諸条件として挙げられるものは,次のようなものである.(1)任職への召命の確信.これは彼自身の個人的な祈りや内省を通じての自覚,家族や友人,教会,神学校から与えられる忠告や励ましなどによる.(2)教会からの推薦.彼自身の思い込みでなく,客観的なあかしが求められる.彼の働きの第一の場は教会である.(3)聖書と神学,社会と人間の現実についての十分な理解があること.知識のない熱心は,この尊い使命の遂行に不十分である.(4)職務遂行のための誠実さ,信頼性,その他基本的な賜物を備えていること.これは生涯,問われ続けるものである.(5)教会共同体の中で調和をもって行動できること.<復> 任職された教職の主要な責任は,神のことばの宣教と教育,聖礼典の執行,祈りのわざへの専念である.言うまでもなく,任職された教師の権威はイエス・キリストに由来する.キリストはそれを父なる神から受け(マタイ28:18),任職の按手によって教師に委託する.按手を受けた教師は,その権威を彼個人のものと考えてはならない.キリストのからだである教会の協力のもとに,教会のために行使するのである.従って,任職の式は,按手される教職者に,地域教会(ローカル・チャーチ)と普遍的教会(ユニヴァーサル・チャーチ)との新しいかかわりの中で,聖霊の力が与えられるように祈る式と言えよう.そして教会と教職者とは改めて,召して下さったイエス・キリストに献身するのである.<復> キリストにあっては男子も女子もない(ガラテヤ3:28)ということから,近年婦人たちが制度的に位置付けられた教会の職務につくことを認めるかどうか,議論が分れてきている.婦人への按手を肯定する側は,婦人たちの賜物が男性のそれと同じように広くかつ多様であり,婦人たちの担う教会的職務が男性のそれと同じように,聖霊の祝福に満ちていることを見出してきた.他方,女性の任職を認めない教会は,過去2千年に及ぶ長い歴史の中で,婦人を任職しないできた伝統の重みを簡単には無視できないと考えている.→婦人の任職.<復>〔参考文献〕Kittel, G./Friedman, R., Theological Dictionary of The New Testament, Eerdmans, 1976;『洗礼・聖餐・職務』日本基督教団出版局,1985;W・ニーゼル『福音と諸教会』改革社,1978;D・ボンヘッファー『説教と牧会』新教出版社,1975;『キリスト教大事典』教文館,1963.(下川友也)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社